働き方改革とライフスタイルー日本の将来像をさぐる

休みをとる権利とは。
Gustavo Veríssimo - Attribution 2.0 Generic (CC BY 2.0)

前回まで

これまで、フランス人が抱くバカンスという概念を通して、日本人とヨーロッパ人の休暇について観察・分析してきた。第一回では休日の現状から始まり、観光政策について。第二回では、地理的・金銭的側面やキャンピング文化をみてみたが、最終回はかなりシリアスな話になる。権利としての休暇を、制度・法律的な点に焦点を当てつつ、ワーク・ライフスタイルを総合的に考察する。最後は現在議論がすすむ「働き方改革」と日本の将来像というマクロ的な話をして完結しようと思う。

休みをとる権利とは

ここで、少し休暇から離れて、今度は仕事の側面からみてみよう。休暇はいわゆる労働者の権利なのだから、議論の中心になっていいはずだ。なぜ、日本では思うように休暇がとれないのか?

休暇をとりたい人からすると、同僚に迷惑がかかるからとれない。しかし、同時に自身の仕事が増えて迷惑だから、同僚に対してもとらせないように牽制する。上司や会社の景気まで絡んで、わがままは言えない雰囲気。職場にこうして歪んだ心理ゲームが成り立つとしたら、バカンスなんてとんでもないということになる。

逆にヨーロッパ人の発想からすると、法律で決められた権利を主張するのは当然の行為とみなされている。労働者の権利を行使し、決められた日数の休暇をとるのに何もやましいことはない。そんな調子だから、休暇をとって同僚が仕事をカバーすれば、今度は自分が仕事を引き受けることになる。例えば、ヨーロッパの職場メールではこんな自動返信メールが日常のように飛び交う。

「x月x日まで職場を離れるのでメールは見れません。緊急の場合は同僚のメールへ連絡を取ってください」

しかも、同僚にわざわざ了承を得て、メールアドレスを載せているいるわけでもない。非常にドライな関係がそこにはあるが、お互い様なので、誰も文句は言わない。

ある意味これは非常にシンプルなことなのだ。民主主義で決められた法律を遵守する。義務ももちろんあるが、権利はきちんと主張する。仮に問題があれば裁判を起こせばいい。それ以外の駆け引きはない。雇用者と被雇用者の間にある種対等な大人の心理学が根底にある。

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これが契約社会と言われる点だが、被雇用者だけでなく、雇用者も契約を交わす際にはその内容に注意しなければならない。もし、この点を徹底させることができれば、法律で定められた勤務時間を越える労働を強いるというような違反は原則的に起こらないはずだ。もちろんこうした欧米式の契約社会が日本の文化に合うかどうかは熟慮が必要だが、日本人がヨーロッパ人のようなバカンスを楽しみたいのならば、この部分をしっかりと議論する必要があると思われる。

ストライキと労働者の切っても離せない関係

さて、休暇以外に労働者の権利として重要なのは、団体行動権。その最たるものがストライキである。周知のように、ヨーロッパではストがよく発生する。フランスやドイツ、イタリアやギリシアでもよくニュースを見かける。特に交通機関のストは利用者に大きな影響があるので、一般人の話題にもなりやすい。最近では、マクロン大統領の改革に反対して、フランス国鉄が大規模ストに突入し、社会問題となっている。独ルフトハンザもここ数年ストが続発している。もちろんストは労働組合が経営者との交渉のカードとして使われるのだから、長時間労働の軽減や休暇の増加などを叫ぶこともできる。例えば、エール・フランスの損失は7日間で220億円にもなるのだから、会社の経済損失を考慮して、労働組合が強く主張できるのもうなずける。

一方、日本人はストに不寛容だという記事がある。これは経験上たしかにそうだと思う。ここ数十年大規模なストが起こったという記憶もない。起きたとしても日常茶飯事とは全くいえないから、一般人は迷惑この上ないと思う人が多いだろう。ストでなく人身事故や悪天候で電車が数十分おくれただけで、いらいらを隠せない人はいくらでもいるのだから。ただ、ヨーロッパ人も別段ストに寛容というわけではないと思う。もちろん消費者は迷惑している。違うのは、「いつものことだ」「しょうがない」と笑いと飛ばすか、あきらめている人が多い点だろう。実際、イタリア人はスト(ショペロ)の冗談をよく言う。あるいは、同士として密かに応援している人も多いのではないか。これは、ストが頻繁におきていることの証左であり、日常化したために寛容になれるのだろう。

