東京電力福島第1原子力発電所事故から6年過ぎた今年3月31日、政府から全住民の避難指示が出されていた福島県飯舘村などの被災地に、待ち望んでいた「避難指示解除」の報が届いた。
待ちくたびれたと表現するのが正しいかもしれない。原発事故がなければ、誰もが全く違う人生を送っていた。その命を縮めることなく今を暮らしていた、と思える人々が筆者の身近にいる。
「飯舘村の太陽」。そう呼びたいほどの笑顔と朗らかさで仮設住宅の同胞たちを支え、避難指示解除の5カ月後に息を引き取った佐野ハツノさん(享年70)もその1人。彼女はがんとの闘病に耐えながら「帰還」を待ち望み、古里の家で短い最後の日々を送った。
「ここにとどまりたい」
冬と春の境の寒さと曇り空。今年3月31日朝、飯舘村の中心部の草野商店街に人影はなく、原発事故以来閉じたままのシャッターが連なる。しかし、昨年夏にできた木造の飯舘村交流センター「ふれ愛館」(旧中央公民館)には、突然のにぎわいが降ってきたように、多くの村民が避難先から戻ってきていた。政府による6年ぶりの避難指示解除を記念する「おかえりなさい式典」が催されたのだ。約300人の参加者を前に菅野典雄村長はこう語った。
「これはゴールではなく、あくまでも復興のスタートに立ったということ。立っただけで、とてつもなくうれしく、そんな思いを、飯舘村の表現として『おかえりなさい式典』にした。大勢の人に応援、支援をもらって、協力あって本当のスタートを切ることができた」
式典には、いまだ除染も行われず帰還困難区域に指定されたままの長泥地区の人や、放射線への危惧から早期解除に反対してきた人もいた。さまざまな思いで集った村民の中に、ハツノさんの姿があった。農業を営む夫・幸正さん(70)と共に帰村を希望。除染作業が終わった同村八和木地区の家で、村の許可を得、前年のお盆前から長期宿泊(帰還準備の滞在)をしていた。「もう1人ではない。少しでも明るい気持ちでこの日を迎えたい」と、避難指示解除を心待ちにしていた。
筆者とハツノさんとの縁は、2006年にさかのぼる。仙台市で行われた「食育」シンポジウムに飯舘村から参加し、筆者に「山村の自然と食を生かした農家民宿をやりたい」と、夢を披露してくれた。その言葉通り、「あふれるモノやお金はなくとも、暮らしの知恵と心で手作りする」という「までい精神」を掲げた村で、彼女は初めての民宿を実現させた(「までい」とは、「ゆっくり」「ていねいに」という意味の福島県北部の方言)。
村は筆者の郷里・相馬市の隣にあり、浜通りの北部を占める同じ相馬地方。2011年3月11日の東日本大震災後、飯舘村は爆発事故が起きた原発から30キロ以上離れた阿武隈山中にあるにもかかわらず、局所的に高い放射線量が計測された。「放射線量が高まった」というニュースを聞くたび、ハツノさん一家の安否を心配していたが、ようやく取材で訪ねることができたのは、4月12日、政府が飯舘村などへの全住民避難(計画的避難)の方針を発表した翌日だった。
親の代から専業農家だったハツノさんの家では、親牛4頭の和牛繁殖と13ヘクタールのコメ作り、85アールの葉タバコ栽培、2ヘクタールのソバ栽培を手掛けている。村の若い世代と同様、長男夫婦と孫2人は、放射能を逃れて3月のうちに、近郊の福島市に避難していた。
自宅の民宿には事故直後、原発から近い南相馬市の知人ら12人が避難してきたが、すぐに「飯舘も放射能が心配だ」と去ってしまう。それでも夫婦は取材に、「村から牛がいなくなり、『農』の種が絶えてしまったら、若い人が再び戻って生活を立て直す基盤もなくなる。それでは避難の意味もない。私たちは自分たちが食べる分だけの野菜をハウスで作って、ここにとどまりたい」と、秘めた決意を語っていた。その日から、すでに心に決めていた「帰還」だった。
つち音に誘われて
自宅がある26戸の八和木地区は、村内でも放射線量が低かった地域にあり、環境省による除染後の放射線量は、村の定点測定で0.267マイクロシーベルトまで下がった(9月26日現在)。住民の大半が戻らない集落が近隣にある中で、「ここは別だと思う。長期宿泊をしたのは4戸だけど、他に20戸が、家のリフォームを済ませて年内に帰ってくるそうだ」と、1月末に訪ねた折、ハツノさんは期待を込めて話していた。
