4月16日、民進党の小西洋之参院議員が現職自衛隊幹部である統合幕僚監部3等空佐に、国会前の路上で「国民の敵」などと暴言を浴びたと、翌日の参院外交防衛委員会で公表した。そしてその行為に対する批判として、「将来日本で自衛隊のクーデターが起きる」とも発言した。
防衛省によると、当該自衛官は「国民の敵」との言葉は否定したものの、「日本の国益を損なう」など暴言の事実は認めたため、本日(5月8日)中にも何らかの処分を下すという。
言うまでもなく、暴言を吐いた自衛官は許されないし、「自衛官の宣誓および心構え」に従うと誓約した国家との契約において重大な失態を犯しているのであるから、組織から排除される処分を受けても「不服申し立て」に値しない。
ただし、批判を承知であえて私見を述べたい。いち自衛官の暴言をもってクーデター云々と話を飛躍させるとは、国政に与る国会議員としての知見の程度も如何なものだろうか。
果たして小西議員の言う「将来」の真意とは何か。「クーデター」の目的、手段とは何なのか。そしてクーデターのイメージをどのように持っているのか。真剣な発言であればあるほど、いち自衛官の暴言で即座に問題をクーデターの可能性に転化させ、防衛大臣、統幕長の辞任まで要求するのは、あまりに論理を飛躍させすぎ、安易にすぎるのではあるまいか。
クーデター成功必須「9要件」
世界的な歴史上、すべてのクーデターには軍が関与している。近代国民国家として、日本でも顕著なクーデターとされる「5.15事件」「2.26事件」が発生した。さらに遡れば、西南戦争も西郷隆盛が担がれて起こした明治政府に対するクーデターと見ることができる。しかし明治維新以外、日本のクーデターは、目的、計画の戦略性、軍掌握の勢力、国民の支持において不備欠落だらけで、近代国民国家におけるクーデターの体を成していない。事件は、「反乱」の言葉が適当であって、クーデターとしては失敗であった。
先進民主主義国家におけるクーデター成功の典型は、1961年、韓国において朴正煕陸軍少将(当時、後に大統領)が決起した「5.16事件」である。クーデター部隊は武器、弾薬、装備を管理下に置き、陸軍主要部隊を掌握し、最小限の銃撃戦で首都を制圧した。
この成功要因には、「当時の政府に対する国民の批判、軍部若手将校の上層部に対する不満が味方した。クーデターの標的となった政府に鎮圧の力無く、仮に鎮圧に出ても内乱が発生し、混乱に便乗した北朝鮮からの攻撃を恐れた。さらに米国ケネディ政権が静観から承認へと動いたこと」が挙げられている。
こうした観点から考察するに、現代日本においてクーデターが勃発し、それを成功させ得るには以下の要件が必須となる。(1)自衛隊に「シビリアン・コントロール、および自衛隊上層部に対する不満」が蓄積している(2)「国政への不満」が鬱積した国民からの支持を得る(3)「在日米軍が味方、ないしは支持を含めて傍観する」背景がある(4)「陸・海・空自衛隊」が結束する(5)「首都圏を制圧できる自衛官の勢力」を確保できる(6)「陸・海・空の装備、火器、弾薬、燃料」を掌握、管理下に置ける(7)政権転覆後の「国家統治を可能とする人材、機関」が確保できている(8)日本全土にわたり全自衛隊がクーデターに服する(9)混乱に乗ずる他国の干渉、介入がない、といったところか。これらの要件がすべて整って初めてクーデターが成功する。従ってこれでは、現代日本においてクーデターが起こせるはずもない。
的外れな「空騒ぎ」
あるいはクーデターならずとも、小規模の「反乱」でも不可能である。自衛隊においては、小銃、弾薬を自由に使用できる管理の杜撰(ずさん)な状態が皆無だからだ。何よりも、自衛官の集団が盲目的に指揮官に服従して、言いなりに武器弾薬を脅迫や殺人に使用することは考えられない。
自衛官が実弾を発射できる機会は厳しい管理下に置かれている。1984年、実弾射撃訓練時、「精神異常(うつ病・心神喪失)をきたした自衛官」が同僚を射殺した「訓練自衛官小銃乱射事件」が発生した事例がないではない。しかし、この事例はクーデターもしくは反乱とはまったく結びつかない。
このように、歴史と実態を知り、知見を活かせば、「クーデター」などという「空騒ぎ」が如何に的外れか分かる。
おしなべて、与野党にかかわらず全国会議員には、自衛隊の行動に対するシビリアン・コントロールの責任が共有されているはずである。賢明な政治によるシビリアン・コントロールに、自衛官は「使命感」を高揚させることができる。いち自衛官、いち国会議員の問題で終わらせるべきではないと考え、あえて言わずもがなの論考を述べた所以である。(林 吉永)
林吉永 はやし・よしなが NPO国際地政学研究所理事、軍事史学者。1942年神奈川県生れ。65年防衛大卒、米国空軍大学留学、航空幕僚監部総務課長などを経て、航空自衛隊北部航空警戒管制団司令、第7航空団司令、幹部候補生学校長を歴任、退官後2007年まで防衛研究所戦史部長。日本戦略研究フォーラム常務理事を経て、2011年9月国際地政学研究所を発起設立。政府調査業務の執筆編集、シンポジウムの企画運営、海外研究所との協同セミナーの企画運営などを行っている。