キューバ革命の指導者チェ・ゲバラがこの世を去ってから、10月9日で50年を迎えた。
カストロ兄弟らと1959年にキューバ革命を成功に導いたゲバラは、今も反体制のシンボルとして崇められている。キューバでは8日に没後50年の記念式典が行われ、AFP通信によると、推定7万人の国民が参加した。
ゲバラの人生を振り返ってみよう。
チェ・ゲバラ(エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ)は、キューバではなくアルゼンチンに生まれた。
20代前半のころ、友人と南米をバイクで縦断した際、貧困や病気、圧政と不平等に苦しむ人々を目の当たりにしたことがきっかけで、「中南米の解放」を志すようになったのだという。
1952年に軍事クーデターによって政権に復帰したフルヘンシオ・バティスタは、それまでの政権同様に親米政策をとり、アメリカからの援助をうけつつ独裁体制の強化を図っていた。
これに対してチェ・ゲバラはフィデル・カストロとラウル・カストロの兄弟とともに武装闘争を起こし、1959年1月1日にバチスタ政権を打倒した。これが、キューバ革命だ。
キューバ危機後に新政府を樹立したフィデル・カストロは、貧しい農民や労働者らの利益を代弁する政府を掲げ、貧しい農民でも土地が持てるよう農地改革を断行した。
しかし、この過程でアメリカ企業を接収したことで、アメリカとの関係が悪化。
アメリカはキューバの主要産業である砂糖の輸入を停止し、さらに、1961年に国交断絶を宣言。1962年にアメリカのジョン・F・ケネディ大統領は、キューバとの輸出入を全面禁止し、キューバを経済封鎖すると発表した。
三好徹著『チェ・ゲバラ伝』によると、ゲバラはこの頃、国立銀行総裁を務めており、キューバ経済使節団長としてソ連やチェコスロバキア、中国などの社会主義諸国を歴訪したという。
キューバとアメリカの国交断絶は、2014年12月17日、当時のアメリカ大統領バラク・オバマとキューバの国家評議会議長ラウル・カストロが国交正常化交渉の開始を電撃発表するまで、54年にわたり続いた。
フィデル・カストロは社会主義革命を宣言し、キューバは共産党による一党独裁体制となった。こうしてキューバは、ソ連を中核とする社会主義陣営の一員となった。
その後、ソ連の支援が必要だとするフィデルとゲバラは対立。
1965年、『決別の手紙』を残してゲバラはついにキューバを出国した。ゲバラが去ったあと、キューバは革命後約30年間にわたり、大きくソ連からの支援などに依存した。
ゲバラはキューバを去ったあと、次の改革を目指して最初はアフリカのコンゴに赴き、その後ボリビアに移りゲリラ戦で戦うも、1967年に捕らえられて処刑された。39歳だった。
このときゲバラ捕獲作戦に関わったのがアメリカのCIAだとされる。
ゲバラ捕獲作戦に関わった元CIAのエージェントのフェリックス・ロドリゲス氏(73)は亡命キューバ人。ロドリゲス氏は今回開催された米州首脳会議にあわせてパナマで行われた会合に出席していているとして、ゲバラ氏の家族や、キューバの市民団体が非難している。
【関連記事】