習近平と、中国政府の最高クラスの幹部たちはとても忙しい。全社会で腐敗追放キャンペーンを張り、特に高級官僚のライバルたちに照準を定めているかと思えば、ここ数週間は異例なほどの激しさで隣国の日本やベトナム、フィリピンを攻撃し、異例なほど厳しく彼らの反米理論を唱え、そして中国国内の反体制の声を異例なまでに厳しく弾圧している。彼らは政府の組織を、個人的な権威を持つ高位の者に権力が集中するように造りかえ、明文化された規則や政府の官僚制度は縮小している。彼らは、中国型の新たな強権政治という理想を掲げており、明らかに習近平が独裁者と示唆している。
これらすべてにおいて、毛沢東は最高のモデルだ。しかし習近平は毛沢東ではなく、どのような結末を迎えるのかは誰にも分からない。
毛沢東も、彼の最初の後継者である鄧小平も、狡猾で力のある人物だった。自身の考えを支持させることも、命令に従わせることも意のままに操ることもできた。鄧小平亡き後のリーダーは、このやり方では統治できていない。彼らは利権の均衡を図り、しばしば不安におびえなければならなかった。
最近の指導者たちが選択してきた統治方法も、スーパーエリート社会の序列を競いながら、順番を待つ過程だった。功績に応じて選ばれるわけではない。
習近平は毛沢東の盟友、習仲勲の息子であり、最も毛並みの良い特権階級の小君主だが、知的に鋭い洞察力を備えているという特段の兆候はない。中国の頂点に上り詰めた習近平は、国家が様々な面で危機に直面していることを知った。はびこる貧富の格差と腐敗だ。両方とも、インターネットの普及によって瞬く間に、不満のたまった民衆の知るところとなった。経済成長が減速して、迫り来る不良債権や不動産バブルの危機はさらに現実的な不安になった。環境汚染は人間の健康だけでなく、体制の安定を脅かす深刻な問題だ。そして政権が民衆から信頼されておらず、皮肉混じりの冷笑を送っている。習近平は就任後、何かしなければならないと感づいてはいる。しかし何を?
無理からぬことだが凡庸な結論として、習近平は理想のスローガンを、共産党の父の世代に求めた。質素な暮らし、平等主義と「善なる民」による個人的な支配だ。この理想は習の腐敗防止運動の理論的根拠でもある。たとえば、公的な晩餐は、周恩来が決めたように、必ず「1汁4品」でなければならないといった決まりが復活した。
さらに最近、中国の腐敗防止運動は2種類の成果を追い求めるために使われている。指導層が一般民衆からの支持を得るためであり、それは政治的なライバルに打撃を与えるための道だ。一般民衆は長い間、醜い腐敗と、腐敗で甘い汁を吸う人々に怒っており、腐敗防止を叫ぶ指導者や、習近平のように、腐敗した社会で何匹かの大きな虎を仕留めようとする指導者には誰でも熱狂する。権力闘争の末に今は獄中にいるが、数年前の薄熙来はまさに、この種の大衆煽動にたけた政治家だった。
しかし、腐敗防止キャンペーンや、革命初期への回帰が、中国を危機から救う道とする考え方は、習近平の知能の弱さを示すだけだ。腐敗を共産党から根こそぎにしようという運動は、1950年代初頭には始まっており、今まで断続的に繰り返されてきた。これまでも一過性の効果以上のものはなかった。実際には、腐敗を止めようと求めると、さらに腐敗が生まれるのだ。なぜなら、収賄容疑の捜査を止めるには、賄賂が最も確実だからだ。
習近平の歴史認識も疑問が残る。党の無私な理想が具現化し、腐敗した人民と、共産党が照準を定めた企業とは、党の政敵なのだ。1950年代初頭、これら政敵への煽動は「殲滅」という言葉が用いられた。現在、腐敗した党の敵は共産党内にいる。1、2匹の虎を仕留めることはできるが、それ以上仕留めようとすると体制の安定が破壊され、腐敗したエリートを完全に殲滅することは、「自己殲滅」を意味する(2012年のブルームバーグの報道によれば、習近平の家族は数億ドル規模の資産を保有しているという)。さらに、仮に習近平が彼個人の富を犠牲にして進んだとしても、腐敗防止がそれ以上進むことは考えられない。ほかの腐敗したエリートを撲滅することもできたはずだが、そのずっと前から、腐敗したエリートの誰かが習近平を失脚させていただろう。これまでにも噂はあり、やろうとしたこともあったようだが、やっと習近平は実行に移したのだ。
習近平は毛沢東ではない。中国はそこに感謝すべきだろう。毛沢東は1人で十分だ。しかし上品で才能があり、自ら毛沢東になれると思う人物が登場するかもしれない。これは少なからぬ不安の要因でもある。
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