なぜ教育を受けるのか。

教育の目的とは、本来、人間力を付けるためではなかったのか?

「私たちが習っている様々な勉強は、社会で実際に役に立つのですか?」

ある高校での講演会の最後に、生徒から受けた質問だ。

その質問の背後にある(そうは到底思えないのですが?)という彼の言葉を見てとることは容易であった。誰でも一度は思ったことがあるだろう。

私は「はい。ほとんど役に立ちません。ですが、皆さんが習っているそれらの学問で皆さんは評価されます。ですから、皆さんが役に立たないと思うのであれば尚更、早く切り上げる為に集中してそれをやりきることをすすめます。」と答えた。

 かつて、このやり取りを含めこのブログに載せたことがある。それがどこかに転載され、あっという間に凄い数の批判コメントで埋め尽くされた。

「私は役に立っている!」

「こんな奴は医者にしておいては駄目だ!」

「教育は絶対に必要!」

「お前は役に立たなかっただけだろう!」

等々。

 しかし、化学記号や摩擦係数の測定、素数なんかを本当に社会に出て使うのだろうか?

Photography by CHIE DOI

正直、先の高校生たちの体感覚はやはり間違えていないと思う。

 大人が論を労してもやはり多くの高校生たちは、「何でこんなことを勉強しないといけないのだ!」と思っているに違いない。もし学力の優劣で評価されず、将来に影響を受けないのであれば、多くの高校生が勉強など放り出してしまうと思う。

 親や周囲の大人たちは勉強自体の目的を、いい大学に行くため、いい会社に勤めるため、将来食いっぱぐれがないようにするため、リッチな生活をするためなどと言う。

しかしそれは、教育を受ける根本的な目的とズレてはいないのだろうか?

教育の目的とは、本来、人間力を付けるためではなかったのか?

教育が手段となってしまっていることを放置して、教育は大切だと言われても説得力に欠ける。そんなことは、子どもたちは見透かしているのだ。

それより、彼らが無理矢理に机の前に座り、興味も理解する気もない科目を一日中ぼーと聞き、無為に時間をやり過ごしている有り様を何とかしなければ、ひいてはこの国全体の機会損失へと繋がりかねない。

 教育という名のもとに、興味もない多くの若者の大切な時間と可能性を奪っていないか?

それは大人たちが、自己否定を恐れ、時代が凄いスピードで進んでいるにも関わらず、過去の方法論に固執し、凝り固まった教育の概念に囚われているからではないのだろうか?

 と、いうところまでが前回のブログに書いたところであった。さて、今日の本題はここからになる。というのも、私のなかで教育の目的がある程度、明確になったからだ。

結論からいうと、

 教育の目的とは人類を進歩、発展、進化させること。

それが主目的になる。

そして教育を受ける人間が増えるほどに人類の進化は加速する。理由はこの後の流れから理解してもらえると思う。

 最近その重要性が強調されている"リベラルアーツ"。それは個人を主にイメージして語られることが多い。

個人の人間性への還元が本来の目的ならば、国家を挙げて、同じ科目、内容をやらせている意味が分からなくなる。それは画一的な教育内容ではなく、個個人の特性や個性、才能に合わせて最適化されていかなければ不十分に終わるからだ。

ではなぜ、全国民に対して等しく同じ教育内容を押し付けているのか?

なぜ、社会に出て到底役に立たないような知識を堂々と押し付けているのか?

今の時代、「私には役に立ちました!」等という一個人の感想のような稚拙な回答だけでは、多くの子どもたちは納得などするわけがない。

 さて、ここで人類の進歩とはどのようにして成し遂げられてきたのだろう?ということを考えてみたい。

 歴史を辿れば、人類を進歩させるような発明や発見は、わずかな数の人を中心に成し遂げられて来たものだ。産業革命の原動力となった蒸気機関の発明や、電球や電気の発明は、同時代の人びとが大勢で協力して作り上げたわけではない。ある人間を中心とした数少ない人びとが成し遂げたのだ。

それはips細胞もしかり。数学の理論や物理学の発見も同じだろう。コンピューターの発明やインターネットの発明なども、多くの人びとが与り知らぬところで成し遂げられてきた。

大多数の人びとは、そのユーザーであっても、発明する人ではないということだ。

 ある人の発想、発明を周りの人がサポートし、あるインノベーションが成し遂げられて人類は進歩していく。

言い換えれば、その人たち以外の人は、その発明や発見に対しては不要な人たちだったということになる。結果的にその無数の不要な人たちが投入した、その分野への莫大な時間と労力は全て無駄だったということだ。せいぜい、何らかの形で飯の種になっている人間が少数いるだけだろう。

 しかし、本当にそうだろうか?

他の人間は全くの不要な存在であったのだろうか?

全ては無駄な労力と時間であったのだろうか?

