6月10日にイラク北部モースルを、イスラーム主義過激派集団の「イラクとシャームのイスラーム国家(ISIS)」が掌握した。ISISの勢いは収まらず、南下して、バイジーやティクリートといったイラク中部の主要都市を制圧し、首都バグダードに迫ろうという勢いである。
2003年のイラク戦争以後、テロが止まず不安定と混乱でぐずつくイラク情勢だが、ISISの伸長が、全体構図に玉突き状に変更を迫り、周辺諸国や地域大国を巻き込んだ内戦に発展する危険性がある。
■ 「国際テロ組織」の範囲を超えた武装民兵組織
ISISは「アル・カーイダ系の国際テロ組織」と通常形容されるが、現在の活動はそのような形容の範囲を超えている。昨年3月にはシリア北部の主要都市ラッカを制圧し、今年1月にはイラク西部アンバール県のファッルージャを掌握、県都ラマーディーの多くも支配下に置いていた。
確かに組織の発端はイラク戦争でフセイン政権が倒れたのちの米駐留軍に対抗する武装勢力の一つとして現れた「イラクのアル・カーイダ」だった。しかしシリア内戦への介入をめぐって、ビン・ラーディンやその後継者をもって任ずるアイマン・ザワーヒリーの「アル・カーイダ中枢」とは対立し、袂を分かっている【関連記事】。
自爆テロを多用する手法には共通している面があるが、それは手段の一部であり、領域支配といったより大きな政治的野心を持つに至っているようである。イラク北部・西部や、シリア東部での活動ではテロを実行するだけでなく、内戦・紛争の混乱状況の中とはいえ、局地的に実効支配を試みている。所在を隠したテロ集団ではなく、政治勢力の一角に場所を確保する存在となりつつある。
ISISは組織としてのアル・カーイダの中枢とは、継続性や協力関係を薄れさせているが、思想としてのアル・カーイダという意味では、「正統」な発展形態といえる。
アル・カーイダの理論家アブー・ムスアブ・アッ=スーリーは、単発のテロで国際社会を恐怖に陥れる広報・宣伝戦を行うだけでなく、アラブ諸国やイスラーム諸国の混乱が生じればより大規模に組織化・武装化して領域支配を行う聖域(これをスーリーは「開放された戦線」と呼んだ【関連記事】)を作ることを提唱していた。長引くイラクの混乱と、2011年以降の「アラブの春」は、潜在的な聖域を各地に誕生させた。ISISがイラク西部と北部の機会をつかみ、一定期間でも聖域を確立して見せれば、世界のイスラーム主義過激派の中で一気に威信を高めるだろう。
また、今回のモースル占拠や各地の掌握は、ISISそのものが強大化したというよりは、イラク中央政府とマーリキー首相に対する不満・不信・敵意を募らせた各地の勢力が、ISISと呼応して膨れ上がった可能性がある。ISISがいかに戦闘能力が高いとは言っても、このような短期間でここまで組織を拡大し、版図を広げることは考えにくい。イラク中央政府への反発からISISの支配に期待する民意が急激な伸長の背後にあるのではないか。モースルをはじめ各地のイラク政府軍部隊が、司令官をはじめ平服に着替えて逃走しているところから、中央政府の求心力が軍の中でも効いていない可能性がある。
■ イラク内戦の多層的なシナリオ
イスラーム主義過激派による領域支配の出現という点だけでなく、より多方面への影響が危惧される。ISISの伸長は、イラクの諸勢力と周辺地域を巻き込んだ、幾層にも対立構図が交錯した本格的な内戦に結びつき、それをきっかけとして地域秩序の再編につながるかもしれない。
第1の要素が宗派紛争である。ISISは激しい反シーア派のイデオロギーを掲げており、シーア派が優位のイラク中央政府と激しく対立するだけでなく、シーア派住民への攻撃を行いかねない。シーア派諸勢力がそれを座視しているとは考えられず、南部のシーア派地域に侵攻、支配すれば激しい宗派対立をもたらすだろう。すでにシーア派諸勢力の武装化・民兵化が呼びかけられている。イラク戦争後に、「イラクのアル・カーイダ」を率いたアブー・ムスアブ・ザルカーウィーが反シーア派のイデオロギーを宣揚し、2006年から2008年にかけての激しい宗派紛争をもたらしたが、ISISはこれを再燃させかねない。
また、マーリキー政権はISISを「テロリスト」として過剰な攻撃を行いかねず、スンナ派地域への爆撃など、スンナ派住民全体への報復と取られる手段がとられた場合、各地で武装蜂起が呼応するかもしれない。
また、バグダードのような宗派混住地域では武装集団同士の衝突やテロの応酬が生じかねない。
