天安門事件とテレサ・テン

天安門事件によって、どれだけ多くの人の運命が変わったのか想像がつかないが、テレサ・テンもまた、その劇的な時代の渦に自ら飛び込み、結果的に人生が翻弄された1人である。

天安門事件が起きた6月4日が過ぎて、中国政府は先月から身柄を拘束していた数人を釈放した。このなかには、元社会科学院研究員・徐友漁、日本経済新聞重慶支局の助手の女性なども含まれているが、弁護士の浦志強はまだ釈放されていない。1カ月強の拘留期限まであと1週間を切っている。どうやら、当局のターゲットは周永康問題を取り上げていた浦志強だった可能性がある。浦志強が釈放されるかどうか、引き続き注目していきたい。

これとは別に、天安門事件の日を迎えるたびに思い起こすのが、テレサ・テンのことだ。

天安門事件によって、どれだけ多くの人の運命が変わったのか想像がつかないが、テレサ・テンもまた、その劇的な時代の渦に自ら飛び込み、結果的に人生が翻弄された1人である。

1989年5月27日、香港のハッピー・バレーで開かれた「民主の歌声を中華に捧げよう」という集会に、メークなしの「民主万歳」と書かれたはちまき姿で登場したテレサ・テンは「私の家は山の向こう」という歌を歌った。爆発寸前の深い感情を抑えつつ、美しい情感をこめて歌い上げた歴史的なシーンである。いまでもその映像がYouTubeで見られるので、ぜひ見て欲しい。AKB総選挙のような計算された演出の感動ではなく、本当に感動させられる。

80年代後半に日本のレコード界をほとんど完全制覇してしまったテレサ・テンは、人生の次の目標として、天安門広場で歌うこと、つまり中国大陸の聴衆とつながることを願っていた。具体的な計画もあったらしい。

テレサ・テンに詳しい作家の平野久美子さんの講演を最近聞いたのだが、テレサ・テンはもともと香港の集会に参加する予定はなかったが、テレビを見ているうちにいても立ってもいられず、スタンレー(赤柱)の自宅から、ほとんど衝動的にステージに駆けつけたという。

このときのテレサ・テンの行動に対して、当然、中国政府は大陸進出を認めなくなり、テレサ・テンも民主化までは中国で歌わないと誓った。それでも、このときの大きな衝撃によって、テレサ・テンは戦車が迫ってくる悪夢を見るようになるなど精神的に追いつめられ、中国という土地から逃げるようにパリに渡り、14歳年下のフランス人のボーイフレンドとの生活を楽しんだが、やがて体調を崩して、42歳の若さで他界するのである。

来年はテレサ・テンの没後20周年を迎える。天安門事件の「平反(再評価)」が実現したときは、テレサ・テンの香港でのステージが本当の意味で伝説に生まれ変わる日になる。来年実現する確率は低いだろう。しかし、いまや世界を恐れさせる存在になりつつある中国の習近平国家主席にとって、世界の信用を勝ち取るうえで最もコストの低い方法は天安門事件の再評価だということに気づいて欲しいと願うのは私だけではあるまい。

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野嶋剛

1968年生れ。上智大学新聞学科卒。大学在学中に香港中文大学に留学。92年朝日新聞社入社後、佐賀支局、中国・アモイ大学留学、西部社会部を経て、2001年シンガポール支局長。その後、イラク戦争の従軍取材を経験し、07年台北支局長、国際編集部次長。現在はアエラ編集部。著書に「イラク戦争従記」(朝日新聞社)、「ふたつの故宮博物院」(新潮選書)、「謎の名画・清明上河図」(勉誠出版)、「銀輪の巨人ジャイアント」(東洋経済新報社)。

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(2014年6月10日フォーサイトより転載)

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