1月7日に起きたフランスの連続テロは、何より言論機関が襲撃の対象となった点で、大きな衝撃を持って受け止められた。日本ではその後、過激派組織「イスラム国」による日本人の人質殺害事件にニュースの焦点が移ってしまった感があるが、地元フランスでは現在も議論と検証が続いている。事件を起こした容疑者らの生い立ちも、次第に明らかになってきた。
容疑者らは、イスラム過激派や原理主義との接点を最初から持っていたわけではない。宗教とは縁遠い少年時代を過ごし、次第に過激思想に絡め取られていった。その過程を探ることで、テロリストが誕生するメカニズムを明らかにできないだろうか。
現地の報道をもとに、容疑者らの軌跡を追った。
のどかな村の孤児院
フランス中部のリムーザン地方コレーズ県は、国内でも最も地味な県の1つだろう。森と湖に囲まれ、自然は豊かだが、どこまで行っても山ばかり。これといった産業もなく、著名な観光地や史跡、記念物にも乏しい。外国人観光客の姿など、まず見かけない。
それでも、この県名をほとんどのフランス人が知っているのは、シラク元大統領、オランド現大統領の地元であるからだ。シラクはパリの出身だが、先祖がこの地方と関係があり、総選挙に立候補する際にここを選挙区として選んだ。県内のサラン村にある城館を購入して居と定めた。
オランドはノルマンディー地方の出身で、コレーズ県に何の縁もないが、やはり総選挙に立候補する際の落下傘先としてここを選んだ。シラクに挑むことで名を成そうとしたからだといわれる。元現大統領とも頻繁に里帰りをし、地元の人々との交友関係を築いてきた。
この県の北部にトレニャックという村がある。かつて通じていた鉄道は1970年に廃線となった。人口は1400足らず。ただ、町村合併の進んでいないフランスでは、ちょっとした街の風情を醸し出す人口規模でもある。渓谷に沿った斜面の街路に、いくつかのカフェやブティックが並ぶ。中世風の家並みと渓谷美からミシュランの旅行ガイドにも掲載され、夏にはハイキング客らがやってくる。
村の中心部から西に向かう街道レオン・バシェ街6番地に、周囲よりやや立派な3階建ての建物がある。庭が広く、低い石垣も残ることから、元々は城館として建てられたのだろう。ここに、クロード・ポンピドー財団が運営する孤児院が入居している。身寄りのない子どもたちが集団生活を営み、地元の学校に通う。
週刊新聞『シャルリー・エブド』編集部を襲撃し、記者や風刺画家、警備の警察官らを殺害した後、立てこもりを起こして最終的に射殺された容疑者サイード・クアシ、シェリフ・クアシの兄弟は、ここで少年時代の6年間を過ごしていた。
幼時に両親と死別
クアシ兄弟の両親は、アルジェリア第3の都市コンスタンティーヌの出身で、パリに渡って移民の多い北東部の線路際の集合住宅に住んだ。そこで1980年に長兄サイード、81年に長女アイシャ、82年に次兄シェリフが生まれた。その下にも弟妹がおり、兄弟は計5人になった。父モクタルは91年に死去。母フレイハはアイシャと下の2人の子どもをパリの自宅で育てる一方、サイードとシェリフを1994年、トレニャックの孤児院に預けた。2人は時々、パリに出て母に会っていたが、母は失業したうえに病気も患い、苦しい生活を続けていた。
1995年、母フレイハも亡くなった。父親の異なる一番下の妹だけがノルマンディー地方の家庭に引き取られ、残る4人はトレニャックの孤児院で暮らした。入居者には中国系、アフリカ系、ユーゴ内戦を逃れた子どもらも多く、人種差別とは無縁だった。大都市の移民街に比べると恵まれた生活ぶりで、小遣いやクリスマスプレゼントが用意され、映画館に繰り出すこともできた。キャンプに参加する機会も年3回あり、そのたびに海辺やアルプスに入居者でそろって出かけていた。クアシ兄弟も暮らしには満足していたようだと、当時の同居者らは地元メディアに語っている。
物静かとおちゃらけの兄弟
サイードとシェリフは対照的な性格だった。兄サイードは物静かで、内向的で、勉強熱心だった。仲間たちの尊敬を集める人物で、優しげな眼をしていた。もっとも、彼は運転免許の取得に支障が出るほど視力が弱く、柔らかい視線もそのせいだった可能性がある。性格は臆病である一方で、かたくなな面も持っていた。酒もたばこもやらず、移民系ではないステファニーという名のガールフレンドと何年もつきあっていた。一般的に、この地方を含めたフランスの中部から西部にかけては、肌の色や民族で人を差別する意識が薄い。移民系と地元の男女がつきあうのも、ごく普通だった。
