日清食品創業者の安藤百福と、その妻・仁子をモデルにしたNHK連続テレビ小説『まんぷく』。好評のまま、物語は佳境を迎えつつあるが、終盤の山場は、安藤氏が無一文からチキンラーメンの開発で「一発逆転」を勝ち取るところだ。一方、安藤氏や日清食品側はかねて「発明」説をとってきたが、そこには異論も少なくない。本連載「世界漫遊『食考学』の旅」の番外編として、安藤氏が暮らした台湾と大阪の現地取材で検証した。
「発明」説にはいささか納得できない
夜食でチキンラーメンを食べるのが楽しみだった。柔らかめに麺を茹でるのが好きで、醤油と鶏ダシと油の混ざった汁を、たっぷり麺に吸わせて、ずるずるっと啜り上げる。高校時代の受験勉強で夜中にお腹が空くと、鍋に水と麺を最初から入れてつくった。そうする方が麺がよくふやけるからだ。気が向けば、卵もひとつ落とした。
チキンラーメンにお世話になった日本の受験生は少なくないはずだ。私が付け焼き刃の受験勉強でギリギリ志望大学に合格できたのも、そのエネルギーに負うところが大きいのかもしれず、チキンラーメンには恩があるのだ。
私は昨年刊行した『タイワニーズ 故郷喪失者の物語』(小学館)で日清食品の創業者・安藤百福氏のことを書くにあたり、取材のために大阪府池田市と神奈川県横浜市にそれぞれ設置されている「安藤百福発明記念館」を訪れた。その両方には、研究小屋が設置されており、そこで安藤氏が試行錯誤を繰り返しながらチキンラーメンの発明にたどり着いた経緯が詳細に紹介されていた。
それを見たとき、過剰なまでの自己顕示を感じた。発明した、というのは、1つの科学的な作業の結果であって、事実自体に説得力が備わっているものだ。記念館での展示には、実際以上に物事を美しく見せようとするプロパガンダの匂いがどこか感じられたのである。
だから本連載のなかで、チキンラーメンの源流を訪ねて歩いてみたいと心に決めていた。それもこれもすべて、私のチキンラーメン愛ゆえのものであることを断っておきたい。
安藤氏の自伝『魔法のラーメン発明物語』(日経ビジネス人文庫)によれば、安藤氏は戦後まもまく、経営していた信用組合の破綻で無一文になった。そこで自宅に研究小屋を建て、即席麺の開発に取り組み、苦心の末、妻が天ぷらを揚げる姿にインスピレーションを受け、油で麺を揚げる「油熱乾燥法」にたどり着いた、という。安藤氏はこれを「発明」と述べている。私はこの説明にいささか納得ができないところがあるのだ。
台湾のチキンラーメン「本家」へ
日本からおよそ3時間でひとっ飛びの台湾で、中部にある彰化という、ややマイナーな県の、さらにマイナーな員林という街を私は目指した。
ここに「チキンラーメン」の「本家」があるという情報を聞きつけたからだ。
桃園国際空港から桃園駅に直接向かい、1時間ほど新幹線に乗って彰化駅で降りる。そこからタクシーで20分。員林にやっと到着した。
駅前にあったその店の名前は「清記冰果店」。店長の戴逸さんが取材に応じた。
店の創業は日本が戦争に負けた直後の1946年に遡るという。店を開いたのは、戴逸さんの祖父にあたる戴清潭さん。日本統治時代は「田代」と名乗り、日本軍の兵隊だったという。
最初、店ではアイスキャンディーや果物を売っていた。だから店の名前にはいまも「氷果」の2文字が残っている。ただ、冬になると商売が落ち込むので、紅豆湯(台湾風おしるこ)などの甘味を売るようになった。さらにもう1品、何か名物を作ろうと、麺を油で揚げた料理を思いついたのが、戴清潭さんの妻だった。
極細の麺を揚げ、麺に絡めるスープに鶏のダシを使ったので、「雞絲麵」と名付けて売り始めた。まさに「チキンラーメン」である。違う点は、揚げた後に麺に粉をまぶして味をつけたところだ。チキンラーメンは揚げる前に麺に味付けをしている。細い麺にしたのは、太い麺だとうまく揚がらなかったからだという。
日本へ送られていた雞絲麵
