ベネズエラは富裕層エリートvs貧困層では分からない
ベネズエラも他の南米諸国と同じく、ごく少数の超金持ちエリートと、大多数の貧困層がいます。
そのためベネズエラについて考える時、多くの人はまずエリート層vs貧困層という構図に注目します。これらの視点がそのまま間違っているとは言いませんが、今ベネズエラで起きていることは、この見方では理解できません。間の中流層の存在が無視されているからです。
重要なのは、現在ベネズエラで起きている一連の抗議運動の主役が、1%に満たない少数の金持ちエリートでも6割近くいる貧しい人でもなく、残りの4割弱の中産階級という点です。
普通の人にとっての社会主義政権
ベネズエラで中流というと、高校や大学を卒業して仕事を持ち、住む場所があって、洗濯機やテレビ、携帯、ネット環境、自家用車などがあって、働いたお金で子どもの食事や学費も出せて、たまに外食ができて、月末にはお金が少しは残っているような、贅沢は無理でも衣食住+αが満足にできる層のことです。
発展途上国特有の汚職や政治の不正、圧倒的な貧富の差という不平等の問題は昔からありました。しかし、チャベスが政権につくまでは、べネズエラの中流階級の人には、頑張って働けば良い暮らしができ、勉強すればより良い仕事につける可能性があったのです。
ところが、社会主義革命が進められる中で、民間セクターは壊滅状態に陥り、多くの中流層が政府と何らかのコネクションがない場合は生活の向上を望めなくなっていきました。
「それでもベネズエラにはもっと過酷な状況に置かれている人が沢山いる。中流層はまだマシ」という人がいます。確かにその通りですが、中流層の人には貯金なども限られているので、もし仕事がなくなれば飢え、家族を養えなくなり、病気になれば死んでしまいます。
貧困と暴力と
「それでもベネズエラの貧困層の生活は向上した」と言う人がいます。
でもそれは政府が冷蔵庫やテレビをバラまいたりして最悪がちょっとマシになっただけで、必ずしも貧困層が貧困から抜け出したことを意味しません。
ベネズエラの教育省大臣は「政府は貧困をなくす努力はするが、貧困層が中産階級になることは認めない」と言っています。
貧困層も政府からおこぼれを貰うことは認められても、より良い生活を求めることは許されないのです。
ベネズエラで起きているデモの直接のきっかけは女子大生のレイプ未遂事件でしたが、犯罪率の高さと国がその対策を何もしないことに人々は長年腹を立てていました。中産階級も貧困層もこの犯罪率の高さに対して怒っているのは、頑張って働いて得たものを理不尽に奪われても、政府がその暴力から守ってくれないからです。
失うのはお金や物だけではありません。ベネズエラ人の多くが犯罪によって家族や友人を失っています。そしてその比率は貧しいほど高くなるのです。
自分の国で居場所を失うこと
とにかく、中流層の未来が完全に閉ざされているのがベネズエラの現状です。
完全に閉ざされているというのは、ベネズエラ政府はこの中流層を国民の敵だと明言しているからです。
政府が自分の国の中産階級の市民をはっきりと敵視していること。これがベネズエラが他の南米諸国と決定的に違う点です。ブラジルなども貧富の差が激しくデモが起きていますが、中流層は問題を起こす厄介な国民であって、ブラジル国民の敵とは見なされていないでしょう。
べネズエラ人をデモに駆り立てるもう一つの原因に居場所を失った絶望感があります。政府と異なる意見を持ったために、突然、祖国の敵とみなされ、自分の生まれ育った国、慣れ親しんだ生活、愛着のある街、誇りに思う文化などを政府に否定されるのです。これはアイデンティティの問題に関わります。
特に、若い学生には就職先も自立して生活を立てる見通しもなく、デモをしてもしなくても、今の政府が政権についている限り未来はないのです。
だから若者たちはデモに行く
どっちみち未来がないなら、その苛立や怒り、絶望をどこに持っていけばいいでしょうか?
学生たちに残されている選択肢は暴れることです。これにより万が一にも政府が考えを変えれば、未来が開けるかもしれないという一縷ののぞみに賭けているのです。
また、学生が声を上げ暴れるのは、自分の国から文字通り自分の存在を完全に否定され、頑張りたいこと、やりたいことができないこと、そして今声を上げなければ未来永劫、自分は否定され続けることを予感しているからだと思います。
ベネズエラの反政府野党を支持者の間でも、学生の急進的な反政府活動は国内の対立を煽り問題を悪化させると否定的な考えがあります。その批判は一理あると思います。
ただそのような非難をすんなり納得してしまう前に、背後にあるベネズエラの中流層の人々、普通の人達の憤りや不安、絶望に対して想像力を働かせることも重要だと思います。