映画『リベリアの白い血』が描き出す「移民」たちの苦悩

なぜ日本人が「リベリア移民」を取り上げたのか。公開に合わせて来日した福永監督に聞いた。

西アフリカに位置する小国リベリアは、アメリカで解放された黒人奴隷たちが移住し、1847年に建国された。1989年から14年間、2度にわたって先住部族や反政府組織らと政府軍の間で激しい内戦が繰り広げられ、27万人以上の死者と79万人以上の避難民を出した悲劇の歴史をもつ。

そのリベリアを舞台にした映画『リベリアの白い血』(米・リベリア合作)が、8月5日より公開中だ。

監督は、ニューヨークを拠点に活動している日本人で、これが長編デビュー作となる福永壮志氏(34)。リベリアのゴム農園で働く男性が単身アメリカ・ニューヨークに渡り、移民として様々な現実に直面する姿を描く。ときに心に刻みつけられるような美しい映像を映し出しながら、内戦の傷跡が残るリベリアの現状や移民の苦悩などリアルな姿を捉え、日本人として初めてロサンゼルス映画祭最高賞を受賞するなど多くの賞を獲得。リベリアで撮影された長編映画としては2作目、政府公認の映画組合とともに制作された史上初の作品でもある。

なぜ日本人が「リベリア移民」を取り上げたのか。公開に合わせて来日した福永監督に聞いた。

日常の裏側にある物語

――この作品に取り組むキッカケは何だったのですか。

もともとは、この映画の撮影監督であり、リベリアでのロケ中にマラリアに感染して撮影後に亡くなってしまった村上涼が、数年前、国連のプロジェクトでゴム・プランテーションの労働者のドキュメンタリーを手掛けていました。そのプロジェクト自体は途中で中止となってしまったのですが、彼自身はそのテーマに興味を持ち続け、独自に調査を継続していたのです。そして2007~08年、村上はカメラを1台だけ持って単身リベリアに渡航しています。無鉄砲にもゴム農園に忍び込んで警備員に捕まってしまうなど、かなり悪戦苦闘したようです。

彼は高校卒業後に渡米して映画を学び、ニューヨークで活動していました。僕にとっては映像関係の先輩でもあるのですが、実は義弟ということもあって、僕もそのドキュメンタリー作品に編集として参加していたんです。その映像を見ているうちに、過酷な労働や生活の中でも、尊厳を持ってひたむきにたくましく働くリベリア人の姿に心を打たれた。傍から見たらとても幸せとは思えないような人たちが、実はとても素敵な「笑顔」を持っていることにも感銘を受けて、様々なことを考えさせられたんです。そこで当時、初めて取り組む長編映画として構想していたのが、ニューヨークに住む移民を主人公にした物語だったので、その背景をリベリアのゴム農園の労働者に設定することにしたのです。

同時に、ゴムの原料であるラテックス(樹液)を採取する現場を目にし、当たり前のように使用している日常品の裏側に、どんな状況があってどういう人たちが働いているのか、普段はまったく何も考えずに生活していることにも気がつきました。アメリカで使用されているゴム製品の多くがリベリアの農園で原料を採取しており、僕たちは製品を通してすでに彼らとつながっていることもわかりました。そこから生活の向き合い方、物とのつき合い方が変わったんです。

ただ、だからといって、いきなりアフリカに行って慈善活動やボランティアをするとか、多額の寄付などできないのですが、多くの人が物と人とのストーリーに想像力を働かせることができるようになれば、映画で伝える「意義」があるのではないかと思ったこともこの作品を撮る動機となりました。

 日本とリベリアは現状も文化も大きく違いますが、この映画を通して伝えたいことは、普遍的なこと。日本人がリベリア人を撮影するのではなく、同じ人間を描くのだということを常に意識していました。

――監督は北海道伊達市のご出身ですね。その後、秋田にあるアメリカの大学の日本分校に進学されたとのことですが、なぜ日本ではなく、アメリカで映画制作を行うようになったのでしょうか。

その日本分校に入学して2年後にミネソタ州の大学に編入しました。それは日本以外の文化や価値観に触れたかったから。「芸術」って才能のある人だけが何年も修練して、ようやく「形」になるもの、という敷居の高いイメージが僕の中にあり、自分が踏み込んでいいものだとは思っていなかったんです。それがアメリカの大学で写真や映像アートのクラスを選択したら、みんな、他人の評価は気にせず、自信を持って自分の作品を堂々と発表している。その姿に「芸術は開かれたものなんだ」と刺激を受け、思春期によく観ていた映画の道に進むことにしました。2005年、ニューヨークの映画専門学校に進学して2年間学んだ後、そのまま現地の映画会社に就職しました。それからフリーランスになったり、映像にはずっとかかわっているのですが、最初は生活するのが大変で、なかなか映画を撮影することができなかった。ようやく落ち着いてきたときに、映画をやりたくて進んだ道なのに、そこから離れていると気がついたんです。「映画」と「映像」は違う。これは撮れるときに撮らないと一生手をつけることはできないだろうと、差し迫った感覚で取り組み始めたのが、『リベリアの白い血』です。

