私は忙しい。
「調子はどう?」と聞かれたとき、ただ「元気だよ」と答えることはない。代わりにいつも口から出るのは「疲れ切ってヘトヘト」をほのめかす言葉だ。私の返答のバリエーションは「忙しい」から「めちゃくちゃ忙しい」「気が狂いそう」まである。
私がそんな返答をすると、たいていは同情的な答えが返ってくる。そして、それを聞くと、私は安心するが、さらに気持ちが重くなってしまう。
「分かるよ!みんなそうだよね!」
「本当に忙しいよね!困ったもんだよ!」
「1日24時間じゃ足りないよね」
しかし、一ヶ月ほど前のある日、違う反応がかえってきた。ジムでばったり会った友人に「バカみたいに忙しいよ」言うと、彼は同情した様子も見せずにこう聞いてきたのだ。
「そう?それで今日は何をするの?」
そこで私は考え込まねばならなかった。これまで誰も私に「どんなふうに忙しいのか、説明して」なんて聞いてきたことなどなかったのだ。そこで、説明する前に頭の中でその日のスケジュールを思い出してみた。午前中は礼拝と、教会の音楽グループのリハーサル。その後は、息子のバスケットボールの試合。妻の代わりに教会の活動に参加。そして、娘の誕生パーティー。その夜はデートにも出かける予定だった。
そう説明すると、友人はこう言った。
「充実した1日のようだね。楽しんで!」
この反応に、私は初め少し腹が立った。彼はどう考えても誤解している。私はどんなに大変かを、彼に理解してほしかった。乗り心地のいい我が家のSUV車であちこち走り回るのにどれほどうんざりしているかを伝えたかった。もちろん、妻のギャビーと手分けして用事を済ませなければならないことも。誕生日のプレゼントを買ってラッピングだって? 冗談じゃない!それに夜は、たった1時間で子どもたちにご飯を食べさせ、デートのためにちょっとはお洒落もしなくちゃならない。
彼には私の話が聞こえていなかったのだろうか。私は忙しいのだ!神よ、私の魂にどうぞお慈悲を!
しかし、私は気がついた。私は「忙しさ」を、まるで勲章であるかのように扱っていたのだ。忙しいことは、名誉の証しでも何でもないというのに。
「忙しい」ことは病気だ。
アメリカ心理学会は、2007年からアメリカのストレスの現状調査を実施し、結果を公表している。その結果から分かったのは、大半のアメリカ人は、健康な状態を保てないくらいのストレスを抱えていると自覚していることだ。抱えているストレスに対処していない理由として最も多かったこと、それは忙しすぎるから、だ。
これは悪循環だといえるだろう。
マサチューセッツ総合病院の内科医、スーザン・コーブン医師は、2013年の「ボストン・グローブ」紙のコラムで次のように書いている。
ここ2、3年、ある伝染病が流行しています。患者たちが次々に、同じ症状に悩まされています。その症状は「倦怠感、怒りっぽさ、不眠症、不安、頭痛、胸やけ、腸の障害、腰痛、体重増加」。こういった症状の原因は血液検査やレントゲン検査では判明できませんが、しかしすぐにわかります。それは「忙しすぎ」です。
これまでにも、過度なストレスは健康に害を及ぼすと言われてきた。しかし、コーブン医師が「ストレス」という言葉を使っていないことに気がついただろうか。彼女は「忙しさ」と言っているのだ。そしてそれは「伝染病」だとも。
イギリスの疫学者、マイケル・マーモット博士は、ストレスとその影響について研究し、その根本的原因には2種類の「忙しさ」があることを発見した。博士はこの2つに正式な名前はつけていないが、その忙しさを次のように説明する。
最も有害な忙しさは「自分ではコントロールしようのない忙しさ」で、この忙しさは主に貧困層に影響を与えている。コントロールしようのない忙しさに苦しむ人たちは、経済的な事情からとにかく息抜きする余裕が持てない。家族を養っていくためには仕事を2つも3つもかけ持ちしなければならず、もし子どもができようものなら忙しさは手に負えない状態となって、ストレスによって健康が蝕まれていく。
2つ目の「忙しさ」も健康障害を引き起こすが、けれども、こちらの病気は自らが招くものだ。自らすすんで幼稚園のトイレのドアノブをなめたり、エンターテイメントレストランのチャッキー・チーズのボールプールで汗だくになって遊んだりすれば、誰だって具合が悪くなるように。
それは「自分でコントロールできる忙しさ」だ。
つまり、自らストレスを生み出しているということだ。
