日本の「四大証券」の一角だった山一証券が自主廃業を発表し、20年が経った。
1997年11月24日、涙ながらに会見した野澤正平社長(当時)の姿は、平成不況を象徴する瞬間として記憶に刻まれている。
バブル崩壊後の1990年代。新聞やテレビでは日本経済の先行きを不安視する言葉が踊っていた。そんな中でも「大手企業に入れば定年まで一生安泰」と、高度経済成長期の考え方がまだ残っていた。
だが、創業100年の「山一」をはじめ北海道拓殖銀行(拓銀)、日本長期信用銀行(長銀)など名だたる金融機関が97〜98年に相次ぎ破綻した。
「上場企業は潰れない」「金融機関は潰れない」。そんな神話は、あっさりと崩れた。
あれから20年。当時入社3年目だった元社員約40人が都内のホテルで同期会を開き、近況を報告しあった。
あの時、彼らは何を思ったのか。この20年を、どんな思いで過ごしてきたのか。彼らがハフポスト日本版に明かした証言から、「ポスト平成」の働きかたが見えてきた。
■「恥ずかしい経営者」「リーダーとしてあるべき姿」海外の声
・谷本有香さん(元:山一サテライトニュース キャスター)
当時、私は社内向けのニュースなどを伝える「山一サテライトニュース」のキャスターをしていました。自主廃業を発表、涙の会見に社長が臨んだ日、私も本社にいました。泣きはらした目をした野澤社長の姿を、いまも覚えています。
山一が自主廃業したあと、私は海外のビジネススクールに通いました。そこには世界から若手のリーダーたちが集まっていて、彼らも野澤社長の記者会見を知っていました。
興味深かったのは、その評価に差があったことです。欧米出身の人達は「ああいう姿を見せるのは、社長として経営者として恥ずかしい」と。
一方で、中国・韓国などアジア系の人たちは「あれがリーダーとしてあるべき姿だ。僕らはあの会見をみて、初めて日本人と一緒に仕事をしたいと思った」と。
この言葉を聞いて救われる思いでした。キャスターとして、会社経営や経営者の姿から、日本のあり方を考えるきっかけになりました。
野澤社長が、あの会見で情に訴えたことで「山一の社員を採用してあげよう」と思ってもらえる面もあったように思います。本来の日本企業の良いところ、お互いに困っている人を助ける精神が垣間見えたような気がします。
比較的若手の人たちは、メリルリンチ日本証券などの別の証券会社に籍を移したりしていました。
キヤノンをはじめ、山一と同じ「芙蓉グループ」(旧:富士銀行[現:みずほ銀行]を中心とする企業集団)の企業へ転職した人たちもいました。
一方で、ものすごく苦労をした元社員がいることも事実です。金融・証券不況の時代、怒りとも悲しみともつかない感情を抱えている人は今もいます。
旧「山一ブランド」にしがみつき、自分の能力やスキルに向き合えなかった人は、その後も苦労しているように感じます。
あの自主廃業は、日本の「終身雇用システム」を問うきっかけになったと思います。
日本企業の古い慣習、終身雇用と年功序列の時代が終わり、「会社が自分を守ってくれるとは限らない」という考え方の時代になっていった。日本人が、自分の能力やスキルを見つめるにきっかけになった事件だったかもしれない。
そう考えると、山一証券の自主廃業は、今の日本社会に通じる道のはじまりだったのかもしれません。
■経理課が「やばいよ、やばいよ...」と言っていた
・仁科尚也さん(元:上野支店)
「あの日(破綻報道があった1997年11月22日)」は今も覚えています。朝の5時半ごろだった。寮で同僚から「おい!ニュース見ろ!」と起こされました。
たしか、3連休の初日で二日酔いでした。寝起きでテレビをつけたら、ニュースに「山一 自主廃業」の文字が出ていました。
同じ寮に経理課の人間がいたので、直前に「やばいよ、やばいよ...」と言っているのを聞いたことはありました。
でも、そいつもペーペー(平社員)だから、どこまでやばいのかはわからなかったと思います。「なんかやばそうだよな」「自社株は買わない方がいいよ」と周りが言っていたのは聞いたことがありました。
上司から電話がかかってきて「ニュース見た?」「どう対応すれば良いかわからないんだけど、とりあえず支店に来てくれない?」と。特に用事もなかったから、二日酔いのまま出勤しました。みんなだいたい二日酔いだった(笑)。
でも、支店に行っても何もすることもなくて。ただ、お客様に心配をかけちゃいけないから「こちらから『安心してください」』って伝えよう」「銀行の破綻と違って、株券や資産は返還されることを知ってもらおう」という話になり、顧客リストをもとに電話をかけました。この対応は後からお客様にも感謝されました。