店の奥で、ちょうど麺を揚げていた。揚げ方は基本、祖父時代と何も変わっていないという。油に麺を入れる時間は30秒。週に1回まとめて揚げて、保存する。油が麺に付着するので、お湯を注ぐと「油香味」がする。それがうまさの秘訣でもある。油はもともとラードだったが、いまは菜種油を使っている。
この雞絲麵は好評を博し、あっという間に台湾全土に広がった。チキンラーメンの「発明」より10年以上前のことだ。
当時の日本は食糧難であった。日本には多くの台湾人が戦前から暮らしていた。台湾の家族から日本の家族へ、雞絲麵は盛んに船便で送られたという。
台湾人の父と日本人の母との間に生まれたエッセイストの一青妙さんには、こんな記憶がある。父は台湾の5大財閥、顔一族の長男で、終戦直後から日本に留学していた。
「父は戦後すぐに日本に戻ってきていたのですが、日本の友人たちを家に集めて食事会をよくしていたそうです。父の死後、同級生の方から聞いたのは、顔さんの家にはいつも『ケーシーミー』があるので、楽しみにしていたということでした」
「ケーシーミー」とは雞絲麵の台湾語読みである。
安藤氏の本によれば、チキンラーメンの発明は1958年ということになっている。しかし、一青さんのお父さんは、それよりずっと前の「終戦直後」に雞絲麵を日本で食べていたことになる。
清記冰果店では、着味のベースは鶏肉、鰹節を使い、揚げニンニク、冬菜を具として入れている。「発売してから70年ですが、味はほとんど変わっていません」(戴逸さん)。注文して食べさせてもらった。
チキンラーメンより少し薄味のスープで、麺はかなり細く感じる。一食、245キロカロリー。夜に小腹が空いたときに食べるのにぴったりだ。卵を落としているところはチキンラーメンに似ている。
ループしながら広まる安藤氏発明説
チキンラーメンが安藤氏の「発明」という説は、常に拡大再生産されている。とくに日本では昨2018年10月から始まった『まんぷく』の放送にあわせて、おそらくブームをあてこんだラーメン関連本が相次いで発売された。
例えば2018年9月に発売された徐航明著『中華料理進化論』(イースト新書Q)は、「即席めんの生みの親は、日清食品の創業者である安藤百福氏だ」と書いており、安藤氏が自伝『魔法のラーメン発明物語』で書いている内容をそのまま引用している。
安藤百福発明記念館による『チキンラーメンの女房 実録 安藤仁子』(中央公論新社)や『安藤百福とその妻仁子 インスタントラーメンを生んだ夫妻の物語』(KADOKAWA)なども刊行されたが、当然、発明説に準拠している。
少し前になるが、2011年に刊行された『ラーメンと愛国』(講談社現代新書)という本も、「当時、百福自身は、まだ支那そばというものを口にした経験はなかった。しかし、その支那そばをもっと手軽に、例えば家でつくって食べられるようにすれば、必ずやそのビジネスは成功するだろう」と安藤氏の心情を描写してみせている。
だが、これは説得力がない。麺文化のある台湾で生まれ育った安藤氏が、支那そば=湯麺(スープの入った麺)を食べたことがないはずはないからだ。
安藤氏発明説がループしながら広がっていくこの事態に、私は危機感を覚える。これからチキンラーメンのくだりに差し掛かっていく『まんぷく』も「発明」説でいくのだろう。実話に基づいたとはいえ、基本はフィクションであるテレビドラマだからいいではないか、という考え方もあるだろうが、「発明」という客観的事実に対して、正しい情報が伝えられて欲しいし、後世まで読み継がれて行く印刷物ならなおさらである。
台南「意麺」の老舗へ
彰化から南へ行くと、安藤百福氏の生まれ育った土地である嘉義県朴子市に至る。その朴子から、さらにちょっと南下すると、隣の行政区域である台南市になる。その境界のあたりに、台南名物の麺「意麺」の産地、鹽水という町がある。
意麺は、ちょっときしめんに似た食感の平たい麺で、特徴はしこしこした歯ごたえだ。街中で、麺を天日で乾燥させている光景を目にすることができる。意麺の店もあちこちにある。