弟シェリフは陽気で、おちゃらけだった。プロのサッカー選手を夢見て、いつもボールで遊んでいた。サッカーの腕前は相当なもので、地元クラブの指導者が「将来はプロとしてやっていける素質がある」と期待するほどだった。中学の時には級長に選ばれたが、一方でたばこに手を出し、ビールをたしなみ、女の子を手当たり次第に追いかけた。
「2人とも問題を起こしたことはありません。こんな事件になるなんて信じられない」。当時施設で一緒に暮らした男性は、地元紙『ラモンターニュ』にこう漏らしている。2人が通った中学校の教師も、『フィガロ』紙に「ごく普通の生徒で、地元社会にすっかりなじんでいた」と語った。
おとなしいサイードは、一度だけ激高したことがある。サッカーをしている最中に、相手チームの選手から母親についてからかわれたことが原因だった。涙を流し、真っ赤になった。相手を殺しかねないほどの怒りようだったという。
「サイードは優しく、賢い男でした。でも、彼にとって母親の思い出は、とてつもなく辛いことだったのでしょう。母に関する話はタブーだったのです」
サイードと同室だった男性は、『ルモンド』紙にこう証言した。
イスラム原理主義の叔父
中学卒業後、兄サイードは料理人を目指して、ポンピドー財団に所属する料理学校に通った。当時の授業風景の写真が残されており、サイードはコック帽をかぶり、まじめそうな表情で料理台に向かっている。どこのレストランにもいる見習いコックのように見える。
少年の頃に宗教と無縁だったサイードは、しかしある時期から、料理書とともにコーランを手にするようになった。部屋の隅で礼拝をし、ヘッドホンでコーランの朗読を聴き、会話の中心を宗教の話題が占めるようにもなった。その変貌ぶりに周囲は驚いた。
弟シェリフは中学で1回落第した後、サッカーのスポーツ推薦のような形で、地方の中心都市リモージュ近くの高校に入った。電気技術が授業の中心だったが、1年目でついていけなくなった。落第してやり直すよう勧める周囲の言葉を振り切って、彼は退学した。この頃から、彼も振る舞いが攻撃的になった。
2人の変化の背景に、叔父にあたるモハメドの影響があったと、周囲は指摘する。モハメドは母フレイハの兄弟にあたり、イスラム原理主義的な傾向の強い男だった。1999年以降、施設の許可を得て週末や夏休みなどに兄弟らをパリの自宅に迎えるようになった。
叔父のもとには、サイードの妹でシェリフの姉にあたるアイシャも出かけたことがある。アイシャは小柄で、ミニスカートが似合う魅力的な少女だったという。彼女はある日、打ちひしがれて叔父のもとから戻ってきた。ルモンド紙は、そこで何かトラブルが起きたことをほのめかしている。「モハメドはアイシャと結婚したがっている」との噂が広がった。この出来事を受けて、裁判官が兄弟らとモハメドを審問に呼び出した。白装束でやってきたモハメドは、兄弟らを招く権利を返納 した。
翌2000年、サイードとシェリフは孤児院を出た。サイードはすでに成人の18歳を迎えていたが、料理学校を終えるまで、との条件でしばらく孤児院で生活を続けていた。サイードが卒院して5カ月後、シェリフも成人に達するのを待ち構えていたかのように、孤児院を離れた。2人とも、しかし 行き先はモハメドのもとだった。以後、施設への連絡はない。
「叔父から悪い影響を受けている」
パリで、サイードは料理人として働いた。シェリフはピザの配達などをした。シェリフはマリファナを頻繁に吸うようになった。
田舎での集団生活のぬるま湯につかっていた2人にとって、都会の生活がもたらした精神的な負担は相当のものだっただろう。サイードとシェリフの意識に、唯一の身内である叔父にすがる気持ちが芽生えたとしても、不思議ではない。2人は次第に、イスラム原理主義に染まっていった。
残る2人の姉弟のうち、下の弟は、末の妹がもらわれた養家に引き取られていった。アイシャは孤児院にとどまり、地元トレニャックの青年とつきあっていた。青年の母親が経営する湖畔のホテルで、ウエートレスとして働いた。そこに、すっかり叔父に感化されたサイードとシェリフが介入した。フランス人、つまりイスラム教徒以外の男とつきあうのは許さない、というのである。孤児院にいた頃にフランス人の女の子を追いかけていた自分たちの経験はそっちのけだ。イスラムに関心の薄いアイシャはこれを拒否し、兄弟から逃れようと、ボーイフレンドと一緒に別の街に引っ越した。兄弟が叔父から悪い影響を受けていると、アイシャは周囲に漏らしていたという。
