高速鉄道建設:「中国の提案」を拒否した「タイの深謀」

タイ国内高速鉄道建設計画の歴史を簡単に振り返ってみたい。

ここ7、8年ほど、タイと中国の間で最大の懸案だったタイの高速鉄道建設問題に、ようやくタイ政府が結論を下した。中国側の提案を拒否し、自力で建設するというのだ(これまでの経緯はこちらを参照→2015年10月13日「高速鉄道建設:日本は『タイ』では中国に勝てるのか」)。

3月24日、プラユット首相は記者団に向かって、「目下の国内情勢に立って自前での建設を決定した。こういう形で建設されてこそ、高速鉄道はタイ国民の財産となり、東北タイの開発と固有の資源を総合的に結びつけることができるだけでなく、東北タイの交通網建設の出発点とすることができる」と語り、中国からの協力・援助を求めず、自力による高速鉄道建設に踏み切ることを明らかにした。

計画では、中国側が提案しているバンコクからノンカイまでではなく、中継点にあたるコーラート(ナコンラチャシマ)までの250キロ。コーラートはタイでは最貧といわれる東北タイの中心都市ではあるが、カンボジア、ラオス、さらにヴェトナムに対する軍事的要衝であり、同地区を管轄する第2軍管区司令部が置かれている。

続けて同首相は、

(1)国家予算には限界があるゆえに、高速鉄道建設には慎重でなければならない

(2)だが、いま建設に踏み切らなければ国家の停滞は明らかだ

(3)開発の遅れた農村地域の発展のためには交通システムの完備が最優先課題であり、同時にバンコクなど経済の発展した地域との連携が必要だ

(4)高速鉄道の完成によってバンコク=コーラート間は1時間での往来が可能となる

(5)高速鉄道が生み出す経済効果は投資額を遥かに超えるゆえ、いまや多くの国々で建設計画が進められている

(6)現在のタイは、中国の支援を求めずとも建設可能なだけの財政能力を持つ

(7)環境評価(EIA)に基づき早急の着工が求められる一方、政府間の合意モデル(G2G)に従って中国側から技術支援を仰ぐことになれば、タイ側では民間からの投資も考慮しなければならない――と、高速鉄道自力建設に踏み切った背景についての説明を加えた。

さらに「最終判断を下すまでに2年ほどの時間を要したが、今回の決定は国家の将来と国民の利益を考えてのものだ。高速鉄道完成後に利益を得るのは東北タイの住民であり、いずれ国家収入が増大した暁には、他の地方への延伸を目指す」と語った後、「今回の交渉過程で中国側は利益を求めることなく、タイへの援助を誠心誠意考えてくれた。

中国が常に相互利益・平等の原則に立っていたことを、タイ国民には信じてもらいたい」と加え、中国に対する配慮を忘れなかった。

クーデター政権もなぜか計画は継承

ここでタイ国内高速鉄道建設計画の歴史を簡単に振り返ってみたい。

最初に中国側で計画が持ち上がったのは、1990年代初頭のこと。沿海部に較べて発展が遅れている中国西南地区の社会経済開発を目的に、同地区を南方に向って開放し、雲南省の省都である昆明を基点として東南アジア大陸部(ミャンマー、ラオス、タイ、カンボジア、ヴェトナム)を陸路・鉄路・水路・空路によるネットワークでカバーする。

いわば国境を越えた広大な地域を一体化させることで、中国のランドパワーの拡大を目指そうという構想の一環だった。その先に東南アジア海洋部(マレーシア、シンガポール、フィリピン、ブルネイ、インドネシア)を見据えていたであろうことは、容易に想像できるはずだ。

この構想の中心である「泛亜鉄路」と名づけられた鉄道網建設計画の一部として、中国はタイ国内の鉄道路線を想定したのである。他国の鉄道網を他国の事情も考慮せずに自らの都合で利用しようというのだから、なんとも身勝手極まりない話だが、歴史的に"熱帯への進軍"を進めてきた漢民族であればこそ、新たなる進軍の好機到来と考えたとしても強(あなが)ち不思議ではないだろう。