 私の結論は、例えば、「一人の物理の天才を排出するためには、物理に関する無数の凡人の存在が必要になる」というものだ。

 一人の天性の才能を開花させるには、無数のライバル、無数の競争、無数の他人との比較という事象を抜きにしては語れない。

 子どもの頃から他人との様々な学問分野の競争の中で、挫折や称賛を経て、やがてその人が才能ある分野へと辿り着く。

その他の人間は皆、その人の才能を開花させるための肥やしになる。極論すれば、たった一人のその分野の天才の為に、その分野を経験した人類の残りの人間は、全て当て馬のような存在だということだ。

その人間の才能を刺激するために多くの人間は存在することになる。

 逆に考えてみると、その人間にいくら才能があっても、その人だけでは偉大な発明や発見などできない。その人間の才能は、それ以外の人間によって刺激され磨かれていく。その分野や他分野での競争や批判、優越感や劣等感がその人間の才能を開花させていく。

 こうして才能を開花させた人間たちが、様々な分野で発明や発見を成し遂げながら時代を一気に進めていく、人類に発展をもたらしていく。

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そういう視点でみると、教育を受けているほとんどの人間は人類の進歩に無関係ではないことが理解できる。

 その人は一粒の水の分子かもしれないが、その無数の分子が集まり、流れを作り、川となり、その流れの中で、ある人が才能を開花させ、人類に恩恵をもたらしていく。

これこそ教育を行う意味だと思っている。

見方を変えれば、教育を受けた全ての人間が、皆で人類の発展を創り上げているということだ。

天才は種、その他の人間は土や肥やしということだ。

 だから、別に社会に出て知識を使えなくても問題はない。

教育というシステムは、もっともっと大きな枠組みの中で動いているのだ。

そう。だからこそ、全ての国民に全く同じ内容の義務教育を9年間も押し付けている意味があるのだ。

 問題は、義務教育である小学校・中学校過程を終えてもなお、既に自分に才能や興味がないと判明している学問をやらされている高校生や大学生たちだ。自分に才能がある分野を探求するというプロセスに進めず、時間を無為に浪費している高校生や大学生たちは、数多く存在するのだ。

皆が当たり前に高校へ行く、大学へ行く。良かれと思って国が大学の門戸を広げているならば、少し考え直した方がいいと思う。

 とは言え、これほど個人が大切にされる時代の中、なぜ多くの人たちは、自分にとって生涯ほとんど役に立たないような、無駄な、しかし人類にとっては多分、極めて有益なその教育という機会を、義務という形で押し付けられなければならないのか?

人類の発展など興味もなく、自分の人生が豊かになればいいだけなのに、という人も多いだろう。

それに対する答えは、人は生まれたその時から、先人達の犠牲の上に、人類が歴史上成し遂げてきたその発展の利益を先に受け取っているから。 

つまり人間は利益を先取りしてしまっているわけだ。

先人達の利益を受けるだけ受けておいて、自分は誰の利益にもなりませんは通用しない。

人は生まれた時より受けているこの前借りの利益を、未来の人類に返す義務を負っている。

そして先人達と同様に、自分も一粒の水分子になり、流れの一部になり、人類の発展に参加することとなる。

Photography by CHIE DOI

 多くの人は盲目的に、教育は大切だと言う。

それは本当に、自分の人生が豊かになったと理解して言っているのだろうか?

あたりまえに教育を受けた人間は、教育を受けていない自分の人生を経験していない。ではなぜ、教育を受けた方が幸せだと自信を持って言えるのだろうか?

教育を受け、いい会社に就職して、十分なサラリーをもらえたからと言うならば、それは競争の手段であって、教育そのものの大切さなどとは関係ない。

そんなにも教育が大切ならば、どうして若い人たちがあれほどに反発したり、それを手に入れることに必死になれないのだろうか?彼らは利口ではないからか?教育が大切と言うときの教育とは、学校で教わることなのか?あるいはそれ以外のどのようなものを指しているのか?

 途上国でも、教育が大切だからと先進国の人たちが画一的に学校を建てまくる。ということは、彼らの考える教育とは学校で学んでいる学科というものを指すのだろう。

もしも人間にとって、私にとって教育が大切なのだと言うならば、果たしてその教育は他の人間が言うところの教育と同じものを指しているのか? 

個人単位で見たときに、読み・書き・そろばん(計算)という基礎中の基礎だけでは、何が足りないのか?

 ここで私が伝えたかったのは、国が行う教育と個人が求める教育は、同じゴールを目指してはいないということ。

国はあくまでも国家にとって有益な人間を生み出す為に、明治時代から教育を始めた。それは平成の今も変わっていないと思う。しかし個人が教育を受ける目的は、人間性を豊かにし才能を開花させることにあり、いい学校へ行ったり、いい就職を得るためだけではないということ。

国家にとって役に立つ人間をつくろうとしている教育は、その子どもにとっていいものとは限らない。だから日本の高校生たちも、あれほどに不信感を持っているのだろう。

 個人の幸せを追及できるようになった今の日本にあるのは、国家の求める教育と個人が求める教育の目的にズレが生じているにも関わらず、それを同じ教育だと信じ扱っている現実なのだ思う。

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