韓国の大法院(日本の最高裁判所に該当)は10月30日、日本の植民地支配の時期に日本本土の工場で強制労働をさせられたとする元徴用工4人が、新日鐵住金を相手に損害賠償を求めた訴訟の上告審で、控訴審判決を支持して同社の上告を退け、1人当たり1億ウォン(約1000万円)の支払いを命じた。
安倍晋三首相は「本件については、1965年の日韓請求権協定によって、完全かつ最終的に解決している。今般の判決は国際法に照らしてあり得ない判断だ。日本政府として毅然と対応していく」と語った。
日本国内では韓国への強い批判が起き、日韓関係の基盤を揺るがしかねない判決という指摘が出ている。韓国では日本企業を相手取って同様の訴訟が10件以上起きており、今後、相次いで原告勝訴の判決が出る可能性が高く、さらに新たに訴訟に踏み切る人たちが出てくる可能性もある。
だが、韓国内の状況を考えれば、この事態は韓国の大法院が2012年5月、それまでの元徴用工関連の判決を棄却して審理を高裁に差し戻した時点から、「十分にあり得る」判決であった。この大法院判決を受けて、2013年7月にソウル高裁が新日鐵住金に、釜山高裁が三菱重工業に、それぞれ原告勝訴の賠償命令を下したが、両社ともその後上告した。
韓国の最高裁はその後、審理、判決を先延ばしにしてきたが、2012年の大法院の判決を考えれば、判決の期日が決まれば原告側が勝訴することは確実と見られてきた。「その日」がやってきたということである。
本稿では、できるだけ冷静に、客観的に、この判決の問題点を考えてみたい。なぜなら、この判決自体が問題でも、日韓のこれまでの歴史的事実が変わるわけでもなく、韓国がどこかに引っ越すわけでもない。われわれはこの状況を踏まえてどのように日韓関係をつくっていくのかを考えなければならないからだ。
個人請求権は消滅したのか
日本のメディアでは、韓国側の請求権は日韓請求権協定で消滅した、ということがよく言われる。
請求権協定の第2条第1項には「両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、1951年9月8日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第4条(a)に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」とあり、「完全かつ最終的に解決された」とされている。冒頭で触れた安倍首相の談話も、この認識に基づいているものと思われる。
しかし、実は日本の行政や司法は従来、この協定下にあっても、厳格な意味では、個人の請求権が消滅したとするものではないという立場を取ってきた。この事実と経緯を踏まえたうえで今回の判決を議論しなければ、問題の本質を見誤り、単なる感情論に流されてしまいかねない。
1991年8月27日の参議院予算委員会で、当時の柳井俊二外務省条約局長は日韓請求権協定第2条などの規定について、「これらの規定は、両国国民間の財産・請求権問題につきましては、日韓両国が国家として有している外交保護権を相互に放棄したことを確認するものでございまして、いわゆる個人の財産・請求権そのものを国内法的な意味で消滅させるものではないということは今までもご答弁申し上げたとおりです。これはいわば条約上の処理の問題でございます。また、日韓のみならず、ほかの国との関係におきましても同様の処理を条約上行ったということはご案内のとおりでございます」と述べている。
つまり、厳密な意味での個人請求権は消滅しておらず、個人が、被害を受けた国に対して損害賠償などを主張することに対する外交保護権がない、ということである。
この柳井局長の発言は、韓国からの個人請求権要求をどう理解するかということでよく引用される。
日本政府がこういう立場に立った背景には、朝鮮半島に財産を置いてきた日本人への賠償問題があったと考えられる。それは、日本政府が日本人の財産を請求する権利そのものを否定するなら、日本政府が請求権協定を締結したことで、財産を朝鮮半島に残してきた日本人に対して政府が賠償するという問題が生じてしまうからだ。
