間もなくW杯がブラジルで開催される。四年に一度世界の女たちは、夫や恋人や息子達をフットボールに捕られてしまうというほどの、ビッグ・イベントである。世界中で一番競技人口が多い、このスポーツが何十億という人間のハートを鷲掴みにする一ヶ月である。
予選を含めて世界中のチームがこの大会への出場を目指し、「国別」対抗でしのぎを削り、どの国民も「おらがのチーム」の勝敗に一喜一憂し、その戦いの激しさはあたかも「血を流さぬ世界戦争」の呈である。国際的にも、政治的にも確執ゆえなき間柄の対戦は、信条のみならずその感情をも幾重にも試合に塗り籠めて、重層的な緊張関係をもたらす。
しかし、フットボールの世界祭典がどうして行われるのかという、そもそもの出発地点に立ち返ったとき、我々は忘れがちなその真の目的を思い出せるのである。それは、「国別対抗のW杯は、国家を超える普遍の共有地平を発見するために行われる」という創造的なパラドクスである。言い換えれば、己の属性としての国家とその代表という形式を持ちつつ、スポーツのもたらす人間の肉体の奇跡の瞬間を共有することで、自分の属性を無意味にする「フットボールそのものという幸福」を確認するということだ。
かつて敬愛するコラムニストが「オリンピックは好きですか?」という質問に対して、「絵は好きですが額縁が嫌いです」という名言を吐いた。スポーツをこよなく愛するが、それの「見せ方」にどうしても首肯しかねる違和感を持つということだった。「スポーツ(體育)によって強い国家と国民を造る」ことを旨とする、切ない近代史150年の日本では、スポーツ・イベントが「スポーツ以外のことのために利用され」がちである。
五輪にせよW杯にせよ、スポーツを愛するために不可欠なものとは、スポーツ批評である。では批評とは何のために存在するのか?それは「スポーツを擁護する」ためである。それでは、何から擁護するのか?それは「スポーツなど微塵も愛することなく、スポーツを政治(世界に伍するための国威発揚)や経済(◯◯ノミクスの起爆剤)の道具としようとする者たちからである。
その意味で、W杯に熱狂し、フットボールの魅力について話し、批評し続けることは、フットボールなど愛していないくせにフットボールを利用しようとする者たちから、フットボールを擁護することである。フットボールを利用しようとする者たちの中には、フットボールではなく「国別対抗」に心のウエイトをかけている者たちがたくさん含まれている。我々は、彼らからフットボールを守ることが必要である。
そのために必要なのは、出場するチームの国家的背景知識を豊かにすることではない。何よりも「今、目の前で起きている人間の肉体そのものの不可思議さと、それが持つ信じ難い、名付け難い奇跡」に遭遇することである。スポーツは「肉体的衝動をルールによって整序化されたゲームへとシェイプすること」で生まれた近代の産物である。しかし、人間の肉体の持つ予測不可能性と状況破壊性は、整然とした近代スポーツの「官僚的なるもの」を打ち壊す衝動を常に秘めている。
したがって、それが表現される瞬間を他者と共有し、かつそれを語り続けることができたとき、我々は官僚的なるもの、国家的なるもの、反スポーツ的なるものを超えて、フットボールという幸福、「普遍としてのフットボール」の地平を垣間見ることができるのである。
フットボールそのものを愛し、語ることで、舞台設定の便宜的工夫に過ぎない「国別」という桎梏から自由となり、その時我々は、ブラジルのネイマールの肉体の驚異的な柔軟性と、日本のホンダの持つ鋼のような意志と肉体、そしてイタリアのピルロの持つ「歴史の古層からにじみ出るような老獪さ」を、「人間という奇跡」という共有地平で堪能することができるだろう。そうすることで、国家代表合戦という「野暮なる額縁」は無化されていくのである。
世界には、人間の持つ奇跡そのものを堪能できない、不幸で、ツマラナイ、野蛮な、そして権力と権威を愛する、それでいて「国という属性がないと不安で死んでしまいそうな気になるほど脆弱な者たち」がいる。しかし、我々はフットボールを愛する者たちである。フットボールは「何かのためにやるもの」ではない。「フットボールそのものが素晴らしいと思わざるを得ない」から、フットボールこの世に存在するのだ。
そのことさえ忘れなければ、バカげた「国策」の魔の手も、「W杯はナショナリズムを喚起する危険なもの」などという、机上秀才の浅薄なる定番批判も、我々は全く恐れる必要がないのである。
とりわけブラジルからこの祭典を報道し批評する責務のある者たちに、このことをどうしてもわかってもらいたい。切にお願いする。「フットボールそのものを語って欲しい」と。