「親しい奥さんの1人は、『避難先の福島市に家を建てた娘夫婦に世話になっているが、二重生活を覚悟で自分の家に戻ってくるよ』と言っていた。集落で支え合って生きてきた仲間たちは、もう老人会の年齢になっているが、若い世代と離れ離れになっても、地元が恋しいんだよ」
夫婦は夫の老母、ハツノさんの両親を伴って福島市松川町にある松川工業団地第1仮設住宅で過ごしながら、避難中に傷んだ自宅のリフォーム工事を行ってきた。つち音に誘われるように、昔なじみがお茶を飲みに集まり始め、他の家の改築も次第に広がった。帰還を決めた仲間の動機はさまざま。
「いつか家に戻るかも」という孫の言葉に心を動かされたり、東京にいる息子の「定年後には村に帰ろうか」という一言で決意をしたり。福島市内の団地に新しい家を建てた隣家の主婦は、隣人とのつきあいも生まれないまま、環境になじめず孤独に悩んでいたという。彼女は「八和木に帰ってくる」という仲間たちの近況をハツノさんから伝え聞き、「古里で一緒に生きてゆきたい」と気持ちを変えた。
入居者たちの「お世話役」
震災から5カ月後の2011年8月末、仮設住宅に自治会ができると、ハツノさんは管理人を頼まれた。平均年齢が約70歳、半数が独居世帯という入居者たちの「お世話役」である。彼らは3世代同居が代々当たり前だった古里のわが家から引き離されたあげく、生涯現役だと思っていた農家の暮らしを断ち切られるような生活を強いられたのだ。終わりの見えない避難への絶望から、多くはプレハブ長屋の狭い居室に引きこもりがちになった。
「山にある飯舘村と違って福島は暑い。クーラーや風呂の使い方が分からない、と携帯電話が鳴りっぱなし。麦わら帽で1日出歩いては、みんなに声を掛け、毎日くたくたになった」と、ハツノさんは、この頃のことを振り返った。行商や宗教、保険の勧誘、メディアの取材など、仮設住宅への無断訪問も多い日で20件を超えた。勝手に住居内に入り込んで撮影するテレビ局のクルーに、「年寄りを傷つけないで」と追い出すと、「映してやっているんだ」と、悪態をつかれたこともある。
ある日の夕方、入居者から「隣のじいちゃんの姿が見えない」と聞かされた。福島市飯野町に仮庁舎を置く村役場や警察に連絡し、車で捜し回った。入居後、はいかい行動が出始めていた老人は、夜になって、十数キロ離れた同市微温湯(ぬるゆ)温泉近くの道でパトカーに無事保護された。「飯舘の家に帰ろうとしたのでは」と、仮設の人たちと話をしていたが、こうした認知症やうつが進む高齢者が相次ぎ、ハツノさんは家族との連絡や施設探しの支援にも追われるようになった。
「どうやって、入居者を外に連れだし、元気にするか?」
自治会長の木幡一郎さん(80、飯舘村伊丹沢地区の農家)らと知恵を絞り、2011年11月からは、お楽しみ会「生き生きサロン」を始めた。支援者の演芸会、ミニ旅行、仮設住宅でのお花見会などを月1回催し、筆者も同級生が主宰するフラダンスのサークルや、友人の「ちんどん」芸の一座など、出前公演の縁をつないだ。その中で、ハツノさんが生みの親になった「までい着」の活動も始まったのだ。
貧しかった戦中戦後の飯舘村では、母親たちは古くなった着物を捨てず、子どもの普段着に仕立て直したという。その伝統の技をよみがえらせて、「『までい』精神の飯舘らしい仮設の特産品にしよう」と、主婦たちに呼び掛けた。筆者もこの活動を記事に取り上げ、家庭に眠る着物の寄付を募ったこともある。活動は母親のシンボルにちなんで、「いいたてカーネーションの会」と名付けられた。多彩な着物柄を生かした「までい着」は、毎年3月11日、首都圏の百貨店で「飯舘村支援フェア」として販売会が催され、大勢の女性客が訪れている。「避難生活中の励みになった」とハツノさんは、うれしそうに語った。
心身を支えた「希望」
管理人の激務、自らの避難生活のストレス、疲労の蓄積は、ハツノさんの健康を悪化させていった。最初の異変は、2011年11月。風邪から肺炎になった。土日も夜もない仕事の疲れがたまったのだろう。休みを初めて取り、ホテルで1週間、仮設を離れてひたすら体を休めた。予定がない週末には車で村の自宅に戻り、片付け事をしながら気分転換をした。が、疲労は翌週にも残り、朝の散歩もできなくなった。