――専門学校の卒業前に制作した短編作品が「米国映画批評会議」で入賞するなど、本作以前にも短編は制作されていたんですね。

自主制作した短編映画というのは、人生に行き詰まったニューヨークの保険セールスマンの物語で、振り返ってみると、今回の作品の底辺にも流れている「アイデンティティ」の問題は、いつもテーマに入っていたような気がします。自分自身が日本に馴染めないという感覚で海外に出ましたが、アメリカに住んでみると日本の良さもたくさん見えましたし、通じるものがあることも分かった。ただ、長編映画はまったく異なる1つの大きなステップなので、短編ばかり撮っていても埒が明かない。行きたい方向に近付いていないというもどかしい感覚がありました。

郷に入れば郷に従え

――映画は2部構成になっていますね。2013年にリベリアで、14年にニューヨークでそれぞれ撮影されたそうですが、とりわけ現地での撮影には大変な苦労があったのではないでしょうか。

リベリア政府から国内で撮影してかまわないという許可は、確か2000ドルほどでもらえるのですが、それは建前に過ぎず、それぞれの撮影場所で改めて交渉しなければなりません。ロケ地となるゴム農園のオーナーに会う約束を取り付けようとしても、取り次いでもらえない。ようやくアポが取れて、2時間かけて会いに行っても会うことができず、次に行ってもいない......と、根気を試されることが多かったですね。

時間の感覚が違うので、スタッフやキャストも2時集合なのに、3時、4時に来るのは当たり前。あっさり来ないというのも、ざらにありました。こちらは限られた予算と期間でやらねばならないので、時間の遅れはかなり妨げになりました。ですが、こちらの常識に合わせてもらうのは限界があるので、「郷に入れば郷に従え」でやるしかありません。電気など現代的なエネルギーもなく、撮影には発電機を自ら持ち込まなくてはなりませんでした。これが何もない平原で撮影したりすると、ものすごく音がして人が集まってきちゃったり、その配置にも苦労しました。

それでも、政府傘下の映画組合が、キャストのオーディションのセッティング、スタッフの手配、ロケーションやギャラの交渉まで全面的に協力をしてくれたので、その面ではスムーズにいきましたね。

――撮影にもかなり時間を割いたのではないでしょうか。

 撮影期間自体は3週間ちょっとですが、僕自身は3カ月ほど現地にいました。もともとは2週間の予定で、キャストを集められるか、撮影に適したロケーションが見つかるかなど、確認しに行ったんです。組合のおかげで才能あるキャストにも出会え、キーとなる場所も決まって、いったんニューヨークに戻るはずだったのですが、文化の違いを肌で感じたことで、半年や1年後に戻ってきても振り出しに戻るだけだと思い、無理やりかき集めた資金で、そのまま留まってリベリア部分を撮影することにしたんです。ただ、雨季に差し掛かっていましたから、どしゃ降りで撮影を中断しなければならないことも多く、本当にギリギリでしたね。

義弟の死で1年は手につかず

――困難の連続に追い打ちをかけるように、リベリアでの撮影後、撮影監督で義弟でもある村上さんがマラリアで命を落としてしまうという不幸があったのですね。

僕自身もマラリアに罹り、現地の病院に入院していました。衛生面などかなり不安な病院でしたが、マラリアには慣れているので、何とか治療できましたが......。撮影も数日休んだだけで何とか先に進めてもらったのですが、やはりあまり使える部分はありませんでした。

村上が亡くなったのは、ニューヨークに戻ってきた後の2013年6月29日です。その後、1年は何も手につきませんでした。自分の映画の企画で起こったことなので、後悔や罪悪感にさいなまれ、映画制作を続けようとなかなか思えず、ニューヨークに残るか否かも考えました。リベリア部分だけで編集しようかとも考えたのですが、それでは成り立たない。1年ほど経って落ち着いてきたときに、これまで自分に与えられたものと、これから人生で何ができるかということを改めて考えました。この映画を途中でやめれば、村上は僕のことを叱るだろうし、彼も浮かばれない。自分も不幸に対して負け犬になってしまう。できることをやって挽回しなければ映画の完成はないだろうと気持ちを入れ替え、学生時代からの知人のアメリカ人を新しい撮影監督としてスタッフに加え、クラウドファンディングで資金を集め始めました。それが、2014年春のことです。

――主演のシスコを演じたビショップ・ブレイは、苦悩を胸に抱えながら生きる複雑な役を見事に演じています。静かに佇む彼の姿には「知性」も感じますが、彼は現地のオーディションで選ばれたのでしょうか。

各映画祭でも彼の演技力は高く評価されました。表情に感情がこもっていて、それが「顔」に出ている。それは演技だけではなくて、彼自身が持っている「何か」だと思います。

ビショップは、シスコと同じように、リベリアの内戦中、北部のゴム農園で働いていた経験があります。その後、内戦から逃れてたどり着いたガーナの難民キャンプで演技に興味を持ち始め、他の仕事をしながら、国内の映画にたびたび出演していました。ニューヨークでの撮影後は、アメリカの市民権を持つリベリア移民の女性と結婚して、アメリカで俳優の夢を追い続けています。

