東日本大震災が起きてから4年となる3月11日を、福島県相馬市の漁業者たちは収まらぬ憤りとともに迎えた。本来ならこの週、コウナゴ(小女子)の漁が相馬沖で始まる予定だったが、突然の事態で先送りになったのだ。
コウナゴは塩ゆで、天日干しされ、香ばしい「春告げ魚」として食される。地元産は「そうま小女子」として郵便局から全国に出荷され、人気を呼んだ。が、福島第1原子力発電所事故からひと月足らず後の2011年4月5日、東京電力が、原発構内の汚染水1万1500トンを同県漁連へのファクス1枚の通知で海に放出して以来、他の魚種とともに漁が自粛された。試験操業は、安全が確認された魚種のみ限られた量を週1回捕り(現在58魚種)、厳しい検査を経て地元や築地などに出荷している。市場の競りに掛けられる正規のルートでなく、消費者の信頼を積み重ねる試験流通。本操業の再開が漁業者の悲願だ。
コウナゴ漁は、やはりモニタリング調査と県の委員会による判定を経て13年3月に復活。水揚げ1回で100キロほどの漁が、毎年春に続けられてきた。
相馬双葉漁協が「コウナゴ漁を当面先送りする」と決めたのは、福島第1原発からの新たな汚染水の外洋流出が発覚したためだ。今月6日、コウナゴ漁を担う同漁協と小型漁船の船主、漁業者が中心になって対策の会合を開き、長い議論の末に出した結論だった。「東電は事実を1年以上も公表していなかった。いったん漁を先延ばしすれば再開するタイミングが難しくなる、という意見も出たが、東電に対する抗議の意思表示でもある。最近の試験操業で捕れたマガレイやマダラなどは厳しい検査を通り、影響は何も出てないが、先延ばしの間に徹底したモニタリング調査を重ねて、消費者に安全を伝えなくては」。原釜小型船主会(45人)会長の今野智光さん(56)は憤りを込めて語った。
70倍の濃度
新たな汚染水流出が明るみに出たのは2月22日。福島第1原発敷地内の排水路で、放射性物質濃度の上昇を伝える警報が鳴り、最高で普段の70倍を示した。この時点では『港湾内にそのまま流れたとみられるが、流出量は不明』(2月23日の河北新報記事より)とされ、流出源を調査中と報じられた。
しかし、24日になって東電が詳しい状況を発表し、事態は深刻であると分かった。2号機の原子炉建屋屋上に高濃度放射性物質を含む雨水がたまり、排水路を通じて外洋(港湾外)にそのまま流出していた可能性が高いことが分かった。ただし、『(東電は)少なくとも2014年4月までに把握していたが公表せず、海洋流出を防ぐ措置も講じなかった』(2月25日の同紙記事より)。
さらに翌25日、東電が14年1月に排水路の異常数値を把握し、2月まで2度、国の会議で報告していたことが明らかになった。「原因を究明し対策も考えてから説明すべきと考えた。情報隠しではない」と東電福島復興本社の新妻常正副代表は同日、いわき市であった福島県漁連の漁協組合長会議で釈明した。
「雨水は規制対象外」
東電の情報小出しは続く。同社福島第1廃炉推進カンパニーの増田尚宏最高責任者が26日、福島市で記者会見して陳謝し経緯を説明。外洋につながる排水路から比較的高濃度の放射性物質を含む汚染水が流れていることを、13年12月の原子力規制委員会で報告したという。だが、14年4月からは報告もせず、「『排水路を清掃すれば濃度が下がると思い、公表すべきだと判断しなかった』と説明した」(2月27日の同紙記事より)。第1原発と東電を所管する経済産業省、原子力規制委員会も事実を把握しながら公表と対策の指示を怠っていた構図が浮き彫りになった。これについての宮沢洋一経済産業相のコメントは「責任うんぬんとは違うかもしれないが、少しうかつだったところがあるという気がする」(2月27日の閣議後会見)だった。
「(汚染水の)状況はコントロールされている」。安倍晋三首相は13年9月、国際オリンピック委員会総会(ブエノスアイレス)の2020年東京五輪招致演説で、こう表明した。今年3月3日、衆議院予算委員会で松野頼久議員(維新の党)に今回の汚染水流出への見解を質された際も、「港湾内にブロックされている」と突っぱねた。が、現実に汚染雨水の外洋流出が放置されていた。同じ松野議員の質問に、田中俊一原子力規制委員会委員長は「東電から相談を受け、検討が決まらないうちに今回のことが起きた」と答弁した。「雨水は炉規法(原子炉等規制法)の規制対象外」と、委員会への責任追及をかわすとも取れるような答弁もあった。大小漏れ続ける汚染水への東電・政府の対応は、ずさんというより、手に余る状況を取り繕っているのが内実ではないか、との印象を与えた。
白紙に戻った対策案
「東電は毎月、組合長会議で原発の状況を報告しているのに、(今回の汚染水流出については)一言もなかった。信用していたのに裏切られた」――。前述の2月25日、いわき市で行われた同県漁連の漁協組合長会議では、東電への不信を訴える声が相次いだ。筆者自身も、東電と経産省がまさに汚染水対策を(同県漁連傘下の)相馬双葉漁協の組合員たちに説明した会議を昨年中、3回にわたって傍聴したが、その間にも汚染雨水への言及はなかった。その会議で東電、経産省が提案してきた対策が、「地下水バイパス計画」と「サブドレン計画」だった。
