【VR体験の衝撃】
気が付いたらビルの屋上にいた。
両隣から、降りて大丈夫だと言われる。
勇気を持って足を踏み込もうとしても、足がすくむ。
やっとの思いで足を踏み込むと、何事もなかったことに気づく。
これは、アルツハイマー型認知症の方の体験だ。
実際は、車からの降車場面であり、1段の段差しかない。
私は、VR(バーチャルリアリティ)でこの体験をした。
体験の際、事前情報は知らされない。
VR体験では、頭にゴーグルタイプのモニターとヘッドフォンをつける。
音と映像によって、認知症の方の「世界の見え方や感じ方」を体験できる。
【VR体験の焦点】
認知症の症状は、中核症状と周辺症状に分けられる。
VR体験の焦点は、認知症の中核症状だ。
中核症状は、脳の機能障害そのものによって引き起こされる。
例えば、記憶や判断力の障害、見当識(人・場所・時間の感覚)の障害、失語(言葉の理解・表出の困難さ)、失認(五感の障害)、失行(一連の動作の困難さ)などが挙げられる。
一方、周辺症状は、行動障害と精神症状に分けられる。
行動障害としては、場所や状況が分からず徘徊してしまうことや、排泄物を不適切に扱ってしまうことなどが挙げられる。精神症状には、興奮や怒りやすさ、抑うつなどがある。
中核症状は本人の内面で起こるのに対し、周辺症状は人との関わりの中で現れるものであるため、問題とされやすい。
悲しいことに、周辺症状によって周囲から「迷惑」と言われることがある。
周辺症状は、認知症の方がストレスを感じる場面、すなわち自らの処理能力を超える対処を求められる場面で悪化しやすい。
処理能力は中核症状の影響を受けるため、認知症のケアでは、中核症状を的確に把握し、サポートすることが求められる。
例えば、記憶障害に伴う混乱では、その都度スケジュールを提示することで患者のストレスは緩和される。また、食事中の一連の動作に混乱があれば、コースのように配膳するのも一つの方法だ。
中核症状は、認知症の方しか自覚できない。
ところが、VR体験では、他者も中核症状を体験できる。
VR体験は、本人が抱える生活の困難さを体験でき、適切なサポートを考えるきっかけを与えてくれる。
【VR体験の開発】
認知症VR体験を開発したのは、株式会社シルバーウッド(東京都港区)だ。
代表取締役の下河原忠道さんは、「"認知症の一人称体験"をすることで、認知症のある方の気持ちを理解し、社会の方が変わるきっかけになれば」と言う。
さらに「認知症が問題なのではなく、認知症のある方やその家族が生きづらい社会が問題であり、問題は個人の脳にあるのではなく、人と人との関係性にある」と強調する。
認知症と言えば、一般に重症のイメージが先行しているが、それは偏見である。
実際には軽症から重症までグラデーションがあり、軽症であれば少しのサポートで仕事や社会活動をしている人がいる。
今まで、軽症の認知症は注目されておらず、多くの人はその存在すら知らない。
他方、重症の認知症は絶えず報道され、認知症のイメージが形成されてきた。
下河原さんは、社会の認知症への偏見に気づき、その偏見をなくすために、技術者と協力してVR体験のコンテンツを作成した。
【専門職教育におけるVR体験の導入】
私は、認知症VR体験が、医療・福祉の専門職の教育の助けになると考える。
医療・福祉に携わる方の多くは、認知症について深く学ぶ機会がないまま現場に出る。
教科書には認知症についての記載があるが、表面的な知識しか得られない。
精神科など、認知症の方と関わる機会が多い現場で働けば少しずつ学べるが、そうでなければ自分で学んでいくしかない。
現在、精神科以外の病棟でも認知症の方は多いため、誰にでも学ぶ必要はあるだろう。
認知症ケアにおいては、本人の世界を具体的に想像する「想像力」が求められる。
何故なら、認知症の方が感じる世界を、他者が同じように体験することは出来ないからだ。
しかし、VR体験であれば、認知症の方が感じる世界を体験することが出来る。
認知症の方が、何に不安・不快を感じているのかVR体験できれば、認知症の方の見え方や感じ方を理解することができ、不安・不快なものを軽減するケアを考えられる。
VR体験は、認知症の方が安心できるストレスの少ない環境を整えること、また周囲の人が認知症の方にとって安心と安全を感じられる存在になることが、ケアにおいて大切だということを教えてくれる。
(2017年7月26日医療ガバナンス学会「VRで体験する認知症の方の世界」より転載)