もうすぐ終戦の日。本土決戦こそ行われなかったものの、原爆が投下された広島や長崎は語るまでもなく、今なお、全国各地で戦争の爪あとが残っている。そうした中で、ご自身が住んでいる街にも、時の経過とともに埋もれかけているような悲惨な話がないだろうか?私の地元である市川にも、そんな忘れられてはいけない話がある。戦争の悲劇を風化させないためにも、自分の住んでいる地域の話を一人ひとりが記憶に留めることは大切と思う。
その話とは、終戦直前、数百頭の馬が「ガス壊疽」の血清を作るために、生きたまますべての血を抜かれた──という実際にあった話だ。作業の手伝いをさせられたのが、当時、勤労動員されていた12~13歳の中学生。各地から"お召し"された多くの馬の血を抜いて殺したのだ。"お召し"というのは、当時は兵隊の"赤紙"と同じく、馬にも召集令状が来たからである。
ガス壊疽は、戦場で多くみられた筋肉などが壊死する細菌感染症の一種。中山競馬場に疎開していた陸軍軍医学校で「本土決戦に備え10万リットルのガス壊疽血清を製造せよ」という命令からその作業が行われた。
集められた馬は、まず、ガス壊疽菌の注射を打つ。抗体ができ次第、順次、採血していくことになるが、血を抜くと言っても馬の貴重な資源。1頭の馬も無駄にはできないので、いきなり殺すような抜き方はしない。少しずつ血を抜き、やがて弱ったところで全採血し、最終的に馬を殺すことになった。
実際に勤労動員として、全採血を行った経験がある佐野より子さん(千葉県習志野市在住)によると「男子が馬の4本の脚を縛って横倒しにし、軍医が頚動脈を切ってT字管を挿入、女子はシリンダーに血を流し込んだ」という。そして1滴でも無駄にできないということで「男子が馬の上で飛び跳ね、踏みつけて血を絞り出した」そうだ。班ごとに作業を行ったが、全採血は班ごとに1日に2~3頭行ったとか。終戦までに、100頭以上の馬が全部の血を抜かれて殺されたと推定されている。
終戦間際のこの時期、少女たちは設立されようとしていた少女予科練を目指そうと、休み時間には腕立て伏せを20回、30回とやって身体を鍛えるなど頼もしく、逞しかったのだが、そんな彼女たちも馬の血を見るのは怖く、最初に全採血をした時は震えながら作業をしていた。だが、「恐ろしくても、『嫌です』とは口に出してとても言えなかった」という。
佐野さんによると、こうして作られた血清がどのくらい役立ったのか、また、本当に戦地に送られたのかはわからず、今でも疑問に思っているそうだ。そして「絶命する時の馬のいななきが今でも耳に残っている。若い人たちに、絶対にこんなことをさせたくない」と話す。
隔年で行われている市川市民ミュージカルにて(今回は9月4日、市川文化会館で開催)、この実話をもとにした「夏の光」を上演する。筆者は、このミュージカルのほか、かつて軍都だった市川に残された数少ない戦時遺産である赤レンガ建造物の保存運動に関わっているが、こうした事実を知っている者が"事実"を語り継いでいくことが、とても重要だと思っている。