1942年2月15日、シンガポールで連合軍が日本軍に降伏した日です。山下奉文将軍がイギリスのパーシバル将軍に、「イエスかノーか」と降伏を迫った逸話が知られています。シンガポールでこの日は、総国防日(Total defence day)として、今でも警報が国中に響きます。
日本に対する遺恨ではなく、当時はイギリス支配下にあったもののイギリス軍が敗れたことで、国防は国民全体で担うのが義務だ、という意識啓発のためです。
日本占領下において、シンガポールは「昭南島」と日本によって名前が変えられました。
今年はシンガポール陥落から75周年。山下将軍とパーシバル将軍が交渉を行った旧フォード工場は、戦争博物館の「旧フォード工場記念館」(Memories at Old Ford Factory) として利用されています。そこが改装を終え、この2月15日に再オープンしました。一般公開は2月16日です。当時の展示の品々が差し替えられて、映像を多用した内容になり、施設の名前も「昭南ギャラリー」に変更されました。
※写真は筆者撮影
ところが、記念館の新しい名前に「昭南」を使ったことで、運営している政府に国民から大きな反発を呼びます。理由は大きく2つです。
- 「昭南」の名前は日本占領時の痛ましい記憶を呼び起こす
- 「昭南」の名前を使うことで、日本占領時を肯定する印象を与えるのではないか
名前が変更され、「昭南ギャラリー: 戦争とその遺産」(原文: Syonan Gallery: War and its Legacies) になると一般に知られたのが、2月9日の報道です。抗議を受け、名前の撤回を政府は2月17日に決めます。「日本の占領を生き抜いて:戦争とその遺産」(原文: Surviving the Japanese Occupation: War and its Legacies)になりました。わずか一週間でのスピード決定です。
最終的には、担当大臣である情報通信省 (MCI) の公式声明に加え、リー・シェンロン首相もフェースブックでコメントを出しています。全文に、私の訳を付けます。
旧フォード工場の展示について、最近、多くのシンガポール人が率直に発言しています。
我々は「昭南ギャラリー: 戦争とその遺産」と当初は呼んでいました。その名前「昭南」は、シンガポールの歴史における暗黒でトラウマになっている時を呼び起こすことを意図したものです。
しかし、少なくない人々が、名前自身がこのように使われ苦痛を呼び起こすと感じました。多くのシンガポール人の全民族は、日本統治時代に恐怖の残虐行為を受け、それを経験した家族がいます。
私の同僚と私は、この根強い感情を尊重し敬意を払います。痛ましい記憶への目撃者に耐える展示に、名前を変えることにしました。
意見を共有した全ての人に感謝します。そのような会話は我々を一層団結させるものです。
シンガポール人が展示を見に行くことを私は希望しています。我々の人生に深く影響を与え、社会を形作った出来事を、我々は決して忘れてはいけません。
- リー・シェンロン
Facebook: Lee Hsien Loong
シンガポールでの太平洋戦争評価は「最も暗黒の時代」
太平洋戦争について、「アジアには肯定的な評価もあるのではないか」「アジアでの植民地開放の先駆になったことは評価されるべき」という考えが日本ではありますが、シンガポールの考えはこれとはかけ離れています。シンガポールは日本に「植民地支配から開放してくれ」と頼んでません。生命の危機があり、経済的にも食べるものにも事欠いた日本統治時代の圧政より、イギリス植民地支配が比べるまでもなく好ましいものでした。
シンガポールでの太平洋戦争と日本統治への評価は定まっています。首相が「昭南ギャラリー」開館でフェースブックでコメントしたように「シンガポールの歴史で最も暗黒の時代」です。全文に私の訳を付けます。
1942年2月15日、75年前の今日、ブキティマにある旧フォード工場で、イギリス軍は日本侵略軍にシンガポールを引き渡しました。それから、日本統治下で、シンガポールは昭南「南の光」と名前が代わり、恐怖と苦難と苦痛の3年半が訪れたのです。
シンガポールの歴史での最も暗黒の時代を我々が忘れないように、毎年この日に総国防日を記念します。今朝、旧フォード工場で、「昭南ギャラリー: 戦争とその遺産」が始まりました。
日本統治での恐怖と凶暴さ、我々の祖先の苦痛と勇気を、記録しています。シンガポールが自由だけでなく名前も失うとは何を意味するのかを、記録は物語っている。こんなことを二度と起こさないようにせねばなりません。 - リー・シェンロン
Facebook: Lee Hsien Loong
