本田圭佑15歳の挫折―ガンバユースに上がれなかった理由(飯尾篤史)

本田のサッカー人生における最初の大きな挫折として、ガンバユースに昇格できなかった事実がある。ジュニアユース時代、常に天才・家長昭博が隣にいた。本田には何が足りなかったのか、そしてどう覚醒していったのか。

本田のサッカー人生における最初の大きな挫折として、ガンバユースに昇格できなかった事実がある。ジュニアユース時代、常に天才・家長昭博が隣にいた。本田には何が足りなかったのか、そしてどう覚醒していったのか。(取材:2012年8月)

■「圭佑が来たときのことも、正直、あまり印象に残っていないんですよ」

 かつては宮本恒靖、稲本潤一、大黒将志。近年では家長昭博や安田理大、宇佐美貴史ら、数多くの日本代表選手を育成してきたガンバ大阪のアカデミー。本田圭佑もまた、このクラブの門を叩き、ジュニアユースの一員として中学時代を過ごしている。

 しかし彼は、ユースに昇格することが叶わなかった。それは本田のサッカー人生で最初に迎えた大きな挫折だったかもしれない。本田はなぜ、ガンバ大阪から去らなければならなかったのか......。

 JFAハウス9階、公益社団法人日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)。ここに、中学時代

の本田を知る人物がいる。

 上野山信行、55歳――。

 09年からJリーグ技術委員長を務めている彼は、92年から96年までガンバ大阪の初代ユース監督として、"育成大国ガンバ"の礎を築いた人物だ。

 本田がジュニアユースに在籍していた頃には、育成担当部長や育成・普及部長としてアカデミー全体を統括する立場にいた。

 上野山が本田のことを初めて知ったのは、彼が小学6年生のときのことだ。ふたりを引き合わせたのは、上野山と旧知の間柄だった摂津2中サッカー部の顧問、田中章博先生(現摂津4中校長)である。

 当時、本田の兄、弘幸が摂津2中のサッカー部でプレーしていて、本田は小学4年生の頃から兄にくっついて来て、中学生の練習に混ぜてもらい、そこで田中の指導を受けていた。

「それまで圭佑のことは知らなかったし、圭佑が来たときのことも、正直、あまり印象に残っていないんですよ。というのも、圭佑と同い年にアキ(家長)がおりましたから。アキは小学生の頃から名が知れ渡っていて、大阪の指導者仲間はみんな『家長はすごい』と騒いでいて、ガンバとしても『なんとしてでも家長を獲れ』という話をしていた。

 一方、圭佑はまったく噂に上がっていなかった。田中先生から紹介されて初めて会って、『上手いやないか、じゃあ、獲ろうか』という程度。『ぜひとも』という感じではなかったですね」

■「パス&ゴーの基本ができんのです」

 中学時代の本田について上野山は「よくしゃべり、周りの雰囲気を明るくし、サッカーがとことん好きで、ボール扱いもなかなかの選手だった」という印象を抱いている。

「みんなから『圭佑、圭佑』と慕われていたけど、良い意味で、ちゃかされてもいましたよ。テクニックはあるのに、試合では力を発揮できんかったからね」

 パスもドリブルも標準以上で、ミニゲームではテクニックを発揮した。ところが、フルコートでの試合になると、途端にボールに絡めなくなってしまう。その要因は「走れない」ことにあった。

「パスを出しても動かない。パス&ゴーの基本ができんのです。原因は、体力面や持久力にあって、すぐバテてしまうし、走るのも遅かった。その点でほかの選手よりも明らかに劣っていて、それが最後まで改善されなかった。

 アキも決して走れる選手ではなかったんやけど、スルーパスは出せるし、ドリブルでも簡単に2~3人剥がせる、なんでもできる選手やった。でも、圭佑は基本的にパサーで、そこまで剥がすこともできなかった」

 この頃のガンバ大阪ジュニアユースは中盤がダイヤモンド型の4-4-2のフォーメーションを採用していた。

 トップ下は、天才・家長の定位置である。そのため、同じくレフティの本田は中盤の左サイドか、左サイドバックを務めることが多かった。しかし、サイドの選手が走れなければ、ボールに絡むのは難しい。

