パリ同時テロ:わかってきた「標的」(上)「バタクラン」はなぜ狙われたのか?

パリ同時多発テロの現場を最初に歩いたのは、発生翌々日の日曜日、11月15日のことだった。

パリ同時多発テロの現場を最初に歩いたのは、発生翌々日の日曜日、11月15日のことだった。当時はまだ衝撃が抜けきれず、追悼に訪れた市民も、筆者自身も、言葉を失って茫然と立ちすくむ状態だった。

事件から1週間あまりを経た日曜日の22日、これまで訪ねられなかったテロの現場、その後容疑者を追跡する過程で起きた銃撃戦の現場などを再び回った。また、24日には最初に回った現場を再訪し、「なぜ容疑者らがそこを狙ったのか」「標的は何だったのか」をもう1度考えた。

サンドニ移民の相当数は「ベルベル人」

パリのテロを捜査する過程で、容疑者らがパリ北郊サンドニに隠れ、新たなテロを計画していることも明らかになった。18日早朝に急襲した治安部隊に対し、立てこもった容疑者らは激しく抵抗、結果的に容疑者側の3人が死亡し、治安部隊側にもけが人が出た。遺体を調べたところ、そのうちの1人がテロの首謀者アブデルアミド・アバウドだと判明した。

彼はブリュッセル郊外モレンベークで暮らしていたモロッコ系ベルギー人で、昨年ブリュッセルで起きたユダヤ博物館襲撃事件、今年8月の国際特急「タリス」車内発砲事件でも黒幕だったと見なされる。シリアに渡り、当地から指令を出していたと考えられていたが、実はひそかにフランスに入っていたのである。

サンドニはもともと、歴代国王の墓所となっている大聖堂で知られるが、近年は移民の街としてのイメージが強い。サンドニなどパリ北東郊外「セーヌ=サン=ドニ県」を示す郵便番号「93」は、多くのフランス人にとって移民、イスラム教徒、貧困家庭の代名詞となっている。

パリのサンラザール駅から、サンドニに向かう地下鉄13号線に乗る。この線は、通勤時の混雑や治安の悪さなどから「魔の13号線」と呼ばれてきた。乗客の3分の2ほどは黒人で、残りの白人らしき男たちもアラビア語をしゃべっていたりする。途中駅から乞食が乗ってきて、「お恵みを」と車内を回る。

「サンドニ大聖堂前」駅で降り、中心部のジャン=ジョレス広場に出る。ちょうど青空市場が立っていた。快晴の空の下、買い物かごを抱えた市民で大賑わいだ。その隣、大聖堂の正面からまっすぐ伸びるレピュブリック街も、人であふれている。銃撃戦から4日しか経っていないのに、驚くべき回復ぶりだ。

行き交う人のほとんどは黒人か北アフリカ系だ。女性のスカーフ姿は、モレンベークほどには目立たない。

サンドニにはアルジェリアからの移民が多いが、その相当部分がアラブ人でなく、ベルベル人だといわれている。ベルベル人はベルベル諸語を話す北アフリカの先住民族で、言語自体は話す人が減っているものの、民族アイデンティティーを持つ人は今なお多い。モロッコでは人口の半数近くを占めるといわれる。アラブ人支配に反発する傾向がしばしばうかがえるほか、全般的にイスラム教色が薄く、世俗的で、酒どころか豚肉も口にする人が少なくないという。

「大失恋」でテロリストに?

銃撃戦の現場は、レピュブリック街から横に入る路地コルビヨン街のアパルトマンだった。商店街に近いだけに、やじ馬が集まっている。当の建物は、看板や壁が少し壊れた程度で、大きな被害はうかがえない。「でも、中庭は崩れているんだよ。内部で撃ち合ったからね」と、通りがかりの老人が訛りの強いフランス語で教えてくれる。治安部隊の銃撃は5000発に達した。内部を撮影した写真を見ると、窓どころか壁まで崩れ、攻防のすさまじさを物語る。

銃撃戦があった街路をのぞき込む人々(筆者撮影、以下同)