こういった中国側の動きに対し、タイ側で具体的に反応したのは反タクシン政治を掲げたアピシット政権(2008年12月~11年8月)であり、タイの政権としては初めて中国の新幹線技術導入に積極姿勢を示した。

ところが、アピシット政権を倒して登場したインラック政権(2011年8月~14年5月)はタクシン派で構成されていただけに、当然のように前政権の政策を否定した。だが、中国との協力による新幹線建設方針は踏襲しているから不思議である。

アピシットにせよインラックにせよ、首相としての公式訪中時には北京=天津間で新幹線に試乗し、技術の高さを讃えると同時に、中国製新幹線導入に前向きの姿勢を示した。時に閣議決定にまで踏み込んだこともあったほどだ。

さらに、2014年5月にインラック政権打倒クーデターに決起したプラユット陸軍大将(当時)は、政権掌握直後には前政権の経済政策を例外なくゼロ・ベースで見直す方針を打ち出したにもかかわらず、ほどなく新幹線建設に関してのみ例外的処置として従来からの計画継続の方針を打ち出している。

李克強首相からの度重なる強い要請に対し、プラユット首相は中国からの技術・資金支援によるタイ高速鉄道網建設について歓迎の姿勢を示すことはあっても、公式に否定したことはない。

李克強首相のメンツは丸潰れ

かくて両国は、最後まで合意に至らなかった借款利率問題を棚上げしたまま、昨年秋、バンコク=ノンカイ間の高速鉄道路線建設に向けての着工式を行ったのである。また12月初頭には、昆明を基点にラオスの北半分をほぼ縦断する形で首都のヴィエンチャンまで走る鉄道建設も着工の運びとなった。

かりに中国の狙い通りに計画が進んでいたなら、数年後には昆明からヴィエンチャンを経てバンコクまでの高速鉄道路線が完成するはずであった。だが最終段階で、タイは中国側提示の総工費は異常に高額だと難色を示すと同時に、借款利率を2.5%から2%に引き下げるべきだと申し入れた。

おそらく泛亜鉄路の死命を制するのはタイ中央部を縦断する路線であり、この路線を支配下に置くことが東南アジア進出の絶対条件であるという中国の事情を見切って、タイが駆け引きを仕掛けたのであろう。

はたせるかな、中国はタイの要求を呑んだ。いや呑み込まざるを得なかった。東南アジア大陸部中央を迂回したなら泛亜鉄路の戦略的役割は半減してしまうばかりか、習近平政権の世界戦略の柱である「一帯一路」にも少なからぬ影響を与えることになるだろうからだ。

中国はタイの要求に従って借款の利率を2%に下げた。この決定直後に明らかにされた駐タイ中国大使の表明からは、「ここまで譲歩した。もう、これ以上は断固として譲れない」といった怒りと諦めの入り混じったニュアンスが感じられた。

それにもかかわらず、今回のプラユット首相による高速鉄道自力建設の方針表明である。まさにしっぺ返しといったところ。李克強首相のメンツは丸潰れではないか。

互いに必死のせめぎ合い

ここで改めて東南アジア大陸部を地政学的に考えてみたい。

タイは東南アジア大陸部の中心に位置する。泛亜鉄路はミャンマー経由の西線、ヴェトナム・カンボジア経由の東線も構想されているが、あくまでもラオスを経てタイ中央部を南北に貫く路線を主軸とするに違いない。

タイを縦断してこそ、昆明からマレーシアをへてマレー半島を南下し、シンガポールまでを最短距離で繋ぐことが出来る。おそらく"漢族の熱帯への進軍"を進めるための必須条件は、タイ、マレーシア、シンガポールを鉄道路線で串刺し状に貫くことだろう。

やはり中国としては、何としてでもタイを縦断する高速鉄道が必要なのだ。だが、中国主導で、しかも中国の方式で高速鉄道がタイ国内を貫いて建設された場合、タイに対する中国の影響力は格段に増す。最悪の場合には、中国の属国化も考えられないわけではない。