「アキだけじゃなく、ほかにも圭佑より上手い選手が何人もいたから」とも上野山は言う。本田の1学年上には寺田紳一(現横浜FC)がいて、同学年には松岡康暢(現ガンバ大阪アカデミーコーチ)、1学年下には安田がいた。彼らは全員、ユースに昇格したのち、トップチームとプロ契約を結んでいる。

 本田から「なんで俺、出られへんの?」「試合に出してほしい」と言われるたびに、現場の監督はその理由を説明したり、ヒントを与えたりした。アカデミーの指導者たちの間でも「なんとかならんかな」という想いが常にあったという。

 しかし、本田の持久力、スタミナ、スピードはなかなか伸びなかった。結局、最終学年を迎えてもレギュラーに定着することができず、準レギュラーという立ち位置のままだった。

「そうした状況だから、本人もユースに上がれないことは、うすうす察していたかもしれないね。進路担当者がそのことを告げたとき、納得した様子だったというから」

■「伸びなかったときのリスクも高いんです。一番大事なのは試合に出ること」

 ガンバ大阪ジュニアユースを卒業した本田は、石川県の名門、星稜高校に進学する。

 高校時代の本田について上野山の記憶に強く残っているのは、石川県選抜の一員として埼玉国体に出場していた、当時3年生の本田の姿である。

「すごくデカなっていて、驚きました。ガンバにいた頃は、ヒョロッとして華奢やったから、アカデミーの指導者たちと、『圭佑、あんなデカなってるで。信じられへんな』という話をしたんです。

 持久力やスタミナも付いていたかもしれないけど、走らないプレースタイルは相変わらずで、指示ばかり出していたね(笑)。『もうちょっと走ったほうがプロのスカウトの目に留まるのになぁ』と思ったのは覚えてますわ。

 でもその後、選手権で活躍して、プロ入りも決まって、『圭佑、良かったやないか』と。育成年代の指導に少しでも携わった者としては、もちろん嬉しいですよ」

 05年に名古屋グランパスに加入した本田は、1年目から出場機会を得ると、同年夏に家長とともにワールドユース出場を果たす。08年にはオランダのVVVに移籍し、同年夏に北京オリンピックにも出場した。10年になるとCSKAモスクワへと移籍し、W杯南アフリカ大会では、日本代表を決勝トーナメントへと導く活躍を見せるのだ。

 こうした本田の活躍をきっかけに、アカデミーでの判断基準も見直されたりしたのだろうか。

「いや、判断基準は変わりません。ただ、しいて言えば、今までは全員一致でスパッと決めていたけど、身体的な部分の判断は難しいから、将来性や可能性を見込んで多少幅広く見るようにはなったかな。

 でもね、伸びなかったときのリスクも高いんです。一番大事なのは試合に出ることだし、その選手のレベルに合った環境でサッカーをすること。ガンバで試合に出られないなら、外に出してあげたほうが選手のため。抱え込みすぎても良くないんです」

■「次のステージを考えて、すぐに、『星稜に行きたい』と言ってきました」

 ここに育成の難しさがある。

 もし、本田がガンバ大阪ユースでプレーしていたら、高校時代の3年間も、家長の影に隠れたままになっていたかもしれない。ガンバ大阪を離れたからこそ、星稜高校で河崎護監督という良き理解者と仲間たちに出会い、自分を高めるのに相応しい環境を手に入れられたとも考えられる。

「僕も摂津の人間ですが、摂津で昔の圭佑を知る人間は誰もが『あの圭佑が、まさかここまでの選手になるとはねぇ』と驚いてますよ」と微笑む上野山は、「ここまでの選手」になれた要因として、目標を設定し、それに向けて何をすべきかを考える力と、強いメンタリティの2点を挙げた。

「ガンバにいた頃、持久力やスタミナで見劣りしたけど、サッカーがとことん好きで、相当な負けず嫌いで、夢や目標をしっかり抱いていたのも確かです。それは圭佑と会話をしたときに感じましたよね。ユースに昇格できなかったときも、次のステージを考えて、すぐに、『星稜に行きたい』と言ってきましたからね」

 目標を設定し、それに向けて努力するのは、成功する選手の共通点だと上野山は言う。

「例えば、宮本はどんどん質問しに来るタイプで、稲本は反復練習を黙々とするタイプ。パーソナリティはまったく違うんやけど、目標を設定し、それに向けて努力し、反省するという点では共通している。

