「あなたは東日本大震災で起きた福島第一原発事故の当事者ですか?」
福島県でローカルアクティビストとして活躍する小松理虔(こまつ・りけん)さんの講演はこんな一言で始まった。7月末、東京・六本木で開かれたイベントでのことだ。
思いも寄らない言葉にドキリとする。
約30人の参加者で手を挙げた人はほとんどおらず、皆首をかしげた。
自分はその問題の「当事者」ではないから、と目を背けてしまった経験はないだろうか。
「当事者でもないのに口出しをするな」――。
昨今、SNSで個人の意見が簡単に発信できるようになったからこそ、炎上を恐れて「下手なことを言えない」といった空気ができあがっている気がする。
こうした状況に危機感を示すのが小松さんだ。
出身地である福島県いわき市を中心に、様々な社会課題に携わっている。
自身の経験を基にローカル発の新しい復興の形を問うた著書「新復興論」(ゲンロン叢書)では、「第18回大佛次郎論壇賞」を受賞した。
「よそ者」として、関わる。
小松さんの肩書は「ローカルアクティビスト」だが、その実態は本人もよく分かっていない。
物書きもする、広告も作る、イベントを企画することもある。
ただ福島県いわき市という「ローカル」で活動しているので、「ローカルアクティビスト」と自分で命名しただけだ。
小松さんが活動をする上で一つだけ気を付けていることは、
「ローカルな課題に関わる際、中にどっぷり浸からず、軸足は外側に置いておく」こと。
「当事者」ではなく「よそ者」として関わることだという。
例えば、小松さんはいわき市の海で「いわき海洋調べ隊うみラボ」という活動をしている。
市民の有志と参加希望者を募り、福島第一原子力発電所1.5km沖で釣りをして魚の放射線量を測る、「福島の海を楽しく、そして面白く調べ、発信」するプロジェクトだ。
一見、小松さんは震災復興の「当事者」だ。
しかし、放射線の専門家でもなく、漁師でもない。放射線を測ることに、小松さんは何も金銭的メリットは発生しない。
小松さんは自分を「当事者」とは敢えて名乗らない。
「(いわき市出身で)第一原発の事故で人生翻弄された一人なので、近くに行ってみたい、本当に魚が釣れるのか知りたい(という個人的な興味があった)。だから行っただけ。復興のためとか漁業のためではなく、僕個人が行ってみたくてやっているだけなんです」
解決に必要なのは「共事者」の視点
小松さんは、フリーランスの立場で、震災復興にまつわる様々な活動に携わり、あることに気づいたという。
議論の「中」にいる当事者間では、様々な論点が細かく話し合われているのに、「中」の人たちが一生懸命議論すればするほど、外側にいる、当事者以外の人たちの関心がどんどんなくなっていったのだ。
廃炉にするかしないか、放射性廃棄物をどうするか、福島の復興は――。
賛成か反対か、その考えは正しいか間違っているかと問われると、「当事者」じゃない私たちは少し尻込みしてしまう。下手なことは言えない、と思ってしまう。
そして関わることをやめてしまう。
当事者と非・当事者の間でどんどん深くなる溝…。
この時、鍵を握るのは、当事者と無関心層のあいだにいる新たな存在ではないか、と小松さん。
「当事者じゃないけど、関わりたいなぁという人たち、いると思います。そういう人たちこそ、解決のカギを握っているんじゃないかな、と思い始めたんです」
例えば白杖(はく・じょう)を持って信号を渡っている人がいる。
きっと目に障害があるのだろう。
何か助けられないかな、手を差し伸べられないかな、と考える。
でも関わり方が分からない、間違えて関わって迷惑をかけてしまったらどうしよう、と二の足を踏んでしまい、結局関わることを遠慮してしまう。
小松さんはこのもう一つの存在に「共事者」と名前を付け、可視化することにした。
2011年3月11日を覚えていますか
「共事者」とは、当事者ではないけれど、その“事”を共にしている感覚は持ち合わせている、という意味だという。
小松さんは問いかける。
2011年3月11日、物心つく年齢だった人は、あの時自分が何をしていたか、そして何が起きたかを覚えている人は多いだろう。
ところが2012年3月11日、何をしていたかを覚えている人はいますか?と、なるとどうだろう。
小松さん自身も覚えていないという。
「たった1年違うだけなのに、何も覚えていない。でも2011年3月11日のことは覚えている」
「ということは、みなさんも被災したということなんです」。
楽しく課題に関わろう
「あの時、被災地にいなかったから、被災者じゃないから、苦しみが分からない」というのを議論の起点にしてしまうと、何も始まらない。