それを避けるためには、中国の思惑に振り回されることを避けたい。であればこそプラユット政権による今回の措置は、中国に対する牽制策と見做すべきではないか。

先ずバンコク=コーラート間の自力建設を打ち出す。だがコーラート=ノンカイ間については敢えて言及していない。プラユット首相は、「いずれ国家収入が増大した暁には、他の地方への延伸を目指す」と語るものの、コーラート=ノンカイ間の建設を中国に委ねる可能性も残しておくことで、中国との間で決定的な亀裂が生じないように伏線を張ったということだろう。

高速鉄道建設をめぐる両国関係を将棋に喩えるなら、タイの持ち駒はタイの地政学的位置であり、中国のそれは国内の広大なネットワークに加えヨーロッパにまで延伸させた国際路線(渝新欧国際鉄路、厦蓉欧快線)となる。タイは鉄道網を国内のみで止めておくわけにはいかない。

この地域におけるタイの将来を考えるなら、やはり周辺諸国のみならず中国という巨大市場の鉄道ネットワークとの接続を狙わないわけはない。一方の中国からすれば、"熱帯への進軍"を進めるためにはタイ中央部を南下する鉄道路線を押さえることは至上命題だ。

どうやらプラユット首相が示した今回の決断は、タイ側が指した最初の一手。次に中国はどのような手で指し返すのか。互いが互いの持ち駒をチラつかせながら有利な局面展開を目指す。両国は互いに相手国から最大限の譲歩を引きだす一方、自らの国益毀損の歩留まりを最小限に食い止めようと必死のせめぎ合いを見せることになるはずだ。

常識を超えた"タイ外交"

これからのタイが中国に対してどのような振る舞いを見せるのか。その行方を慎重に見定めることが、現在の日本にとっての急務だろう。

ちなみに、下関講和条約締結翌年の1896(明治29)年、バンコクを出発しコーラート、ノンカイ、ヴィエンチャンと今回の高速鉄道予定路線とほぼ同じルートを歩いた日本人がいる。岩本千綱だ。彼は『シャム・ラオス・安南 三国探検実記』(中公文庫 1989年)に、コーラート近郊の鉄道建設に労働者として出掛けながら「風土の異なるがため端なく病死」した熊本県出身の農民や、「破れ小屋」に住みながら鉄道建設に当る数多くの「鉄道工夫なる支那人」の姿を書き残している。

タイ鉄道の将来に、19世紀末の東北タイにおける鉄道建設現場を重ね合わせる時、日中双方の不可思議な因縁を感じないわけにはいかない。

やはり、タイが示した今回の措置をインドネシアでの高速鉄道建設をめぐるゴタゴタに重ね合わせ、「それみたことか」「東南アジアで中国は信用されていない」「最後の最後に頼るのは日本しかない」など軽はずみな判断に基づいた性急な行動をとってはならないだろう。それというのも、外交上手なタイである。いずれ日本人の常識を超えた"タイ外交"が展開されないとも限らない。

たとえば第2次世界大戦時、タイは日本と同盟関係を結んでいたにもかかわらず、セニ・プラモート駐米大使を中心にして「自由タイ運動」を組織し、連合国に与して反日運動を推し進め、結果として敗戦国入りを免れている事実を記憶に留めておくべきだ。

じつはタイのみならず、東南アジア各国における高速鉄道の建設・整備プロジェクトは、まだ緒に就いたばかりであり、中国は東南アジア大陸部各国とは陸続きであることを忘れてはならないだろう。幕末、開国を主張し、「江戸湾から唐、オランダまで境なしの水路なり」と唱えた経世論家・林子兵の顰(ひそみ)に倣うなら、「バンコクから中国、ドイツ、フランスまで切れ目なしの陸続き」なのだ。(樋泉 克夫)

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樋泉克夫

愛知大学教授。1947年生れ。香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士課程を経て、外務省専門調査員として在タイ日本大使館勤務(83―85年、88―92年)。98年から愛知県立大学教授を務め、2011年より現職。『「死体」が語る中国文化』(新潮選書)のほか、華僑・華人論、京劇史に関する著書・論文多数。

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(2016年4月4日フォーサイトより転載)

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