日本政府は、朝鮮半島に財産を残してきた日本人への補償責任を回避するためにも、外交保護権がなくなっただけで、その当該日本人が個人的に自身の財産権を主張する権利はある、とする必要があったのだろうと思われる。
請求権協定には「完全かつ最終的に解決された」とあるが、一歩踏み込んで見ると、問題はそう簡単ではないのである。
最高裁の西松建設判決
また、日本の最高裁は2007年4月27日、日中戦争中に強制連行され、広島県の水力発電所建設工事で過酷な労働を強いられたとして、中国人元労働者とその遺族計5人が西松建設に損害賠償を求めた訴訟の上告審判決で、原告勝訴の二審広島高裁判決を破棄して請求を棄却した。
請求権については、日本と連合国のサンフランシスコ平和条約は、「戦争状態を終了させるため、相互に個人賠償請求権も含めて放棄した」と指摘し、「日中共同声明の請求権放棄条項は個人を含むかどうか明らかとはいえないが、交渉経緯から実質的に平和条約で、サ条約と同じ枠組み」として、個人請求権を否定した。だが、「事後的個別的な裁判による解決を残すと、平和条約締結時に予測困難な過大な負担、混乱を生じる。請求権は消滅したのではなく、裁判上の権利喪失にとどまる」との解釈を示した。
ここでは、個人請求権は消滅していないが、「裁判上の権利」はなくなったとしているのだ。
またこの判決は、「日中戦争の遂行中に生じた中国人労働者の強制連行及び強制労働に係る安全配慮義務違反等を理由とする損害賠償請求であり、前記事実関係にかんがみて本件被害者らの被った精神的・肉体的な苦痛は極めて大きなものであったと認められる」と、強制連行や強制労働の被害の大きさを認めた。
その上で裁判官全員の一致した意見として、判決の最後に付言するかたちで「サンフランシスコ平和条約の枠組みにおいても、個別具体的な請求権について債務者側において任意の自発的な対応をすることは妨げられないところ、本件被害者らの被った精神的・肉体的苦痛が極めて大きかった一方、上告人は前述したような勤務条件で中国人労働者らを強制労働に従事させて相応の利益を受け、更に前記の補償金を取得しているなどの諸般の事情にかんがみると、上告人を含む関係者において、本件被害者らの被害の救済に向けた努力をすることが期待されるところである」とした。
裁判所は、日中共同声明の請求権放棄によって元中国人労働者の損害賠償請求を認めることはできないが、当該企業は中国人元労働者の被った被害を考えて、被害の救済に努力すべきであるとの期待を表明したわけである。
西松建設は訴訟には勝訴したが、最高裁のこの指摘を受け入れ、訴訟とは別に和解協議を始めた。同社は2009年10月に被害者に謝罪し、原告を含め360人の中国人労働者を対象に2億5000万円を信託し、被害救済のために基金を設立した。
司法は日中共同声明での請求権放棄を理由に裁判上の損害賠償を認めなかったが、被害を認め、企業の自主的努力による問題解決を期待し、企業もその期待に応えて問題解決にあたったのである。
被害者である日本人としての視点
ここまでの議論は、日本が被害者側から訴えられた際の議論である。日本人が被害者である場合の視点も必要だ。
1956年の日ソ共同宣言第6項は、「日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、1945年8月9日以来の戦争の結果として生じたそれぞれの国、その団体及び国民のそれぞれ他方の国、その団体及び国民に対するすべての請求権を、相互に、放棄する」とある。
日韓請求権協定において「請求権」そのものまで消滅したとする論理を援用するなら、日本と旧ソ連との間で行われた日ソ共同宣言により、シベリアに抑留された日本人はソ連に損害賠償請求ができないことになる。その代わり、日本政府がそうした請求権を放棄した以上、当該被害者に対して賠償責任を負うと考えるべきであろう。