ジムで友人と言葉を交わして以来、私は自分の忙しさが、2番目の「自分でコントロールできる忙しさ」であることに気がついた。考えてみると、必要もないのに急いだり、イライラすることがよくあった。わが家の朝は、子どもたちに早く行動するように急かすのが日常的な光景だ。例えるなら、ビー玉でいっぱいの海でのろのろとしか動かない2頭のラバに、もっと速く動け!と言っているような感じだ。
「あと90秒でワッフルを食べ終わらなかったら遅れてしまう!」
「さっさと歯を磨かないと、遅刻するぞ!」
しかし、子どもたちを急かそうと急かすまいと、毎日だいたい同じ時刻に学校に着いている。始業のベルが鳴る前に到着できているし、それにもし遅刻したとしても、本当はそれほど困ったことにはならないだろう。それでも、いまだに私の頭の中ではこの声が聞こえるのだ「ちょっとでも遅刻したら、あとはそのまま坂を転がり落ちる。そして5年か10年後には連邦刑務所にぶち込まれることになるぞ」
バカげている。
そして自分がバタバタと慌ててしまうのは、頭の中で勝手に作り上げた切迫感に過剰に反応しているためだということに気がつきはじめた。ほとんどの場合、私は自分で焦りをつくりだすことで周りの人間も急いでくれるだろうと期待しているのだ。しかし焦りが生み出すのは、不安やイライラ、鬱憤といった感情で、これらはまったく生産性が高めはしない。それに万が一本当に切羽詰っていたとしても、それはたいてい自分でスケジュールを一杯にしてしまったせいだ。
私はすっかり考え込んでしまった。
そんなに頭が悪くもない一人前の男が、自ら率先してストレスの多い暮らしを送ろうとしているのは一体なぜなのだろうか?
この問いに対する答えは見つかったが、それは耳をふさぎたくなるようなものだった。
自分自身を恐れているから。
アメリカでは、私たちは「何をしているか」で評価される。どんな仕事を持ち、どんな価値を生み出しているかによってだ。パーティーに行けば、まず最初に聞かれる質問は「職業」。仕事は、見知らぬ人と何よりも先に交換し合う情報なのだ。そして、忙しい人間でなければ、それとなく価値を下げられる。何の値打ちもない人間と思われるか、少なくとも、何かを生み出している人間より下にみられてしまう。
そんなのはたった1人の男の意見にすぎないと決めつける前に、「サイエンス」誌に掲載された最新研究について考えてみてほしい。ある実験で、被験者たちを部屋に15分間1人きりで閉じ込め、その後、1人きりの時間は楽しかったかと尋ねた。半数以上が「楽しくなかった」と答えたという。
それに続く実験では、被験者らに電気ショックを与え、その上で、お金を払えばもう電気ショックを与えないが、どうするかを尋ねた。予想通り、被験者の大半は痛い思いをしなくてもいいならお金を払うと答えた。ところが、同じ被験者たちを1人きりで部屋に15分閉じ込めたところ、半数近くが自分自身に電気ショックを与えたのだ。
そう、自ら電気ショックを受けたのだ。
ショックとしか言いようがない(これはダジャレではない)。
この結果が何を意味するのか、考えてほしい。何もせずにただそこにいることがあまりにも苦痛なために、その状態を回避するためなら、我々は自らを痛めつけることもいとわないのだ。
これは悲しい現実だ。神は私を、神と似たような存在としてお創りになった。それなのに、私にとってはそれだけでは不十分なのだ。だから私は、何もしない状態から抜け出すべく、偉そうな態度で忙しさを装っては、Facebookや予定表にたくさん書き込みをする。しかしそうすることで、私は自分自身の中にあった安らぎと美しさを失っただけではなく、他の人たちの中に存在する同じ美しさを見出すチャンスも逃している。なぜなら、自分で作り出した切迫感が不安とイライラを生み、安らぎや美しさを隠してしまうからだ。
自分の「忙しさ」を終わらせる時が来たと思う。
私は今日こう祈った。自分の価値を「自分がやっていること」で決めるのをやめ、代わりに「自分らしさ」で自分の価値を決めていこう。時計で時間をはかるのをやめ、周囲の人々とともに過ごす時間をはかっていこう。そして、自分の人生を「忙しい」と考えるのをやめ、本当の人生を受け入れよう。
後日談:ここ1カ月ほど、私は「忙しい」という言葉をできるだけ使わないようにしている。その結果、気持ちが軽くなったようだ。今では、「調子はどう?」と聞かれたら、ただ「充実してるよ」と答えている。皆さんにはどんな言葉が合っているのだろうか?
(2015年2月25日付けのブログ「The Accidental Missionary」より転載)
このブログ記事はハフポストUS版に掲載されたものを翻訳しました。
[日本語版:遠藤康子、合原弘子/ガリレオ]