シンガポールが日本統治期を「暗黒の時代」と評価することは、歴史教科書やシンガポール国立公文書館の記述で、以前から行われています。
「日本の占領を生き抜いて:戦争とその遺産」の展示
2月18日に「日本の占領を生き抜いて」を私は訪れました。名前変更の発表が前日にあり、私の訪問時には昭南ギャラリーの名称は既に消されるか、隠されていました。
※表通りに面した大看板が覆われている。写真は筆者撮影
シンガポールでの「痛ましい記憶」:シンガポール華僑虐殺事件
旧フォード工場記念館の時にも私は訪れました。当時の品々の多くは入れ替わり、以前はあった山下奉文将軍とパーシバル将軍の銅像などはなくなっていました。「昭南を名前にすることで、日本占領時を肯定する印象を与えるのではないか」との国民から指摘がありましたが、展示内容は日本軍のシンガポール華僑虐殺事件や圧政に関わるものが多くを占めていました。
※写真は筆者撮影
下記写真は、現地ではSook Ching(粛清)と呼ばれるシンガポール華僑虐殺事件で、日本軍が殺害した数です。日本が確認したのは5千人、一方シンガポールでの推定が5万人と、両論併記されています。この虐殺事件のために、1967年に日本はシンガポールに血債協定で当時の金額で約30億円相当の無償供与の戦後賠償を行いました。その後、シンガポールが日本に謝罪や賠償を蒸し返したことはありません。
・参考: 今日もシンガポールまみれ: リー・クアンユー シンガポール初代首相:華僑虐殺を超えた戦後処理が最大の対日功績
※写真は筆者撮影
※写真は筆者撮影
クランジ戦没者記念墓地の追悼式
2月15日に、クランジ戦没者記念墓地で追悼式が行われました。日本大使も参列しましたが、この追悼行事への参加は初めてです。
国民の声に敏感なシンガポール政府
1959年から現在に至るまで、PAP(人民行動党)の一党政権が続いており、強いリーダーシップスタイルをとるため、シンガポールは強権政治と思われています。しかし、シンガポールに住んでいると、「政府は国民の声に(少なくとも日本より)敏感だ」と思う面もあります。
今回のスピード決定もそうですが、議員や政治と国民との距離は近いです。地域イベントだけでなく個人の陳情にすらも議員が入り、議員が担当官庁に状況説明のレターを書くという話はよく聞きます。
・参考: 今日もシンガポールまみれ: シンガポールの選挙制度~2015年総選挙~
政治への一定の影響があるシンガポールのマスコミ
「報道の自由度ランキング」(国境なき記者団)でシンガポールは、180カ国中154位という低い評価を受けています。本件で世論を主導したストレイトタイムズ紙は、新聞を規制する法律があり、政府の強い影響下にあります。政府や与党を代弁していると批判されることもありますが、今回のように、社会の木鐸として、政府方針に反する国民の声を拾い上げていくことも目にします。
日本での報道
また、本件は日本占領に関する話ですが、日本と日本語での報道は消極的です。日系のマスコミでは報道を確認できず、AFPの外電で細々とある程度です。
なお、AFPの他に日本語で報道が確認できるのは中国国際放送です。そこでは『一部国民やメディアが「歴史的経過から見てもその名称は相応しくない」とする意見を相次ぎ発表』と書かれていますが、「歴史的経過」という似て非なるものを、主要な反対意見として私は確認していません。シンガポール国民の指摘は、「痛ましい記憶を呼び起こすこと」と、「日本統治を肯定的に評価する印象を与えるのではという危惧」です。
- 中国国際放送: シンガポール 日本占領時代の展示会が名称を変更
後記
「史実である昭南を使うと、それが肯定的評価になる」というのは事実と評価の混同であり、ロジックとして違うだろうと、この話を聞いた当初は思いました。しかしながら、日本国内での歴史解釈を巡る現状で、一部だけを切り出して主張する論旨が見られます。
たとえ展示そのものは、日本統治下での圧政を伝えるものであったとしても、趣旨ではない誤解を避けるためには、記念館の名前を変更してよかったのかもしれません。
現在のシンガポールの対日感情は、アジア屈指に良好です。1年間にシンガポール人の十人に一人が日本に旅行している統計もあるくらい、観光・日本文化や和食をシンガポール人は楽しんでいます。しかしながら、太平洋戦争は、国家間として戦後処理は決着していても、国民感情としてはまだ史実になっていないことが改めて分かる出来事でした。
本記事は下記からの抜粋です。今後、追記・訂正が発生した際には、下記で対応します。
今日もシンガポールまみれ: 太平洋戦争時の日本占領名"昭南"を戦争記念館に拒否したシンガポール国民