 ミチ(安田)もある日、『俺、絶対にプロになりますわ』って言ってきた。ミチはお父さんを病気で亡くしたばかりで、『俺がお母ちゃんを楽させる』って。それから、死に物狂いでサッカーに打ち込みましたからね」

■「いつも『俺は家長に負けてない』と言っていた」

 本田がどのようにして折れないメンタリティや考える力を身につけていったのかは、分からない。要因はひとつではなく、いくつもが絡み合ってのことだろう。

 幼い頃に両親が離婚したという家庭環境。祖父母と父親による教育方針。兄という見本であり、ライバルが身近にいたこと。いつも兄や兄の友達といった年上と競争してきたこと。ガンバ大阪のアカデミーが質問形式の指導スタイルを取り、選手に考えさせてきたこと......。

 ユースに昇格できなかったという悔しさを味わい、プライドを打ち砕かれたことも、強烈なリバウンドメンタリティを育んだに違いない。

「ユースに昇格できなかったのは、相当悔しい出来事だったはずです。いつも『俺は家長に負けてない』と言っていたからね。でも、高校1年になるということは、大人への第一歩を踏み出すことやから、自分で考えなければいけない。

 壁にぶつかってガツンとやられた選手の道は、ふたつしかないんです。自信をなくしたり、ふて腐れたりして別の道に行くか、悔しさを味わってもっと必死になるか。圭佑は後者の道を選んだ。自分に何が足りないか考え、大きく成長した。結果論ですが、良かったのかなと」

■「ガンバは見る眼がない」と散々に言われた

 本田のサッカー人生は、その後も決して順風満帆ではない。

 08年1月に移籍したVVVでは2部落ちの屈辱を味わい、北京オリンピックでは3戦全敗に終わっている。

「VVVでも最初の頃はなかなか認めてもらえず、チャンスでパスが回って来なかった。チームも2部に落ちて、1部のチームに移籍できなかった。それでゴールを奪わなければ評価されないということに気付き、プレースタイルを変えたわけでしょう。

 そこに気付いたのは大きい。それも考え方でしょう。圭佑はたくさんの挫折を味わっている。それでも心が折れないのは、目標設定がしっかりしているからじゃないかな」

 では、上野山は今、家長のことはどう見ているのだろうか。

 高校2年のときにトップ登録され、プロデビューを飾った家長は、しかし、ガンバ大阪でついに主力になり切れなかった。その後、在籍した大分トリニータとセレッソ大阪では輝きを放ったが、本田の後を追うようにして、海を渡った先のマジョルカでは出番に恵まれなかった。期限付き移籍でガンバに復帰した時期もあったが、マジョルカを契約解除となった。

「アキのことをフォローするわけじゃないけど、ガンバで思うようなプレーができなかったことに関して、アキにも言い分はあるんです。一度、アキと腹を割って話をしたとき、不満を口にしていました。

 ただ、アキは監督と話し合わないし、主張しない。意固地なところがあって理解されにくい。一方、圭佑は自分がどう考えているのか主張するし、コミュニケーション能力があるから理解されやすい。

 でも、アキも環境を変え、大分でシャムスカやポポヴィッチ、セレッソでクルピと出会って理解され、韓国でも試合に出始めていた。アキも挫折を味わったわけで、ガンバに戻ってくるし、これからでしょう」(※編注:取材はガンバ復帰前に行った)

 育成は本当に難しいですね――。最後にそう問いかけると、上野山は「難しい。根気が要ります」と答え、こう続けた。

「まず子どもたちを信用してあげる。そして、問い掛け続けて考える力を養う。目標設定をさせて、その気にさせる。もちろんガンバが最後までその手助けをできればいいけど、その子が目標を達成できるなら、どんな道を辿ってもいいんです。

 そうそう、圭佑が注目されるようになってから『ガンバは見る眼ないな』ってよう言われました。結果論で言われたら、『その通りです』と言うしかない。マスコミの方も『なんで残さなかったんですか』と訊いてくる。そのとき分かっていれば、残しとるわってね(笑)」

 本田圭佑が思い描く自身の未来像――。それはレアル・マドリーで10番を背負うことだと彼は話している。

 20世紀最高のクラブである「エル・ブランコ」のエースナンバーを付けた日本人選手がサンチャゴ・ベルナベウのピッチに立つ!?

 常識では想像のつかないことだが、常に目標を設定し、それに向けて最大限の努力を続け、実現してきた彼のサッカー人生を振り返ると、一笑に付すことはできない。

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