福島第1原発の構内では、原子炉建屋に毎日、約400トンの地下水が周囲から流入し、高濃度汚染水に変わっている。東電はこれをくみ上げてタンクに保管し、多核種除去設備(ALPS)を使って浄化を進めているが、トラブルが頻発。安倍首相が1年半前の視察の際に約束した14年度中の全量処理を先延ばしする状況だ。タンクにためられた高濃度汚染水は約16万トンに上り、処理済みの約41万トンも分離不能のトリチウム水として貯蔵されている。
そうした汚染水発生の源の地下水を未汚染の段階でくみ上げ、海に放水するのが地下水バイパス計画。東電は、相馬双葉、いわき市の2漁協の苦渋の決断の末に容認を得て、昨年5月から放水を始めた。しかし、効果は限られ、次の方策として東電が持ち出したのが「サブドレン計画」。建屋近くの井戸「サブドレン」から地下水をくみ上げて浄化し、最終的に海に放出するが、井戸水は汚染源に近い。昨年8月の組合長会議で、いわき市漁協は「漁業者として汚染水を流すのは絶対反対」、相馬双葉漁協は「(海洋放出の)報道があってから、試験操業中のシラスの値段が下がった。新たな風評への対策をどうする」とそれぞれ表明。9月に2漁協で行われた組合員への説明会でも反発が相次ぎ、昨年12月、今年1月と説明会は重ねられたが、「計画容認」に至らぬままだった。
そんな時に発覚したのが、汚染雨水外洋流出の問題だった。2つの漁協は「東電に裏切られた」とそれぞれサブドレンに関する協議の凍結を決め、福島県議会は東電への抗議の決議を採択し、福島第1原発周辺の4町の協議会は「こうした事態は、住民の帰町意欲への妨げになる」と宮沢経産相に指導徹底を要望した。相馬双葉漁協は3月6日の会議で、冒頭に紹介した「コウナゴ漁先送り」の行動を決断した。とりわけ漁業者たちにとって、新たな風評を懸念しながらも地下水バイパス計画など東電の汚染水対策を容認してきたのは、「試験操業の前進と原発の廃炉は、浜通りの漁業復興の両輪。廃炉の前提条件になる汚染水対策に協力せざるを得ない」(野崎哲同県漁連会長)との苦渋の判断からだった。しかし、その前提となる東電への信頼は、白紙に戻った状況にある。
苦闘は続く
「東電は、汚染雨水流出で原因究明をせず、国に報告しながら、当事者であるわれわれとの話し合いの席で隠し、何の対策も取らなかった。信用はなくなった。サブドレンの話も流れた」と、原釜小型船主会長の今野さんは語った。何人もの漁業者が「このまま譲歩を重ねれば、サブドレンの次は、(原発構内にたまった)タンクの処理水の海洋放出を認めるように迫られるだろう。そうなればすさまじい風評で、福島の漁業は終わりになる」という懸念を語る。それを裏付けるような報道もあった。
《原子力規制委員会は24日の会合で、東京電力福島第1原発が抱えるリスクの低減に向け、今後5年程度で優先的に解決するべき中期的課題を挙げた目標マップのイメージを明らかにした。汚染水問題では、多核種除去設備(ALPS)で処理した水を希釈して海に放出するべきだとの考えを示している。
(中略)田中俊一委員長は記者会見で「廃炉は汚染水問題を抜きには進まない。タンクにためておく方が危険だと、海外の専門家からも指摘されている」と述べた。また経済産業省資源エネルギー庁がトリチウムの分離技術の検証を続けているが、田中委員長は「技術的に見て、希釈廃棄しかない」との考えをあらためて強調した。》(昨年12月25日の河北新報記事)
大震災の津波、福島第1原発事故から丸4年。相馬の浜からがれきは消え、震災前と変わらず漁船群は港にたゆたい、高台には公営住宅が建ち始めた。しかし、何一つ終わっていない、始まってもいない。福島の浜通りの漁業復興を妨げる原発の汚染水は止まらず、廃炉作業の入り口もいまだ見えない。安倍首相は今国会で「福島第1原発の廃炉・汚染水対策に、国も前面に立ち、全力で取り組みます」(2月12日の施政方針演説)と従来からの姿勢を強調した。が、昨年12月、相馬市松川浦漁港で衆院選の第一声を上げた際、漁業者の前では「廃炉」「汚染水」に一言も触れなかった。他原発の再稼働論議への飛び火を懸念したのか。ほそぼそとした漁の悔しさに耐え、1つ1つ安全な魚種を増やし、風評に脅かされ、思惑の知れない政府の「責任」をも頼みにできず、それでも試験操業に希望を託す漁業者たちの苦闘は新たな3月11日を超えて続く。
寺島英弥
河北新報編集委員。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。東北の人と暮らし、文化、歴史などをテーマに連載や地域キャンペーン企画に長く携わる。「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」など。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を更新中。
【関連記事】
(2015年3月17日フォーサイトより転載)