安倍晋三首相は歴代首相の中で、最も熱心に日本の食文化と日本農産品のトップセールスに取り組んでいる首相と言っていいだろう。同首相になって官邸の饗宴が幾つかの点で変わったのもこのことと関係している。ある意味、官邸は外国首脳に向けた日本の食文化と農産品の発信拠点となっている。
来日した外国首脳のだれの時は饗宴を持ち、だれの時には持たないと外交慣例で決まっているわけではない。ただこれまで非公式訪問の時は省かれることが多かった。
しかし安倍首相は、「来日した外国首脳にはなるべく食事を差し上げよう」と官邸の事務方に指示している。それでなくても同首相のダイナミックな外交を反映して来日する外国首脳は多いから、饗宴は頻繁に持たれる。
和食と日本ワインで
饗宴は具体的にどう変わったか。第1に、それまで洋食、和食、和洋折衷の3種類のチョイスを提示して外国首脳の希望を聞いていたのを、和食1本に統一したことである(和食が苦手な首脳は洋食にする)。
第2に、以前はフランスを中心に外国ワインを出していたのが、安倍首相になってからは白、赤とも日本ワインとなった。もちろん首相の指示である。
第3に、それまで官邸と外務省が仕切っていた饗宴に、首相の指示で農水省もかかわるようになり、農水省の外食産業室に専門官が配置された。
饗宴が決まると、この専門官は農業協同組合(JA)を通して提案してもらった全国の旬の果物から幾つかを選び、それを料理を担当する都内のホテルに送る。それが饗宴のデザートとして出されるのである。
しかし単に出すだけでない。外国首脳とその同行者の席には、メニューのお品書きと一緒に見開きの冊子が置かれる。広げると、出される果物の写真と、産地の説明、そして日本貿易振興機構(JETRO)の連絡先が記載されている。「この果物を輸入する場合はここにご連絡を」との趣旨である。
例えば昨年10月24日、グルジアのマルグベラシビリ大統領を迎えた夕食会。
前菜(春菊ときのこ浸し、子持ち山椒煮、サーモン柿寿司......)
御椀(車海老岩石真薯)
お造り(鮪 鯛 平政炙り)
焼物(和牛ヒレ肉網焼き 蒸し鮑 長芋 パプリカ さつま芋)
蒸し物(伊勢海老 甘鯛 雲丹 小蕪 水菜 銀杏 百合根)
食事 五目炊込みご飯
香の物(津田蕪漬け 壬生菜 柴漬け)
留椀(赤出汁)
デザート(果物盛合せ)
アルガブランカ クラレーザ 2013年
ソラリス 信州千曲川メルロー 2008年
清酒 日高見(宮城県)
和食に日本ワインと日本酒の組み合わせ。大統領は大の和食ファンで、5日間の滞在中も和食で通した。白ワインの〈アルガブランカ クラレーザ〉は勝沼醸造(山梨県甲州市)のプレミアムワインで、ブドウ品種は甲州。〈信州千曲川メルロー〉は数々の賞を外国のコンクールで受賞している赤ワインだ。この時の果物は、柿、リンゴ、ブドウ、温州ミカンだった。
小泉首相の言動が下地?
日本の食文化の食材の素晴らしさを官邸のもてなしを通して外国首脳に知ってもらいたいという安倍首相が、農水省をかかわらせるようになった背景には、環太平洋パートナーシップ(TPP)協定交渉で、農業のテコ入れと輸出促進が急務なことがある。しかしそれだけではないと私は思う。
小泉政権だった2002年頃、こういうことがあった。小泉純一郎首相は忙しい公務の合間に、秘書官や特命チームの参事官と夕食を一緒にとりながら、これと決めずに意見交換していた。ある時、日本の農業が話題となり、ひとしきり言い合った後、首相はこう結論づけた。
「日本の農産品は品質がよく美味しく、安全だ。値段が高いから売れないというのはおかしい。輸出にもっと力を入れるべきだ」
首相は農水省から出向している参事官に資料を作らせると、驚くことが分かった。主席総理秘書官の飯島勲氏がその著『小泉官邸秘録』でこのことを書いている。
「この頃(02年)の農水省の対応は、全く輸出ということに目が向いていない状況だった......。日本から輸出している品目もろくに把握しておらず、輸出関連予算に至ってはだんだん減ってきていて、この年からなくなるような状況であった」
飯島氏によると、これ以後、小泉首相は機会あるごとに農業を話題に取り上げ、頑張っている農業者の話をし、これが浸透して農水省も重い腰を上げ、外国で見本市を開いたり、アンテナショップを支援し始めたという。
小泉首相の言動を近くで見ていた安倍氏もいろいろ感じ取ったはずである。農水省を饗宴に関与させたのにはこうした下地もあったと私は見ている。
官邸担当者の悩み
ちなみに安倍首相は外遊に際しても、折々に訪問先で和食レセプションを開き、日本の食文化と農産品のPRに余念がないが、これを仕切るのも農水省である。
昨年9月には、ニューヨークの国連総会に出席した機会を利用し、国連の日本大使公邸で和食レセプションを開いた。米国人シェフが日本を訪問し、日本で選んだ食材を用いた料理を提供するとのコンセプトで和食を振る舞い、総会に来ていた各国の首脳のほか、米連邦議会議員や大学関係者ら270人が出席して料理に舌鼓を打った。その前の5月の訪仏では、パリの日本大使公邸で同様に和食レセプションを開き、オランド仏大統領とともに和食をPRした。
農水省がかかわるようになったことを官邸は歓迎する。ある担当者は、
「安倍首相になって饗宴回数が急増したが、頭が痛いのは饗宴費が予算をオーバーしていること。ただデザートの果物と外国で開く和食レセプションは農水省予算なので助かっています」
としみじみ語っていた。
西川恵
毎日新聞客員編集委員。1947年長崎県生れ。テヘラン、パリ、ローマの各支局長、外信部長、論説委員を経て、今年3月まで専門編集委員。著書に『エリゼ宮の食卓』(新潮社、サントリー学芸賞)、本誌連載から生れた『ワインと外交』(新潮新書)、『国際政治のゼロ年代』(毎日新聞社)、訳書に『超大国アメリカの文化力』(岩波書店、共訳)などがある。2009年、フランス国家功労勲章シュヴァリエ受章。本誌連載に加筆した最新刊『饗宴外交 ワインと料理で世界はまわる』(世界文化社)が発売中。
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(2014年1月19日フォーサイトより転載)