2013年7月、飯舘村の自宅で番をする老犬の太郎が病気になった上、車にはねられるという「事件」が起きる。自宅に帰って介抱していたその夜、ハツノさんは便器を真っ赤にするほどの下血に見舞われた。病院で直腸がんと診断され、「すぐに手術します」「ストレスが原因です」と告げられ、手術の後、ついに管理人を外れた。
心身の疲れは、村議会議員だった夫・幸正さんにも現れていた。原発事故の後、地元と役場の往復に追われたせいか、仮設住宅に入ってすぐに心臓を悪くし、幸正さんも2013年9月に村議を辞めている。
ハツノさんはその後、郡山市の病院で3回の手術と抗がん剤、陽子線による治療を経験。闘病に耐えながらも、同じ仮設住宅に入った両親の面倒を見、幸正さんと飯舘村の自宅にも通う。高齢の太郎もがんを患っていたが、どうすることもできず、村を巡回する餌やりボランティアの助けを得ながら生きていた。太郎が息を引き取ったのは2015年7月の朝。ささやかな葬式に立ち会ったボランティアから、「お母さんの身代わりになってくれた」と言われた。
今年の避難指示解除後、ハツノさんを訪ねたのは4月13日。地元に戻った隣人は、帰還準備で滞在していた4軒のみ。
「まだ寂しいけれど、今年中に戻るという仲間を楽しみに待つことにした」
闘病中ではあるが、ハツノさんは元気そうに見えた。いま思えば、「希望」だけが心身を支えていたのだろうか。しかし、いざ避難指示解除となってみると、これから何をしていけばいいのか、夫婦は悩んでいた。
「もう10歳若ければ、先頭に立ってまた農業をやったけれど、夫は70、私も間もなくそう。田畑の環境がすっかり変わり、以前の農業ができない。民宿もやりたかったけれど、病気をして体力にもう自信がなく、きっぱりと諦めて営業許可を返上したの」
「までい民宿 どうげ(同慶という地元の旧名から)」という大きな木の表札が、避難中も佐野家の入り口に飾られていたのを思い出す。開業を思い立ったきっかけは、「農家の嫁は汗だくで働け」と言われたころの1989年、村が企画した初の女性海外研修事業「若妻の翼」に参加し、旧西ドイツ・バイエルンの村に泊まったことだった。ドイツの村で見た自然を大切にした農村景観の美しさ、酪農などの農業と家庭生活の楽しみを両立させた農家の豊かさに憧れ、幸正さんら家族の応援も得て、ようやく、「民宿経営」の夢をかなえた。そんなハツノさんにとって、民宿をあきらめることは、つらい決断だった。
自給自足の家庭菜園
佐野家のある八和木地区一帯は、農地の除染後も広大な田んぼにフレコンバッグ(はぎ取られた汚染土の袋)が居座り、佐野家の田んぼも半分がその下に埋もれた。残りの田んぼは、5センチの深さにはぎ取った表土の代わりに入れられた山砂で、砂漠のようになってしまっている。事後に肥料や土壌改良剤を入れる地力回復工事を行ったが、原発事故以前の状態にまで土を肥やして再生するには、かなりの歳月を要するという。
「まず、使える田んぼを耕耘しなければならないけれど、水を吸収できない砂のせいで、うちの田に水を引く間に、周囲も水浸しにしてまう」
葉タバコは、村内で栽培復活を希望する農家有志が、除染後の畑で試験栽培をしてきたというが、「去年の検査でわずかに放射性物質が出たところがあったそうなの。うちではもう、やるつもりはないけれど」と、ハツノさんが教えてくれた。そんな中で農作物の栽培をどこまで行うのか、夫婦で話し合い、骨組みだけが残っていたビニールハウス2棟を建て直し、自給自足の家庭菜園を作ろうと決めた。トマト、キュウリ、インゲン、冬は白菜や青菜類。 栽培を再開し始めたものの、他にも心配なことはあった。全村避難で無人状態が続いた間、イノシシや猿が増え、農業再開の脅威となっている。イノシシは餌を求め、群れで田んぼを掘り起こして除染にも支障をきたす。狩猟許可を持つ幸正さんは、村の害獣駆除に協力。「この冬に大分獲った」と話すが、山村を守る狩猟者は避難と高齢化で激減してしまっていた。
心身を支えた「希望」
管理人の激務、自らの避難生活のストレス、疲労の蓄積は、ハツノさんの健康を悪化させていった。最初の異変は、2011年11月。風邪から肺炎になった。土日も夜もない仕事の疲れがたまったのだろう。休みを初めて取り、ホテルで1週間、仮設を離れてひたすら体を休めた。予定がない週末には車で村の自宅に戻り、片付け事をしながら気分転換をした。が、疲労は翌週にも残り、朝の散歩もできなくなった。
