「陸前高田」で4度目の奇跡「名物ジャズ喫茶主」の夢と希望と笑顔(上)--寺島英弥

見渡す限り土色の風景に1軒、小さな家が建った。

 東日本大震災での津波被害から復興すべく、未曽有の規模の土地区画整理事業が今も続く岩手県陸前高田市。震災から経過した7年9カ月の時間は、多くの住民を古里から離れさせ、いまだ新しい街の姿は見えない。

そんな折、見渡す限り土色の風景に1軒、小さな家が建った。津波で消えた店をよみがえらせようと奮闘してきたジャズ喫茶の主人の住まいだ。店の着工を間近にして建設資材が高騰。資金不足に悩みながらも、「音楽でもう1度、この街に人のにぎわいを」と思いは膨らむ。

復興の核「大型商業施設」が開業

 2018年11月末、久しぶりの北への取材行だった。筆者が編集委員を務める『河北新報』の本拠地、宮城県仙台市から気仙沼市を通り、さらに国道45号を北上して2時間半。リアス式の山と海の間の道は急に開け、広大な土色の風景が目に飛び込む。2011年3月11日、2万3000人の暮らす街が津波にのまれ、死者・行方不明者が1760人に上った陸前高田だ。

震災後、街は盛り土によって海抜12~13メートルまでかさ上げされた。いわば人工地盤だ。東部の広田湾に沿って、津波で失われた松の景勝「高田松原」に代わり、白い防波堤が築かれた。その内側で、計約300ヘクタールに及ぶ土地区画整理工事が今も進行中だ(阪神淡路大震災後の神戸市では計143.2へクタール)。

 街の復興の核となる大型商業施設として2017年4月、スーパーやドラッグストア、地元商店などが入る「アバッセたかた」が開業。周囲では、鉄道の代替えとなる都市間バス「BRT」の駅や、再建された飲食店などの新しい商店街が営業し始めている。震災以来、仮設の商店街で「街とともに復活したい」と待ち続けた「鶴亀鮨」など、古い名店ののれんも見える。

街の話題だったジャズ喫茶

「人口は震災前より4000人減ったそうだ。でも、街の『顔』が1つできたことで、まわりの地域や公営住宅から人が集まるようになったね」

たくさんの車が出入りするアバッセの駐車場で、冨山勝敏さん(77)が語った。神社や旧高田城跡のある市内の名所、「本丸公園」の入り口にあったジャズ喫茶「h.IMAGINE」の主人だ。津波で店を流された後、仮設住宅で独居している。

「店名は、続けて読むと"ヒマジン"。ジョン・レノンの愛と平和の歌『イマジン』に、『夢見る男』の自分を掛けた」と笑う。

往時の姿は今も語り草だ。2010年7月、「解体費が高くつく」と市が放置していた築60年の木造2階建ての廃庁舎を、200万円で買い取って大改装した。もともとは地元の伝統職人「気仙大工」が造った洋館風の建物だったが、玄関や柱、外装を自ら選んだイタリアングリーンやサーモンピンク、朱色で鮮やかに染めた。内部の壁は淡いピンクで、あめ色のカウンターに真っ白な茶器・食器類が並び、深々としたソファーに腰掛ける客を前に、コンサートを催せるホールまであった。外に張り出したウッドデッキからは、昔ながらの町並みと高田松原を遠望できた。店開きしたのは2010年12月22日だった。

「メニューはドイツの紅茶、『三本コーヒー』にブレンドしてもらったブルーマウンテン、『キーコーヒー』のトラジャ。料理はパスタ、ピラフ、ケーキ」とシンプルで、1番の"ごちそう"は、お客さんたちの和やかな集いと音楽。モダン・ジャズの名盤に加え、開店記念のバロック・コンサートが企画されたり、客の女性グループが「私たち、合唱をしているの」と即興でライブをしたりしていた。地元の新聞やテレビのニュースでも紹介され、店は街の話題になった。

しかし年が明け、冨山さんのブログに「常連のお客からもらった梅の小枝が満開になりました」という投稿が載ってから程ない3月11日、午後2時46分ごろのことだった。

店に来た女性客たちにコーヒーを出し、「気持ちよくカップに口をつけてくれたな、と見ていた時だ」と、冨山さんが振り返る。とてつもない大地震が起きた。砂糖のポットが床に落ち、カップが割れたが、「改築時にしっかり補強した建物は無事で、後片付けを始めようとしていたところへ、市の広報職員が店をのぞきにきた」。街の様子を見ようと一緒に裏手の本丸公園に行った刹那、防災無線から津波警報が流れた。

流されていった大きな赤い屋根

取材したこの日、冨山さんと初冬の本丸公園に登った。石段は落ち葉に埋まり、人の姿のない神社の境内では紅葉、紅白の山茶花とピンクの椿、葉を茶色に染めた巨木のメタセコイアが静かに薄日を浴びていた。東に目を向けると、眼下にアバッセがあり、その周囲は見渡す限りの土木工事現場。数え切れぬダンプカーや重機が動き回っている。

「本丸公園は市の避難場所になっていた。私は、ここから街を見渡しながら、津波がきたら街中の市役所の最上階よりも高台にある、うちの店に避難者を受け入れようと考えていた。そうしたら、海の水が高田松原を越えて、どんどんあふれてきた」