――リベリア・ロケに出演しているのはみな現地の俳優ですか。

現地の方ですが、役者ではない人もたくさん出演しています。彼らが普段観ている映画は、ローカルのプロダクションのものかハリウッドの作品ばかりなので、最初はどうしても演技が大げさで......。リハーサルを1~2週間行いましたが、彼らの演技をできるだけ抑えるように努めました。

脚本は、ニューヨークに住むリベリア移民の人たちに直接インタビューするなどリサーチしながら、アメリカ人のパートナーと書き上げました。もちろん、リベリアに実際行ってみれば想像とは齟齬が出てくるだろうと、当初から考えていました。それでリベリアでは、現地のライターさんに協力をしてもらって、現実の方に歩み寄るようにしたんです。リベリアはアメリカで解放された黒人奴隷によって建国されたため、公用語が英語です。けれど、日本でいうなら津軽弁のような訛りの強い英語なので、リハーサルでは俳優が言いやすいようにセリフを変更しました。

『グローリー』監督の後押し

――ニューヨークに渡ったシスコはリベリア人コミュニティに身を置き、タクシードライバーとして働き始めますね。過去が浮き彫りになるような、つらい現実にも直面します。

リベリアに住む人たちの多くは、アメリカは素晴らしい国で、移り住めば問題がすべて解決できると心底思っているんです。でも実際行ってみれば、壁にぶち当たり、いろんな苦悩を知る。シスコを通して、目の前にあることに向き合い、かつ逃げない強さを保ったままの人物を描きたかった。が、わかりやすいエンディングではないので、ラストには賛否両論あるかもしれません。

――同じ「移民」として、シスコに監督自身を重ね合わせているのでしょうか。

自己投影は自然にされているかもしれません。移民としてあの場所にいる孤独感だったり、故郷を離れることで向き合うアイデンティティの問題だったり、故郷であのまま過ごしていたらどうだったんだろうと想像してみることだったり......。

――アメリカでの劇場公開には、アカデミー賞主題歌賞ほか多数の賞を受賞した『グローリー/明日への行進』で知られるエヴァ・デュヴァネイ監督の後押しがあったとか。

エヴァはロサンゼルス映画祭を運営する「Film Independent」のボードメンバーの1人でもあり、『Out of My Hand』(『リベリアの白い血』の原題)が最高賞を獲得したときに、注目してくれたんです。彼女は2010年に『AFFRM』(アファーム)というアフリカン・アメリカ人監督の作品だけを配給する会社を立ち上げていますが、2015年に『ARRAY』(アレイ)と社名を変えてリブランディング(再構築)しました。新しい会社はアフリカン・アメリカ人に限らず、白人男性以外、女性やアジア人を含めたいわゆるマイノリティの監督作品を支持、配給することになりました。その第1弾が、僕の作品だった。エヴァの影響力は大きく、一緒にインタビューを受けてくれたおかげで、格段にメディアの露出が増えましたね。

今回の映画は、もうダメかもしれないというときに何かが起こる。配給会社が見つからないときリブランディングのタイミングでエヴァに目をかけてもらって、全米で公開されましたし。いろんな意味で、誰かに、何かに、知らず知らず後押しされている感覚があります。

次作のテーマは「アイヌ」

――本作は2015年2月にベルリン国際映画祭で正式上映されて脚光を浴び、ロサンゼルス映画祭最高賞、サンディエゴアジアン映画祭新人監督賞ほか、様々な賞にノミネートされ、高い評価を得ています。

もちろん光栄なことですし、嬉しいのですが、賞をまったくもらえなくても、配給がつかなくても、素晴らしい作品はたくさんあります。賞というもの自体が、必ずしも作品の本質的な評価につながるものだとは思っていません。ただ、賞を獲得したおかげで、多くの人に作品を知ってもらう機会になると思っています。自分の作品に対して、自分の中での評価はありますし、できるだけつくる「意義」のあるものを主題に選びたい。

――次回作はすでに動き出しているのでしょうか。

アイヌをテーマにした作品を準備しています。アイヌに関しては、映画を抜きにしても個人的に興味がありました。日本人はもとより、北海道の人でも、アイヌの現状や、どんなアイデンティティを持っているのか、どんな葛藤があって今に至るのか、あまり知りません。教科書では1ページも割かれていない、ほんの数行で説明が終わってしまう歴史の陰に隠れてきた民族なので、映画を通して少しでも理解が深まれば、と。この映画を撮ってみたいと思ってから2年ほど経ちますが、北海道の各地を回ってアイヌの方々に話を聞いてきました。まだ資金集めなどいろいろと課題はありますが、来年の夏の撮影を目指しています。

またこのアイヌの映画は、カンヌ映画祭の新人育成プログラムの企画で通っているので、世界に向けて発信するにも国際共同制作には大きな意味がある。海外ではアイヌの存在自体あまり知られていないので、日本の多様性を知ってほしいと思っています。 

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(2017年8月6日フォーサイトより転載)

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