2013年7月、飯舘村の自宅で番をする老犬の太郎が病気になった上、車にはねられるという「事件」が起きる。自宅に帰って介抱していたその夜、ハツノさんは便器を真っ赤にするほどの下血に見舞われた。病院で直腸がんと診断され、「すぐに手術します」「ストレスが原因です」と告げられ、手術の後、ついに管理人を外れた。
心身の疲れは、村議会議員だった夫・幸正さんにも現れていた。原発事故の後、地元と役場の往復に追われたせいか、仮設住宅に入ってすぐに心臓を悪くし、幸正さんも2013年9月に村議を辞めている。
ハツノさんはその後、郡山市の病院で3回の手術と抗がん剤、陽子線による治療を経験。闘病に耐えながらも、同じ仮設住宅に入った両親の面倒を見、幸正さんと飯舘村の自宅にも通う。高齢の太郎もがんを患っていたが、どうすることもできず、村を巡回する餌やりボランティアの助けを得ながら生きていた。太郎が息を引き取ったのは2015年7月の朝。ささやかな葬式に立ち会ったボランティアから、「お母さんの身代わりになってくれた」と言われた。
今年の避難指示解除後、ハツノさんを訪ねたのは4月13日。地元に戻った隣人は、帰還準備で滞在していた4軒のみ。
「まだ寂しいけれど、今年中に戻るという仲間を楽しみに待つことにした」
闘病中ではあるが、ハツノさんは元気そうに見えた。いま思えば、「希望」だけが心身を支えていたのだろうか。しかし、いざ避難指示解除となってみると、これから何をしていけばいいのか、夫婦は悩んでいた。
「もう10歳若ければ、先頭に立ってまた農業をやったけれど、夫は70、私も間もなくそう。田畑の環境がすっかり変わり、以前の農業ができない。民宿もやりたかったけれど、病気をして体力にもう自信がなく、きっぱりと諦めて営業許可を返上したの」
「までい民宿 どうげ(同慶という地元の旧名から)」という大きな木の表札が、避難中も佐野家の入り口に飾られていたのを思い出す。開業を思い立ったきっかけは、「農家の嫁は汗だくで働け」と言われたころの1989年、村が企画した初の女性海外研修事業「若妻の翼」に参加し、旧西ドイツ・バイエルンの村に泊まったことだった。ドイツの村で見た自然を大切にした農村景観の美しさ、酪農などの農業と家庭生活の楽しみを両立させた農家の豊かさに憧れ、幸正さんら家族の応援も得て、ようやく、「民宿経営」の夢をかなえた。そんなハツノさんにとって、民宿をあきらめることは、つらい決断だった。
自給自足の家庭菜園
佐野家のある八和木地区一帯は、農地の除染後も広大な田んぼにフレコンバッグ(はぎ取られた汚染土の袋)が居座り、佐野家の田んぼも半分がその下に埋もれた。残りの田んぼは、5センチの深さにはぎ取った表土の代わりに入れられた山砂で、砂漠のようになってしまっている。事後に肥料や土壌改良剤を入れる地力回復工事を行ったが、原発事故以前の状態にまで土を肥やして再生するには、かなりの歳月を要するという。
「まず、使える田んぼを耕耘しなければならないけれど、水を吸収できない砂のせいで、うちの田に水を引く間に、周囲も水浸しにしてまう」
葉タバコは、村内で栽培復活を希望する農家有志が、除染後の畑で試験栽培をしてきたというが、「去年の検査でわずかに放射性物質が出たところがあったそうなの。うちではもう、やるつもりはないけれど」と、ハツノさんが教えてくれた。そんな中で農作物の栽培をどこまで行うのか、夫婦で話し合い、骨組みだけが残っていたビニールハウス2棟を建て直し、自給自足の家庭菜園を作ろうと決めた。トマト、キュウリ、インゲン、冬は白菜や青菜類。
栽培を再開し始めたものの、他にも心配なことはあった。全村避難で無人状態が続いた間、イノシシや猿が増え、農業再開の脅威となっている。イノシシは餌を求め、群れで田んぼを掘り起こして除染にも支障をきたす。狩猟許可を持つ幸正さんは、村の害獣駆除に協力。「この冬に大分獲った」と話すが、山村を守る狩猟者は避難と高齢化で激減してしまっていた。
戻らない「山の恵み」と「家族」
原発事故後の環境の変化は、それだけではなかった。里山の除染が行われなかったため、山村の暮らしを豊かにした自然の恵みが、ほとんど口にできなくなったのだ。かつてハツノさんの民宿の食宅をにぎわせた春の山菜類、秋のキノコ類がそうだ。相馬地方の冬の保存食「凍み餅」の材料「ごんぼっ葉(ぱ)」(山菜のオヤマボクチの葉)や、飯舘村の郷土料理「いのはなご飯」のシシダケというキノコも採れなくなった。これらすべてが、"幻の味"になってしまっている。「昔はみそも手作りで、溜まりのしょっぱいつゆをしょうゆ代わりにした。お金に換算できない食の豊かさがあった」と、その損失をハツノさんは惜しんだ。