次の営業日は大変でした。店頭では「資産はきちんと返還されます。大丈夫です」と伝えましたが、取り付け騒ぎのようにお客様が殺到しました。銀行と証券の仕組みがあまり認知されていなかったこともあり、こればかりは仕方がありませんでした。
その後、私は証券には疲れてしまい、いい機会だと思って違う業界に転職を決めました。
当時はまだ転職はレアケース。なんとなく罪悪感もあって、大手に入って転職するなんて「もったいないじゃないか」と言われる時代です。まだ今ほど人材の流動性がなかった。
大変な就活をして会社に入ったのに、簡単に辞めるのも...という思いもあったけど、「ここでダメだったら、他に行ってもダメなんじゃないか」と思いもありました。結果として大手のメーカーに転職することができました。
僕らは95年就職氷河期の世代。この年代は他の企業でも採用数が少なかった。山一証券で3年間の経験を積んだ、いわば即戦力の人材。そういう意味で他の企業は「お買い得」だと思ったのかも知れませんね。
■「いまだにあれ以上に辛かった経験はない」
・佐藤龍史さん(元:宮崎支店)
当時、私は宮崎支店にいました。「自主廃業」報道の前日、叔父と叔母が旅行で宮崎に来ていたんです。
一緒に晩御飯を食べて「証券・金融業界もいろいろあるけど、まさか山一証券がつぶれるってことはないよね」という話をしていました。
そんなことを言っていたら、次の日に「自主廃業」のニュースがあって本当にびっくりしました。ただ、「拓銀も破綻したし、三洋証券も破綻した。株価も下がってきているし、どうなるんだろうねえ」みたいな空気はありました。
会社に行ったら、上役の人も状況がわからないと。「自主廃業」という言葉も馴染みがなく、よくわからなかった。最初は「倒産とどう違うの?」って感じでした。
当時は新人に毛が生えた程度でしたが、大事にしてくれるお客さんがいらっしゃって。資産の返還を説明する電話をすると「あなたのほうこそ、大丈夫なの?」と逆に心配されました。
取り付け騒ぎはなかったですが、しばらくの間は本当に疲れました。瞬間的なことですけど、いまだにあれ以上に辛かった経験はないですね。
退職金は数万円だけでました。でも、ほんとに「金一封」みたいな。3〜4万円ぐらいだったかなぁ。会社都合じゃないし。ああいう状況でしたから...。
98年の3月に「店舗での営業はこれでおわりです」という通達があり、私はメリルリンチ日本証券に移籍しました。メリルリンチは山一から約2000人の社員と28店舗を引き継いで、国内の一般顧客向けのリテール(個人向け)事業に進出しました。
私は宮崎から、大分の支店に移りました。でも、メリルリンチも4年ほどでリテールから撤退し、そのタイミングで退職しました。
その後に、新卒の時に第1志望だった製薬業界に転職しました。証券会社には2社入ったけど廃業したり撤退したり、この業界自体が大変だと実感しました。
やむにやまれぬ事情でしたが、当時は転職が珍しい時代でした。今の時代、特に若い人たちはどんどん会社を渡り歩くのは普通になってきましたが「何があっても生きていける力」は身に付けておいたほうがいいと思いますね。
■「何があっても生きていける力を付けておいたほうがいい」
・小沼さん(元:国際金融)
自主廃業は、正直かなりサプライズでした。当時は女子寮にいたのですが、休みの日なのに親からガンガン電話がかかってきて「ちょっと!テレビつけて!」って。
テレビを見たら「自主廃業」って見慣れぬ言葉が。「自ら廃業?なにそれ?」。とにかく、親に朝早く起こされたことが一番記憶に残っています(笑)。
当時の私は、海外の企業が発行した株式債券を日本の投資家に販売する「株の引受業務」を担当していました。
私たちの世代は就職氷河期だったので、入社した時は「内定くれてありがとう!」という気持ちでした(笑)。その流れで、終身雇用で会社にいるつもりだった。でも、それが壊れちゃった。
「なんとかして働いて、生き残らなきゃ」と考えるきっかけになりました。
当時の上司が面倒見のいい人で、一緒に転職し、香港上海銀行(HSBC)に入りました。でも、終身雇用の日本企業からいきなり外資系への転職だったので「パフォーマンスをあげないとクビになるな」と実感しました。
「山一」は割といい人が多かった。同期も「和気あいあい」で仲が良かったのですが、外資は全く違った。その後もいくつか金融機関を経て、今は大手の証券会社にいます。
転職を繰り返せば、転職先で自分が「これだけできるんですよ」と、パフォーマンスをあげてきたことを示すことになる。それに伴ってポジションもついてくる。
環境が変わったことで、働き方や仕事の考え方は変わりましたね。別に、会社が食べさせてくれるわけでもない。何があっても生きていける力を付けておいたほうがいいと思います。