シベリア抑留問題では、日本政府は放棄した請求権とは「我が国自身の有していた請求権及び外交的保護権であり、日本国民が個人として有する請求権を放棄したものではない。ここに外交保護権とは、自国民が外国の領域において外国の国際法違反により受けた損害について、国が相手国の責任を追及する国際法上の権利である」とした(山本晴太弁護士「日韓両国の日韓請求権協定解釈の変遷」参照)。ここでは、シベリア抑留者への被害補償を避けるために、「放棄した請求権」は「外交保護権」だけであり、個人請求権は存在するという論理が使われている。
こうした事例を見れば、日本の行政や司法のこれまでの判断は、日韓請求権協定で相互に放棄した請求権とは外交保護権や裁判訴追権であり、個人の請求権は存在していることを認めていると言える。個人の請求権を「完全かつ最終的に解決された」とし、「いかなる主張もできない」と決めつけるのは問題がある。
日本の最高裁の2007年の判決は、司法の限界を示しながらも、「付言」の形で企業の自主的な努力に期待を表明することで問題を解決しようとした一例と言える。
全面公開されていない日韓外交交渉記録
韓国政府は盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権時代の2005年に、日韓国交正常化に関する外交文書を公開した。この外交文書公開は、韓国政府が進んで公開したわけではなかった。韓国の住民が韓国政府を相手に日韓基本条約の締結に至るまでの外交文書57件の公開を求めて提訴し、ソウル行政裁判所が2004年2月、うち5件の文書を公開するよう外交通商省に命じた。こうした圧力の結果、2005年に公開したものだ。
韓国政府は保存している全部の文書を公開したとしたが、実際に外交文書を読んでみると、多くの文書が脱落していることは明らかだった。
筆者は当時ソウル特派員をしていて、この膨大な文書をチェックすることになったが、ある文書で前の報告を指摘しているのに、その指摘した文書が存在しないということが数多くあり、韓国側の文書管理のずさんさを感じた。
しかし、外交文書を公開した韓国政府はまだましで、日本政府は当時、国交正常化から40年が経過したのにもかかわらず、日朝交渉などを理由に文書の公開に応じず、その対応は今も続いている。韓国側が保管していた文書を「全部」公開した以上、日本側が秘匿するメリットはあまりないはずだ。おそらく、文書管理は日本の方がきちんとしていると思われるが、日本も不都合なものも含めて文書を公開すべきだろう。
2005年1月に公開された外交文書では、日本の植民地支配に伴う補償などの請求権について両政府間で一括して解決するため、被害を受けた韓国国民への個人補償義務を日本政府ではなく韓国政府が負う、と確認していたことが明らかになった。韓国外務省は同国経済企画院の質問に答えた1964年5月11日付の公文書で、1962年11月の金鍾泌(キム・ジョンピル)中央情報部長(当時)と大平正芳外相(同)の会談により、「(個人請求権を含め)各請求項目を一括して解決する」とし、「(韓国)政府は個人請求権保有者に補償義務を負うことになる」と明言していた。日韓両政府とも、植民地支配による被害者の救済に寄り添うという姿勢は希薄だった。
徴用工問題を請求権協定対象と認定した「民官共同委員会」
韓国では1965年の日韓基本条約と日韓請求権協定の締結後、1974年に「対日民間請求権補償法」が制定された。1977年6月までに91億8700万余ウォンの補償金が支払われたが、これは請求権資金3億ドルの約9.7%であった。そのうち、被徴用工の死亡者に対する補償金は、計8552件に対して1人当たり30万ウォン、総25億6560万ウォン(当時のレートで約37億2650万円)が遺族に支給されたが、負傷者ら生存者は対象外で、補償から除外された者も多くいたという。
韓国の第2次世界大戦後の国内の政治的葛藤は、近代化勢力と民主化勢力のせめぎ合いとよく言われる。近代化勢力は、日韓国交正常化で得た日本の資金で「漢江の奇跡」を実現したが、その資金を本来受け取るべきであった被害者に配慮することはあまりなかった。