幸正さんも帰還後、木の伐採など山仕事を復活するつもりで山林に入ったものの、「6年の間に雑木は伸び、つたが繁茂して杉の木に絡まり、もう手が付けられない」という状態だった。
佐野家はもともと3世代同居だったが、幸正さんが既に農業経営を譲っていた長男は、現在、妻と2人の子供と避難先の栃木県内で暮らしている。長男の裕さんだけはこの数年、単身で実家に戻り、村内の除染の仕事に携わってきた。しかし、「お嫁さんは地元出身だけど、子育ての上で放射線に不安があるといい、孫たちが高校を卒業するまでは戻らないと決めているそうなの」と、ハツノさんは漏らした。実際、最初の避難先の福島市内の小学校では、お孫さんがいじめを受けて体調を崩すというつらい経験もあったという。原発事故が被災地に生んだ「家族の分断」がここにもある。
「私たち夫婦は農業と村づくりを一生懸命にやってきた。そんな歴史を背負っているから、どうしても帰ってきたかった。でも、どの家でも子や孫の世代は戻ってこない。避難指示解除になったとはいうけれども、一緒にいた家族が家にいないのは寂しく、つらい」
「カーネーションの会」の解散
仮設住宅でハツノさんが呼び掛けた「までい着」作りもまた、岐路に立たされた。仮設住宅の仲間でもある「カーネーションの会」の20人は、避難指示解除の後、6人だけが地元の家に戻るつもりでいるという。身の振り方を異にし、仮設住宅に残るメンバーたちとは離ればなれになってしまう。ハツノさんたちは会のこれからについて、こんな議論をしてきたそうだ。
〈「70~80代の仲間も帰りたい気持ちが強い。でも、福島市など村外に新居を建てる家族と同居するほかない、独りでは暮らせないと悩んでいる」と佐野さん。
「それでは、仮設住宅で培った縁も途切れてしまう。までい着作りを続けよう」というのがメンバーの思いだ。「大勢の人の善意に支えられた活動をやめられない」「離れても、週1回集えれば生きる励みになる」と話し合ってきた〉(2016年4月27日の『河北新報』連載「その先へ」より)
メンバーは「までい着」を、避難指示解除後も互いを支え合う絆にしようとしていた。今年3月11日も、首都圏の百貨店が飯舘村を応援するための販売会を催し、ハツノさんも病身を押して参加した。だが、その後に決まったのはカーネーションの会の「解散」だった。ハツノさんによれば、販売会が増えて外部の支援者と接してきた中で、「生活の収入を得る道か、仮設の仲間を元気づけるためか」をめぐるメンバーの気持ちのすれ違いや、「商品」としてさまざまな注文を付けられる流通の世界への違和感などが、会の「原点」を見失わせがちにさせたためだ。最後には「目的は終わった」と解散を決めた。
避難指示解除。「どうしても帰りたかった」というハツノさんは念願を果たしたが、古里の未来はまだ見えてこない。幸正さんとの新しい生活も人生も、自身の闘病の先行きに委ねられていた。だが、ハツノさんは1つのことだけを願った。
「これからは、何を辛抱することもなく、思うがままに生きてゆきたい。苦しいことはもうたくさん。リフォームした家には客間を増やしたの。民宿は諦めたけれど、親しい人、避難中に縁を結んだ遠くの人たちをここに招きたい。地元の集落の仲間たちともにぎやかに集い、楽しく過ごしたい」(つづく)
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寺島英弥
ジャーナリスト。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。河北新報元編集委員。河北新報で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」などの連載に携わり、2011年から東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』(同)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を更新中。