第2の要素がクルド問題である。ISISの伸長はすでに、くすぶっていたクルド問題を劇的に動かしている。イラク北部のクルド人地域では、1991年の湾岸戦争の際に反フセイン政権で蜂起が起こったが鎮圧され、米国・英国による飛行禁止空域の設定でかろうじて庇護されて、事実上の自治を行ってきた。2003年のフセイン政権崩壊後は、イラク中央政府で大統領や外相など主要ポストを与えられつつ、北部3県(ドホーク、エルビール、スレイマーニーヤ)にクルディスターン地域政府を設立し、連邦的な枠組みの中での高度な自治を法的にも確保した。しかしクルディスターン地域政府の管轄外にもクルド人が多数を占め、歴史的にクルディスターンに帰属していると見なされている土地がある。代表的なのは大規模な油田を抱えるキルクークである。
モースルを含むニネヴェ県もクルド人とアラブ人が混住する。クルディスターン地域で産出する原油の輸出収入の配分と共に、クルド人から見ればクルディスターンに属すると主張するこれらの地域の帰属に関して、武力で決着をつける動きが進みかねない。
現に、ISISのモースル掌握、イラク政府軍の北部からの撤退を受けて、クルド人の武装組織ペシュメルガがキルクークを掌握したとされる。ISISに刺激され、政府軍の撤退の好機を受けて、クルド勢力が軍事的に版図拡大に乗り出したことで、今後のイラク中央政府との衝突が危惧される。
構図はシリア北部・北東部と似ている。シリアではアサド政権に対する武装蜂起が各地で行われ、政府軍がクルド人地域から撤退すると、反政府派とは一線を画したクルド勢力が各地を掌握し、自治を行っている。政府側と反政府側のどちらからも距離を置いて「漁夫の利」を狙うクルド勢力は、紛争の次の段階においては逆に諸勢力から追及されかねない。
■ イスラーム主義の聖域か、シーア派の弧か
第3の要素が内戦の国際化と地域秩序の再編である。内戦はイラクにとどまらず、周辺の地域大国を巻き込んで複雑化しかねない。イランはシーア派の聖地や住民を守るためと称して公然と軍事介入・攪乱工作を強めていくだろう。宗教の教義を巡る争いというよりは、ペルシア湾岸を挟んでイランとサウジアラビアの地政学的な闘争がイラクを舞台に繰り広げられているという構図だ。イラク内外の諸勢力が、イランとサウジアラビアの代理戦争に動員されることで、状況は一層複雑化し、収拾がつかなくなる可能性がある。
ISISはイラクとシリアの双方に拠点を持ち、往復しながら勢力を拡大させた。ISISの活動や一定の領域実効支配が長期化・定着すれば、イラクとシリアの国境・領土の一体性は致命的に損なわれる。中東の国境再編という「パンドラの箱」が開きかねない。そして、イランはそこに乗じて介入し、イランからイラク、シリア、レバノンへと至る「シーア派の弧」に支配を広げるという帝国的野心を高めるかもしれない。米国の覇権が衰退局面にあるという印象が広まっている中東においては、そのような野心をイランが抱いたとしてもだれも驚かないだろう。
ISISはイラクとシリアにイスラーム主義過激派の聖域を成立させるのか。あるいはそれに乗じてイランはシーア派の弧を拡張して飲み込むのか。その間隙を縫ってクルド勢力が悲願の支配地域拡大を果たすのか。
影響は地域内にとどまらない。モースルやファッルージャといったイラクの北部や中部の治安の流動化は、米国にとっても意味は大きい。ブッシュ政権時代の後半に、ペトレイアス将軍による「サージ(増派攻勢)」でテロリストを掃討して「平定」したことで、イラク戦争を「成功」とみなして撤退する根拠となったが、米国がかろうじて確保したイラクでの成果を、ISISの攻勢は一掃してしまった。米国の世論に与える衝撃は大きい。短期的にはそれはオバマ政権の「弱腰」に起因するものとして米国の内政上は議論されるだろうし、オバマ政権にとってはこれに実効性ある対処策を講じられなければ決定的に威信と影響力が低下してしまう。地上軍の派遣はあり得ないが、ドローン(無人飛行機)による攻撃などで参戦し、一層複雑化する可能性もある。
ISISそのものは、その過酷な統治のスタイルや計画性のない行動などから、領域支配を長期的に持続し拡大することはできないかもしれない。しかしISISの伸長が、危ういバランスによってかろうじて保たれていたイラクの領域主権国家というフィクションを突き崩し、解体・雲散霧消させるきっかけとなるかもしれない。
池内恵
東京大学先端科学技術研究センター准教授。1973年生れ。東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程単位取得退学。日本貿易振興機構アジア経済研究所研究員、国際日本文化研究センター准教授を経て、2008年10月より現職。著書に『現代アラブの社会思想』『イスラーム世界の論じ方』(2009年サントリー学芸賞受賞)、本誌連載をまとめた『中東 危機の震源を読む』などがある。
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(2014年6月13日フォーサイトより転載)