一方の民主化勢力は、軍事政権打倒など政治の民主化に全力を集中し、戦後補償の要求を掲げることはあまりなく、植民地時代の被害者の救済に積極的に乗り出す政治勢力は不在であったと言ってよい。
韓国では、朴正煕(パク・チョンヒ)政権、全斗煥(チョン・ドゥファン)政権と軍事政権が続き、戦後補償問題で大きな声は上がらなかった。
しかし、1987年の民主化運動で「6.29民主化宣言」が発表された。盧泰愚(ノ・テウ)政権は1988年のソウル五輪を成功させ、1990年代に入り、民主化されつつある韓国社会の中で慰安婦問題やサハリン残留韓国人問題、韓国人被爆者の問題が提起され始めた。だがこの時期でも、徴用工問題は「解決済み」という雰囲気が強かった。徴用工問題で裁判所への提訴の動きなどが顕在化したのは、1990年代後半になってからだろう。
韓国政府は盧武鉉政権の2004年3月、日本の植民地時代の強制動員の被害の真相を明らかにすることを目的にした「日帝強占下強制動員被害真相糾明などに関する特別法」を制定し、強制動員に対する調査が行われた。その一環として、韓国政府は2005年1月に外交文書の一部を公開し、その後「韓日会談文書公開の後続対策に関する民官共同委員会」(民官共同委員会)が発足した。
そして同年8月26日、李海瓚(イ・ヘチャン)首相の主宰でこの「民官共同委員会」を開催し、日韓請求権協定の効力範囲などについて協議した。
この日の民官共同委員会では、「韓日請求権協定は基本的に日本の植民地支配賠償を請求するためのものではなく、サンフランシスコ条約第4条に基づく韓日両国間の財政的・民事的債権債務関係を解決するためのものであった」とした。その上で従軍慰安婦問題、サハリン残留韓国人問題、在韓被爆者の問題は「日本政府・軍等の国家権力が関与した反人道的不法行為については、請求権協定により解決されたものとみることはできず、日本政府の法的責任が残っている」として、請求権協定の対象ではないとした。
しかし、「請求権協定を通じて日本から受け取った無償3億ドルは個人財産権(保険・預金等)、朝鮮総督府の対日債権等韓国政府が国家として有する請求権、強制動員被害補償問題解決の性格の資金等が包括的に勘案さているとみるべきである」とし、「政府は受領した無償資金中相当金額を強制動員被害者の救済に使用すべき道義的責任がある」とした。韓国政府が1975年当時に行った補償は、負傷者を対象から除外するなど、「道義的次元からみて被害者補償が不充分だった」とも指摘している。
李海瓚首相は「強制動員被害者らの苦痛と痛みを治癒し、国民統合を図り、政府の道徳性を高めるためには、遅ればせながら彼らに関する支援措置が必要である」と表明した。
この「民官共同委員会」の構成メンバーには、青瓦台(大統領府)の民情首席秘書官も含まれていた。当時の民情首席秘書官は、文在寅(ムン・ジェイン)現大統領であった。
さらに韓国は、その「共同委員会」における議論の流れで2007年12月、「太平洋戦争前後国外強制動員犠牲者等支援に関する法律」を制定し、死亡者に1人2000万ウォン(約200万円)、負傷者に障害の程度に応じて2000万ウォン以下の範囲で慰労金を支払い、生存者に年間80万ウォン(約8万円)の医療支援金を支給するなどの支援を決めている。(つづく)
平井久志 ジャーナリスト。1952年香川県生れ。75年早稲田大学法学部卒業、共同通信社に入社。外信部、ソウル支局長、北京特派員、編集委員兼論説委員などを経て2012年3月に定年退社。現在、共同通信客員論説委員。2002年、瀋陽事件報道で新聞協会賞受賞。同年、瀋陽事件や北朝鮮経済改革などの朝鮮問題報道でボーン・上田賞受賞。 著書に『ソウル打令―反日と嫌韓の谷間で―』『日韓子育て戦争―「虹」と「星」が架ける橋―』(共に徳間書店)、『コリア打令―あまりにダイナミックな韓国人の現住所―』(ビジネス社)、『なぜ北朝鮮は孤立するのか 金正日 破局へ向かう「先軍体制」』(新潮選書)『北朝鮮の指導体制と後継 金正日から金正恩へ』(岩波現代文庫)など。