ここで銃撃戦の末に死亡したのは、アブデルアミド・アバウドと、その従姉妹にあたるハスナ・アイト・ブラサンである。このほか、銃撃戦の前に自爆した男性がいた。

ハスナ・アイト・ブラサンは謎めいた女性である。まだ26歳のモロッコ系フランス人で、少なくとも数年前までは、全く世俗的な女性だった。酒と麻薬が大好きで、ウォッカとハシシに明け暮れ、ストラスブールの学校に通っていた2011年にはライン川を越えてドイツ側の店に踊りに出かけていたことが、男友達らの証言で明らかになっている。アラビア語はあいさつの言葉さえ知らず、将来の夢はフランスの軍隊に入ることだと語っていた。

それが、パリに戻ってきて急にスカーフを被るようになり、いつの間にか黒ずくめで目だけを出したニカブ姿になった。今年8月には、アメディ・クリバリの妻で『シャルリー・エブド』襲撃事件の際に逃亡したアヤト・ブメディエンヌを称賛する文言をフェイスブックに投稿した。心境の変化のきっかけには、大失恋があったという。

彼女は当初自爆したと見られていたが、その後銃撃戦の際に死亡したといわれるようになった。

人のいない場所で自爆

銃撃戦現場近くのバス停から、ちょうどやってきたスタッド・ド・フランス方面行きのバスに乗る。パリだと日曜日は多くの店が閉まり、バスも便数が減ったり、路線によると運行しなかったりする。しかし、イスラム教徒が多いこの街に日曜日は関係ない。バスも平日並みの頻度のようだ。

スタッド・ド・フランスは、フランス最大の多目的スタジアムで、1998年のサッカーW杯の主会場となった。この年のフランス優勝の興奮とともに記憶されるサッカーファンの聖地だ。サッカーと無縁の筆者も、13年あまり前に1度だけ来たことがある。ただ、観戦ではなく、フィールドの芝の育成方法を取材するためだった。

ここで13日に起きた3つのテロは、いずれも自爆である。場所はいずれも、スタジアムの東側のゲートの外だった。中では独仏親善試合が開かれ、オランド大統領も観戦していた。

最初の爆発は午後9時20分、スタジアムのゲート「D」の道路向かいのカフェの前である。カフェのガラスが破れ、応急の板が張られている。路上に突き出たビニールのひさしに、銃撃を受けたかのような穴がいくつも開いている。2つにちぎれたテロリストの遺体の直撃を受けて、カフェのガラスも崩れた。巻き添えになって市民1人が死亡した。

そこから北にすぐのゲート「H」の近くで、午後9時半に2度目の爆発があった。犠牲者はなかった。現場は跡形もなく、道路向かいのカフェの隅にいくつかの花束とろうそくが置かれている。

これらテロリストの行動には謎が多い。会場に入ろうとしてゲートで荷物検査にひっかかった、とも言われるが、詳細は不明だ。スタジアムの出入りで人があふれる時間でなく、人影が薄れた試合中に決行したのも、不可思議である。テロリスト自身がパニック状態に陥っていた可能性をメディアは指摘する。大量殺人を犯すだけの十分なモチベーションを持ち得ず、爆発物の扱いにも慣れない、にわか仕立てのテロリストだったのかもしれない。

もっと謎が多いのは、9時53分に起きた3つ目の爆発だ。スタジアムから南に高速道路をくぐり、郊外地下鉄の駅に向かう途中の、試合がない限りだれも通らないだろう閑散とした路上が現場である。マクドナルドの店舗がぽつんとあるが、客もいない。他の2カ所と異なり、自爆した人物も特定されていない。

あたかも、被害を出すのを避けて、人のいない場所に行って自爆したような感じである。ならばなぜ、テロリストを志願したのか。あるいは最後になって怖くなったのだろうか。自分が死ぬことよりも、人を殺すことに。

今回のテロ現場ではもっとも寂しいところである。花束もろうそくも見当たらない。竹内浩三の詩を思い出した。

だまって だれもいないところで ひょんと死ぬるや

献花が絶えない「バタクラン」

この22日には、郊外地下鉄で市内に戻ってもう1カ所を訪れた。89人の死者を出したコンサートホール「バタクラン」である。1週間前、ホール周辺は広範囲に封鎖され、近づけなくなっていたが、規制が解かれたこの日はすぐ前まで行くことができた。