あれから20年経ちましたが、当時も今も金融機関は男社会。私ははじめ一般職で入社しましたが、途中で専門職に転換しました。今は女性を活用しようという機運が出てきているので、今のほうが働きやすい部分はあると思います。
■「最後まで残って、店のシャッターを閉めました」
・木下博之さん(元:大森支店)
当時は24歳でした。早朝に同じ寮の後輩に叩き起こされて「先輩、山一潰れたらしいです」と言われた。テレビを付けたら、ニュースでもそう言っていました。
でも、二日酔いだったせいで、すぐには理解できなかったですね。「潰れたんだあ...」という感覚だった。自分の会社が潰れるなんて思ってなかったですから。
その後、「とりあえず、会社に行ったほうが良くない?」と、各々が出勤しました。後輩と一緒に支店に向かった記憶があります。
支店のテレビで大蔵省(現:財務省)の発表を、みんなで見た記憶があります。現実味はなかった。「連休明け、どうやってお客さんの対応をしようか」って話していました。
当時、支店の電話は手動のスイッチで自動応答にしていました。連休明けの月曜の朝、自動応答を切った瞬間、一斉に電話が鳴りました。
電話では「私が預けたお金は大丈夫?」という人はもちろん、「あなた達は大丈夫なの?」と心配してくれる温かい声もありました。いまでも、年賀状のやり取りなどお付き合いしてくれる方もいらっしゃいます。
大学を卒業して2〜3年でこんなことになるなんて、夢にも思わなかったですよ。お店にはお客さんがいっぱいいらっしゃって大変でした。会社が破綻した時の対応なんて習ってないですからね(笑)。
年が明けて98年になると「自分の株券や資金は守られるんだ」という正しい知識が広がってお客様も落ち着きました。私のいた支店は3月末で業務終了。最後まで残って残務処理をして、店のシャッターを閉めました。
野澤社長の会見はテレビで見ました。正直、一社員だったので、意味合いとかはよくわからなかった。でも私も今、自分で会社を経営しているので、気持ちがよく分かるようになりました。トップに立つ者として、責任を果たそうとしていたのだと思います。
■「平成」は終わるけど、日本経済の根っこは変わったのか
かつて山一証券は、身分の上下に関係なく、社長以外を互いに「さん」付けで呼び合った時代があったという。
有能な人材が集まり、家庭的な雰囲気を残していたことから「人の山一」と謳われた。私が取材に訪れた「山一証券1995年入社組同期会」も、そんな「山一」の気風を感じるものだった。
日露戦争、関東大震災、昭和恐慌、太平洋戦争、戦後復興、高度経済成長期、そしてバブル経済――。戦争、恐慌、好景気の狭間で、「山一」は100年間にわたって生き抜いてきた。
そんな大企業が、ある日突然「廃業」した。
原因は、違法な利回りを保証して法人に株を売りまくったことだった。バブル崩壊で生じた顧客の有価証券の含み損を、「飛ばし」と呼ばれる手法を用いて「簿外債務」として隠蔽。虚偽の有価証券報告書をつくっていた。
歴代の経営陣は簿外債務を隠し続けたが、野澤氏の社長就任後に表面化し、山一証券は破綻した。
簿外債務は約2600億円にのぼり、従業員約7500人が一斉に職を失った。一生勤め上げるつもりだった彼らは、きっと戸惑い、焦り、悲しみ、怒ったことだろう。
私が話を聞いた元社員も、心中では今も複雑な思いを抱いているかもしれない。それでも、誰もが口をそろえてこう言った。
「3年しかいなかったけど、山一で学んだことは今も生きている」
会場には、「山一」が在りし日に使用していたポスターが飾られていた。そこには、こんな言葉が書かれていた。
会社が潰れたことで「新しいこと」を始めざるを得なかった元社員たち。ある人は転職し、ある人は会社を興し、新たなキャリアを歩んだ。彼らは今、このポスターを見て何を思うだろうか。
「失われた20年」を経て、「日本経済はよみがえった」と声高に叫ぶ人もいる。
内閣府は11月8日、9月の景気動向指数を発表。景気の基調判断は12カ月続けて「改善を示している」となった。
これにより、2012年12月から続いているとされる今の景気回復局面は「いざなぎ景気」(1965年11月~70年7月)を超え、戦後2番目の長さとなった。
株価も回復し、11月7日には約25年10カ月ぶりの高水準に。9月の完全失業率(季節調整値)は2.8%。4カ月連続で低水準を維持した。
一方で、景気回復の実感は乏しいという声もある。東芝の不正会計、神戸製鋼のデータ不正、過労自殺や過労死、長時間労働、パワハラ、セクハラ...日本経済に暗い影を落とす話は尽きない。
もうすぐ「平成」も終わりを迎え、日本は新しい節目を迎える。
私たちは、新しいことを始められるだろうか。