津波の色は、黒に限りなく近い灰色。木造の古い家々を「バキバキ」と枯れ枝を折るような音とともにのみこみ、煙のような土ぼこりを巻き上げていた。大量のがれきを押し流しながら、足元の高台のすぐ下まで達した。「人の乗った車も、逃げ遅れた年寄りも、流されるのを見ているよりほかなかった」。自分の店がどうなったのかは、山の陰に隠れて分からなかったが、「やがて引き波で、見覚えのある大きな赤い屋根が流されていくのが見えた。頭は真空状態だった。悔しい気持ちも起こらず、不思議な運命だと、他人事のように思った。気がつくと、この場所に50~60人の避難者がぼうぜんと立っていた」。

引退後にひとり東北へ

冨山さんと出会ったのは震災から1週間後、中学校の体育館に設けられた避難所だった。沈痛な表情で行き来する被災者たちの中で、仙人のように穏やかな雰囲気であぐらをかく、白いひげの男性がいた。声を掛けると、予期せぬ笑顔が返ってきた。「東京オリンピックのころ、福島県郡山市の商業高校を出て上京し、フーテン暮らしをした。もう1度、そこに戻って出直すようなものさ」。

その回想は、半世紀前に遡った。オリンピックを控えて活気づく東京は大型ホテルの進出ラッシュで、「東京プリンスホテルが簿記のできる人間を募集した。私には資格があり、面接に行くと、『明日から来い』で決まった」。外国人客の宿泊に備えて英語を学び、フロントもレストランも担当した。

「東京にいた兄が、映画『ウエストサイド・ストーリー』やジャズピアニストのオスカー・ピーターソンのレコードを聴かせてくれ、ジャズが大好きになった。自分でも集め始めたんだ」

最後はホテルグループの会計システム責任者を務め、退職後も別のホテルの支配人や、業界向けのマネージメントやコンピューター関係のコンサルタントの仕事で多忙に過ごした。「引退したら何をしようか、と自問した。集めたジャズのレコードが700枚くらいあり、喫茶店くらいはできるか、と考えた」。1人きりで再出発したい、と家族会議を開いて決意を伝え、東京を離れたのは2003年7月。

風光明媚な土地で店をやろうとインターネットで空き家を探すと、東北に1軒だけ、ログハウスがあった。新幹線とローカル線を乗り継いで行ってみると、三陸の海の美しさに一目で魅了されたという。陸前高田の北隣、岩手県大船渡市の碁石海岸だった。

最初の店は不審火で

思い出深い「h.IMAGINE」の最初の店が、自らも大工仕事をしてオープンしたのは同年12月21日。見ず知らずの地で、客は1日平均6、7人。「物好きしか来ない店だった」というが、オーディオ好きの客が「ここで鳴らして、いい音を出して」とアンプやスピーカーを持ってきてくれた。東北には珍しい自由人のマスターだとうわさが広がり、年配の女性客ら常連のファンでにぎわうようになった。ミニコミ紙の取材を受け、ロータリークラブから「この町はどう見えるか、どうすればいいか」と講演を依頼され、観光物産協会からも声が掛かった。

異業種の人々と地元興しのための「ケセンきらめき大学」を始め、地元の歴史や文化を学ぶ講座を設けたり、店でジャズのライブや「珈琲講座」を催したりした。だが、夢をかなえた店は2010年2月の夜中、突然の火事で灰となった。

「不審火だった。でも、自分が不運だなんて思ったことはない。捨てる神あれば、拾う神ありさ」と冨山さん。煙と熱風を吸って入院した際、常連客で陸前高田の自動車学校経営者の友人が市内の空き家を紹介してくれた。再起を模索し始めた時、火災見舞いの電話の中から飛び込んできたのが、「買い手が付かねば解体される」という市の老朽庁舎の話だった。

 こうして2代目「h.IMAGINE」を陸前高田で開いたわけたが、どういう巡り合わせか、再び津波で店を失うことになった。

「もう過去は振り返らない」

陸前高田の避難所で回想を終えると、一緒に店の跡を見に行った。その時の光景は、冨山さんという人を語る上で、忘れがたい。

家々の残骸がどこまでも積み上がった街では、津波が運んだ海の泥や砂が風で飛び、あるべきわが家の姿を求めてさまよう人々に降りかかっていた。本丸公園の入り口に古い石垣があり、それが建物を失った店の目印だった。

まるで原爆野のような街の風景を見下ろす店の跡地にあったのは、赤い革張りのいすが1つと、アメリカのジャズ・レーベル「Prestige」の黄色いレコード盤が1枚。それは名トランペッター、ケニー・ドーハムの名盤『静かなるケニー』だった。唯一の形見を手にすると、冨山さんはぽいっと放り投げ、裸のレコード盤はどこかに消えた。

「もう過去は振り返らない。ここに掘っ立て小屋を建てて、やり直しだ」(つづく)

寺島英弥 ジャーナリスト。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。河北新報元編集委員。河北新報で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」などの連載に携わり、2011年から東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(同)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を書き続けた。

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(2018年12月25日
より転載)

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