在宅医療が拡充されれば、効率化が実現して社会保障費の節約になる・・・ と素朴に信じている人がいます。とくにメディアでは、在宅医療が医療費抑制の切り札であるかのごとき報道をみかけます。
もちろん、そんなことはぜーんぜんありません。病院でやってることを在宅でやりはじめたら、そりゃぁ非効率も甚だしく、コストは増大し、マンパワーが疲弊していくことは明らかです。在宅医療を普及させていくということは、医師や看護師が地域に出ていけばよいということではありません。むしろ、患者(住民)側が変わっていくことが前提なのですね。
沖縄県立中部病院の地域ケア科では、年間で40人前後を在宅(施設を含む)で看取らせていただいています。それは単に病院から自宅に帰すのではなく、病気との向き合い方を変えていくプロセスであり、それは生き方についての大きな変化ですらあるのです。そのお手伝いをすることが、私たち地域ケア科の最初の役割とも言えます。
以下の図は、75歳以上死亡あたりの老衰死率に対する高齢者1人あたりの医療費(後期高齢者医療給付による)の相関をみたものです。
前回、医師が死亡診断書に「老衰」と記すとき、そこには人生全体をとらえたうえでご家族と合意しえたことがみてとれる・・・ と紹介しました。「老衰」は暮らしのなかでこそ受け入れられやすく、それゆえ在宅死と深い相関がみられるのだと。
在宅医療の普及が医療費を抑制している、というのが本当なら、それは病気を抱えて生きる人たち(あえて「患者」とは呼びません)が「身体を自らのコントロール下に取り戻しているから」だと私は思います。そして、それを死について言うならば、本人や家族において「老衰を受け入れていくプロセスがあるから」なんです。
あまり在宅医療というツールにこだわりすぎない方がいいと思います。在宅医療を病院医療の延長線上で活性化させてしまうと、せっかく高齢者が退院できたというのに、自宅にいながら入院させられるという矛盾した状態へと落ち込むことすら危惧されます。もちろん医療費も増大するばかりでしょう。
いま在宅医がやっている仕事をよく見てください。24時間のオンコール体制、ICTネットワークの整備、あるいは在宅で使える高度な医療機器でもなく、本当に求められているのは、地道に住民の死生観に向き合っていく姿勢なんですよね。医療が生活に入り込んでゆく時代にあっては、尊厳ある生き方についての社会的議論が、より重要になってきているのです。
老衰死率が高い地域では、終末期にある高齢者の医療依存を低下させていることは明らかです。ただ、その一方で介護側が大変になってはいないでしょうか? それを量的に確認するために、第1号被保険者(65歳以上)あたりの介護費との相関を見てみました。その結果が以下のグラフです。
ご家族の心身の負担など介護費に反映されない面はありますが、老衰死がコスト面で介護費を引き上げるわけではなさそうですね。もちろん、医療にできることがなくなっていても、最期の瞬間まで介護はできることを探し続けるものです。つまり、介護に終わりはないということが、この老衰死率との相関のなさに表れているのかもしれません。