事件後の閉鎖から再開された地下鉄オベルカンフ駅を降りると、花束を抱えた老婦人がよろよろと階段を上がっている。テロ以降、パリでは花束を持つ人が増えた。遺族も、友人も、全く関係ない人も、現場に花を持ち寄り犠牲者を悼む。それほど、テロは市民に重く、自らの出来事として受け止められている。

大通りに面したバタクランは、外見だけだと、周囲を幕で覆われている以外特段変わったところは感じられない。その周りも、バタクラン前に広がるリシャール・ルノワール街も、何百メートルという範囲にわたって花束に覆われている。見ているうちにも、人々が次々と訪れ、花を供え、ろうそくを灯す。

バタクラン横の路地「サン=ピエール=アメロ小路」は依然として封鎖されている。「なぜ事件は『東半分』で起きたか?『パリ同時テロ』の現場を歩く」(2015年11月16日)で紹介した『ルモンド』紙記者撮影のビデオの舞台が、この路地だ。阿鼻叫喚の様子を記録したその映像に、バタクランの3階窓枠から逃げようとしてぶら下がる女性の姿が出てくる。この女性は妊娠しており、落ちれば大事となりかねなかった。他の客が自らの危険を顧みず救助し、様子はメディアを通じて市民に広く知られた。その窓枠を、通りがかりの人が指さして「あそこにぶらさがっていたんだね」などと話している。

イスラム過激派がユダヤ人にこだわる理由

バタクランがなぜ、テロリストに狙われたのか。この現場は今回のテロの無差別性を示す例と見なされがちだが、実は容疑者側に明確な狙いがあった節もうかがえる。バタクランはこれまでも、ユダヤ人を狙った攻撃の対象となってきたと、パリのユダヤ系メディアが指摘しているからだ。仏語月刊紙『トリビューヌ・ジュイヴ』電子版によると、ここではイスラエル支援の集会が何度か開かれたことがあり、こうしたことに対する抗議や脅迫が2007年から08年にかけてあったという。

筆者も今回のパリ滞在中、「バタクランは、オーナーがユダヤ人だから攻撃を受けたのでは」との推測を何度も聞いた。ホロコースト研究を専門とする英マンチェスター大学准教授のジャン=マルク・ドレフュスに聞いてみたら、これはうわさに過ぎず、ユダヤ人オーナーだったのはずっと昔のことだという。ただ、バタクランが一部の反イスラエル派から批判の対象となっていたのは間違いないそうだ。

『シャルリー・エブド』事件にあたってユダヤ人スーパーが標的となったことからも、現代のイスラム過激派が「ユダヤ人」を標的にしているのは間違いない。今回もその一環としてバタクランが選ばれたと、容易に想像できる。なお、バタクランがイスラエルと実際につながりがあるかどうかは、この際重要でない。標的になるには、過激派たちが勝手に思い込むだけで十分だ。

イスラム過激派はなぜそれほどユダヤ人にこだわるのか。フランスで、ユダヤ人は存在が見えにくい。アントワープやマンチェスターなどでよく見かける黒い帽子に長いひげの超正統派は、ほとんど目にしない。ユダヤ人としてのアイデンティティーを強調する人も少なく、一般のパリジャンとして社会に溶け込んでいる。なのに、過激派はなぜそれを、際立たせようとするのか。(つづく)

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国末憲人

1963年生れ。85年大阪大学卒。87年パリ第2大学新聞研究所を中退し朝日新聞社に入社。富山、徳島、大阪、広島勤務を経て2001-04年パリ支局員。外報部次長の後、07-10年パリ支局長を務め、GLOBE副編集長の後、現在は論説委員。著書に『自爆テロリストの正体』(新潮新書)、『サルコジ―マーケティングで政治を変えた大統領―』(新潮選書)、『ポピュリズムに蝕まれるフランス』『イラク戦争の深淵』(いずれも草思社)、共著書に『テロリストの軌跡―モハメド・アタを追う―』(草思社)などがある。

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(2015年12月2日フォーサイトより転載)