しかし、逃避行は長く続かず、ボーイフレンドと別れたアイシャは兄弟に連れ戻された。ヴェールを身にまとうよう強いられ、最終的にシェリフの義理の兄弟と結婚させられたと、ルモンド紙は伝えている。
「死にたくなかった」
2003年頃から、サイードは叔父の家に近いモスクに出入りするようになった。この年に起きたイラク戦争が、サイードに大きな影響を与えたようだ。
モスクでは礼拝の前後、若者たちが絨毯のうえで車座になり、日々の出来事などを語り合う。そこでサイードは、ファリッド・ベニエトゥーという名の説教師と出会った。ベニエトゥーはアルジェリア移民2世で、当時まだ22歳だった。細面、色白で、大きな眼鏡を掛けた容貌は、文学青年かアニメおたくを思い起こさせる。実際は、イラク・アルカイダ機構の幹部アブムサブ・ザルカウィとつながりを持ち、戦闘員や自爆テロリスト候補をイラクに送り出す役を担う人物だった。後に、本拠地の近くにある公園の名前にちなんで「ビュット・ショーモン筋」と呼ばれる過激派組織を統率し、捜査当局からマークされるようになる。
サイードは、モスクを訪ねるたびにベニエトゥーと話し込み、やがては自宅にも頻繁に出入りするようになった。サイードに促されてシェリフも通うようになり、サイード以上に感化された。2人はすでに、2004年には自爆テロを志願するようになっていたと、フランス捜査当局は考えている。シェリフはベニエトゥーに心酔し、パリでユダヤ人の商店を襲うテロの実行を進言するまでになった。もっとも、これはベニエトゥーの受け入れるところとならなかった。
ルモンド紙が得たアイシャの証言によると、このころの兄弟はすでに、カルトに絡め取られているように見えた。イスラム教徒以外への嫌悪感を抱くようになっていたという。
2005年1月25日、朝6時45分パリ発のアリタリア機に乗ろうとしたシェリフは、その直前に、当局に身柄を拘束された。テロ攻撃に参加するため、イタリア経由 でイラクに向かうはずだった。イラクのアブグレイブ刑務所で起きた米兵による収容者の虐待事件に関するビデオを見せられたことが、彼を突き動かしたという。
もっとも、拘束されたシェリフはほっとした様子で、当局者に「死にたくなかった」と漏らしたと伝えられている。「でも、怖じ気づいたら弱虫のレッテルを貼られてしまう。だから、行くとこまで行ってやれ、と思った」
どうやら、この時点ではまだ、彼に殉教の覚悟はできていなかったようだ。実は、戦闘や自爆攻撃に向かう若者の多くも、この時のシェリフと似たような意識である可能性が拭えない。みんながみんな、喜んで命を捧げるほどの度胸を持っている訳ではない。しかし、ためらいを見せると、仲間たちからばかにされる。特にアラブ人の社会は、欧米に比べ見えやメンツを大事にする傾向がある。虚勢を張り、内心で後悔しながらも戦地に赴き、やがて命を落とす――。戦闘員やテロリストの中には、このような道をたどる人が案外多いのではないだろうか。
もう1段階のステップ
イスラム過激派のテロリストの軌跡をたどると、伝統的なイスラム社会の出身者は意外に少ない。むしろ、世俗的な社会から段階を踏んで過激な組織に足を踏み入れる場合が多い。クアシ兄弟も、当初は叔父モハメドに感化され、やがてベニエトゥーの影響を受けた。しかし、真のテロリストに成長するには、もう1段階のステップが必要だ。
その最後の過程を用意する人物が、シェリフを刑務所で待っていた。
(つづく)
国末憲人
1963年生れ。85年大阪大学卒。87年パリ第2大学新聞研究所を中退し朝日新聞社に入社。富山、徳島、大阪、広島勤務を経て2001-04年パリ支局員。外報部次長の後、07-10年パリ支局長を務め、GLOBE副編集長の後、現在は論説委員。著書に『自爆テロリストの正体』(新潮新書)、『サルコジ―マーケティングで政治を変えた大統領―』(新潮選書)、『ポピュリズムに蝕まれるフランス』『イラク戦争の深淵』(いずれも草思社)、共著書に『テロリストの軌跡―モハメド・アタを追う―』(草思社)などがある。
(2015年3月4日フォーサイトより転載)
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