食べてみると、かなりチキンラーメンの食感に似て、しこしこ系の平めんである。「湯麺」形式で食べる人と、茹で上げたあとに水を切って調味料や具材を混ぜる「乾麺」形式で食べる人が、ほぼほぼ半分ぐらいだ。私は、両方頼んで食べた。台湾では麺単品は日本のラーメンの半分ぐらいのボリュームなので、ほかにオカズをいろいろ頼んでお昼や夜の食事にする。だから2種類頼んでも、まったく問題なく完食できる。ここではしこしこ感がより楽しめる乾麺の味に軍配をあげた。
さらに南下を続けた私が、麺紀行の終着点として訪れたのは、台南で最も古いマーケットと言われる「西市場」だった。台南市の中心部にあり、もともとは衣類を中心とする市場だったが、衣類が斜陽産業になると、逆に市場のなかで市場関係者向けに設置されていた飲食店の人気が高まった。築地市場の場内市場の店をイメージしてくれればいいだろう。
やや暗がりのなか、市場を歩いていくと、奥の奥のスペースに、大正4(1915)年に営業を始めたという老舗があった。「阿瑞意麺」。そんな場所なのに、お昼前から常連客らしき人々でほぼ満席だ。大正4年と言えば百年以上の歴史になる。
「大正時代から油で麺を揚げている」
この店の名物は、油で揚げた意麺だ。
3代目にあたる葉瑞栄さんは日本語教育を受けた両親に育てられ、家の中では両親のことを「とうちゃん、かあちゃん」と呼んでいたという。
「とうちゃんから直接聞いた話によれば、祖父が店を始めて4年後に意麺を揚げて出すようになったんだよ。台南は暑いから保存が少しでも長く効くようにって」
揚げた麺はいったん熱が冷めるまで待ってからビニール袋で包む。それでも5日程度しか保存できない。しかし、打ち立ての麺はそのままだと2日しか持たないので、かなりの違いがある。
「油で揚げているから、熱々のスープで戻すことが大切。そうしないと、麺の歯触りがもちもちしないんだ。お客さんに阿瑞の意麺は一味違うって言われるのが嬉しいね」
チキンラーメンにも通じる平打ち麺のつるつるの喉越しがたまらない。鶏と豚でダシをとったスープは透き通っている。1枚の小さなチャーシューに肉そぼろとネギ。ゆで卵が半分。何度でも食べたいと思わせる、100年の老舗の時間が詰まった柔らかく深みのある1杯の麺だった。
葉さんに、日本の安藤氏が1958年に油揚げの調理法を「発明した」と主張しているが、どう思うか尋ねてみた。葉さんが語った言葉は印象的だった。
「うちは大正時代から油で麺を揚げている。それは間違いない。自分はもう63歳。この仕事を50年間やってきた。それは本当のこと。あとはどうでもいいさ」
そして、こう付け加えた。
これは、中国語の故事成語で「1つの物事には、その人の立場によって、異なる見方があるものだ」ということを意味している。
確かにその通りだ。そして、私は私の見方として、チキンラーメンの源流は、この台湾南部にあることを確信した。安藤氏の「発明」よりずっと前に、彼の故郷の台湾南部で、油熱で麺を揚げて調理する方法が、広く普及していた。
では、チキンラーメンは発売当時の日本で「発明」と受け止められていたのだろうか。次の目的地・大阪では、チキンラーメンを売り出したばかりの安藤氏に対して、即席麺の製造法に関する「特許」を売り渡したという、安藤氏と同じ台湾南部出身者の子孫が、私を待っていた。(つづく)
野嶋剛 1968年生れ。ジャーナリスト。上智大学新聞学科卒。大学在学中に香港中文大学に留学。92年朝日新聞社入社後、佐賀支局、中国・アモイ大学留学、西部社会部を経て、シンガポール支局長や台北支局長として中国や台湾、アジア関連の報道に携わる。2016年4月からフリーに。著書に「イラク戦争従軍記」(朝日新聞社)、「ふたつの故宮博物院」(新潮選書)、「謎の名画・清明上河図」(勉誠出版)、「銀輪の巨人ジャイアント」(東洋経済新報社)、「ラスト・バタリオン 蒋介石と日本軍人たち」(講談社)、「認識・TAIWAN・電影 映画で知る台湾」(明石書店)、「台湾とは何か」(ちくま新書)。訳書に「チャイニーズ・ライフ」(明石書店)。最新刊は「タイワニーズ 故郷喪失者の物語」(小学館)。公式HPは https://nojimatsuyoshi.com。