では、なぜ日本ではストが起きないのだろう?藤村氏のような説明もあるが、終身雇用を約束された従来型の会社組織では、ストは起こりにくいのではないかというのが個人的な分析である。会社員も経営者も運命共同体であって、団体主義の日本では、揉め事を起こしたくないというのが本音だ。「仕事をさせてもらっている」とか「食べさせてもらっている」というような過度の謙遜や依存主義もあるかもしれない。高度経済成長期はそれでいいかもしれないが、不況時や経済停滞時、欧米制度の導入がすすめば、話は違ってもいいと思う。しかし、社会全体で作り上げてきた習慣や社会構造はなかなか変わらないということだろうか。

さらに、藤村氏は「ストライキは, 労働組合が経営側に対して持つことのできる交渉力の一つである」と述べているが、日本人の議論する力、そして交渉力という資質の面も関わっているのではないか。個人主義の伝統をもつヨーロッパでは、その教育過程で、主張力や議論力が訓練されるからだ。これは、日本人が裁判慣れしていないという点にも通じるかもしれない。悪く言えば、法律に遵守した主張をしない。良く言えば、公然とした揉め事を避ける文化があるため、ストのようなある種のトラブルを避ける傾向があると言えるかもしれない。この点は、前出の契約社会に通じるところである。いずれにせよ、ストを起こさない限り、バカンスの権利を勝ち取ることは難しいといえそうである。フランス人のバカンスは、市民が革命で血を流して勝ち得た民主主義の歴史と伝統に由来するかもしれない、などと歴史を拡大解釈するのは極端だろうか?

https://creativecommons.org/licenses/by/2.0/
Chris Marchant
https://creativecommons.org/licenses/by/2.0/

Photo by Chris Marchant

働き方改革と横並び文化

休暇と仕事。そしてそれに基づいたライフスタイルを変えるのには時間がかかる。最低でも数十年の単位でである。特に日本のように、歴史的に横並び文化が根付いてきた国では、容易ではない。常に職場の同僚や上司の目を気にして休暇を取ったり、仕事をしなければならないからだ。

長時間労働の是正、生産性向上や柔軟な働き方を目指す「働き方改革」を進めるのはよいが、制度面だけを変えても、民主主義や個人主義、さらには多様性の重視(男女平等推進や性の多様性の許容など)という根本的な精神的・文化的部分を変えられなければ、日本人が憧れるようなヨーロッパ式のライフスタイルが定着することはないのではないだろうか。真にバカンスという文化が生まれることはない。フランス人のいうような、メリハリのある仕事と休暇のバランスある環境は夢のまた夢である。

「フランス人に不思議に思われてもかまわない」、「日本式の日常の中でリラックスすれば良い」というのであれば、ヨーロッパに憧れる必要は全くない。そして、どういう方式が国民性に合っているか。どちらの方が生産性や労働競争力が高いか。その答えは国それぞれ違うのも事実だ。

21世紀の日本のかたちとは?

最後に、少し大げさな話をして締めくくろう。現在日本は大きな決断を迫られているといえるのではないか。戦後の経済成長で先進国入りを果たした日本は、豊かな国である。しかし、今後50年で労働人口は急減し、超高齢化社会が訪れ、経済規模も現状維持か縮小する可能性が高い。そんななかで、高度経済成長を助長し、かつそのなかで育まれてきた旧来の日本式ライフスタイルは、同様に先進国であるヨーロッパ諸国と大きな違いがある。

ここは推測だが、急激に経済発展するアジア諸国のライフスタイルのモデルはどちらかというと日本に近いだろう。つまり、日本の働き方改革(さらには次世代のための教育改革も含めて)が単純な休暇増加や短時間労働で終わり、生産性や競争力の向上や経済の発展に失敗したならば、こうした国々の後塵を拝する可能性は高まるわけである。

今後日本は、中堅国としてゆとり重視を目指していくのか、競争力をもった先進国であることを維持するのか。どうすれば効率的な仕事、そしてそれを支える休暇という両輪を理想的なかたちで動かすことができるのか。こうした問いは、労働者のいわゆる「ワーク・ライフ・バランス」を含めた包括的ライフスタイルの改革にかかっている。もっと言えば、日本人の根本的な精神的・文化的伝統や習慣という大きなテーマにまで関わっている。

フランス人のバカンスから始まった、一見シンプルかつ個人的な話に見えるライフスタイルの話だったが、実は日本の将来の「国のかたち」を考えるうえで重要な議論を含んでいるかもしれない。