小松さんは、課題が深刻化している時「ほど」、当事者じゃない人の方が解決の鍵を握ってしまう、と指摘する。
なぜなら、問題を客観視できるから。
「そもそも、問題に対してまじめにまじめにと頑張るより、おいしい!楽しい!面白い!というポジティブな動機で関わった方が、疲れず長期的に活動を続けられるじゃないですか」
小松さんはこれを「ふまじめ」なアプローチと呼び、震災復興に限らず、様々な社会課題にまつわる活動を持続していくために非常に重視している。
例えば高齢者福祉の問題。
小松さんがつくるウェブメディア「いごく」は、超高齢化社会を考える地域福祉メディア。2017年から紙媒体も展開している。
参加者が死んだつもりで入棺する「入棺体験」など、一見「ふまじめ」に見えるような、老いや死を体験するイベントを開催したりしている。
高齢化が進行する一方、「いかに老い、いかに死ぬか」について、まだ表だって議論しにくい空気がある。
小松さん自身も、震災が起きた際、父親に「死ぬなら病院か自宅かどっちがいいか」という話をしてみたという。
こうして確認し合うことが地域福祉の質を上げることになるが、まじめに考えると切なくなるので、悪ふざけしながら考えようと取り組んでいる。
「課題が重いからこそ、自分の興味があることで突破していく方が、『共事者』が増えていくと思って、活動を続けています」。
ふまじめなコミュニケーションが当事者を救う……かもしれない
「ふまじめ」なアプローチは「共事者」を増やすだけではなく、当事者を思わぬ形で救うことがある。
小松さんは静岡県内にある障害者福祉施設の取材を通じて、代表から興味深い話を聞かされた。
代表の息子は重い障がいがあり、一人では食事も取れないし着替えもできない。
母親や家族の言うことを聞かないこともよくある。
施設のスタッフの言うことを聞いてくれない時もある。
ところが、ふらっと何も知らずに来た人が、障害のある人とうまくコミュニケーションを取って、1日を快適に過ごしてしまう、というようなことが時々起こるのだという。
プロのセオリーやノウハウを知らない“素人”にも福祉は開かれているし、専門性がなくても誰かと関係を築けてしまう、誰かの居場所になってしまうということには希望がある。
障害福祉に無関係な人などいないはず、と小松さんは言う。
このように本来想定していなかった人に偶然メッセージが届いてしまうことを、批評家の東浩紀さんは「誤配」と呼ぶ。小松さんは「誤配」は福祉の世界でも起こり得るし、これこそが硬直化した世界における希望だと語る。
当事者と何も関係性を持たない他人の方が、生きにくさを抱えている人の問題を解決する可能性を持っているかもしれない。
「自分は震災復興に何個も関わっているけど、僕が関わる以上に皆さんが不真面目に関わってもらう方が復興のヒントになるんです。怒られるかもしれないけど、と躊躇せず『私にはこういう風に見えています』と言っていただくことが一番ありがたい」
閉塞した議論に風穴を開けるのは、不真面目なコミュニケーションなのかもしれない。
この福島のお酒を飲んだら……
この夜、小松さんは福島県のお酒を持参し、参加者にふるまった。
「このおいしいお酒を飲んだ瞬間、福島のお酒が胃に収まります。
……ということは、これはもう福島に関わってしまった。
僕の話も聞いてしまった。これはもう共事者と言えるのではないでしょうか」
会場からドッと笑いが起こる。
あるいは被災地へ旅行し、思い切り楽しんでみるのもいい。
小松さん自身、以前は震災で深刻な被害を受けた人たちの前で楽しそうにしていたら、失礼になると思っていたという。
だが小松さんが拠点にしている福島県いわき市は、常磐線の特急で東京から2時間でつく。
冬は「どぶ汁」と呼ばれるあんこう鍋が名物で、湯本温泉や「フラガール」で有名なスパリゾートハワイアンズもある。
「よそ者」たちが「被災地」の肩書を外し、心の底から楽しむことで、新しい言葉が生まれると小松さんは信じている。
「当事者と言った瞬間、非当事者を生んでしまい、断絶が生まれてしまう。
でも共事者は、その‟事”を共にする、という意味で関わりのない人はいない。
僕はこれからも、この問題の‟よそ者”たちと一緒に、楽しいことをやっていきたいと思っています」
これからふとした時に何度でも、小松さんからの問いかけを考えてみたい。
「あなたは震災と原発事故の『共事者』ですか?」
*この記事は、7月30日に開かれたイベント「ニュースが速すぎる時代に、じっくり考える『視点』を手に入れる」(主催:ハフポスト日本版/協力:サントリーホールディングス株式会社・サントリー文化財団)での講演をもとに内容を構成しました。