亡くなった落語家の桂歌丸さんは1936年8月、横浜・真金町の生まれ。幼い頃から祖母が営んでいた妓楼で育った。落語家を目指したのは、祖母の影響が大きかったという。
「芝居や歌舞伎に連れて行ってもらいました。あたしが噺家(はなしか)を真剣に目指すようになったのも、遊郭の女性たちの慰労会で生の落語を聞けたことが大きかったんです」
(朝日新聞 2011年10月06日朝刊)
そんな歌丸さんも、太平洋戦争を経験。横浜から地方へ疎開し、9歳で終戦を迎えた。
1945年8月15日、疎開先でラジオから流れてきた玉音放送を聴いた時のことをこう語っている。
「今でも覚えていますよ。えらい暑い日でね。戦争に負けたと聞いてほっとした。しめた、横浜に帰れるって思ったんですよ」
(朝日新聞 2015年10月19日朝刊)
そうして迎えに来た祖母とともに帰った横浜は、一面の焼け野原だった。
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■「あんなものは愚の骨頂」歌丸さんが戦後70年の節目に語ったこと
戦争を経験した世代として、いかにして平和の尊さを後世に伝えていくべきか。
戦後70年となった2015年、歌丸さんはNHKのインタビューにこう語っている。
「人にそんなこと(戦争について)伝えられません。それは個々に感じることです。自分自身で経験して自分自身で判断しているんです」
「伝えていくべきだとは思いますけれども、話をしただけでは分かってくれないですよね。食糧難時代というものがどういうもんだったのか。あるいは焼夷弾というものがどういう落ち方をして、爆弾というものがどういうふうに落ちたのか。そして進駐軍というのが戦後になって乗り込んできてどういう思いをしたのか」
「口では言えますけれども、ご存じないからそれは身を持って体験することはできません。けれども伝えていくべきだと思います、私は」
戦争を経験した世代は「道の雑草を摘んできて食べて命つないでた」と、歌丸さんは当時の過酷な生活を語った。
ただ、「話をしただけでは分かってくれない」。そんな危機感が、言葉の端々から感じられる。
「決して忘れてはいけないこと。日本は二度と再びああいう戦争は起こしてもらいたくないと思いますね。あんなものは愚の骨頂です。世界中が本当の平和にならなきゃいけない時代が早くこなくちゃならないと思っていますね」
「子どもさんたちに難しいことかもわかりませんけれども、簡単に言えば、戦争、人間同士の争いというもの、あるいは国同士の争いというものこういうものは決してやるもんじゃないということを感じてもらいたいですよね。本当にいやな思いをしましたんでね」
戦争の悲惨さや愚かさを、後世にどう伝えていくべきか。歌丸さんは「お父さん、お母さん」の役割が大きいと説く。
「お父さんとお母さんに私はお願いしておきたいんだ。子どもさんにこういう悲惨なことを伝えていってよく聞かせてやって頂きたい」
「今のお父さんやお母さんは年が若いんで経験がないと思います。でもおじいさんおばあさんがいたらば、おじいさんおばあさんに、孫にあるいはひ孫に日本はこうだったんだああだったんだっていうのをきちんと伝えていってもらいたいと思います」
「そしてあまり平和に慣れ過ぎないように。これでいいんだと思わないように。苦労というものが人間には必ずあるんだということ、これを心に留めておいてもらいたいですね。だから子どもさんがどの方の意見を選ぼうがかまいませんけれどもよくかみしめて頂きたいと思います」
■心から「笑い」を楽しめる幸せを、いま噛み締めたい
歌丸さんが「決してやるもんじゃない」と語った戦争。先の大戦は、落語にも暗い影を落とした。
全てが戦争に動員された時代、男女の仲や人間の業を描いた落語は不謹慎だとされた。遊郭を題材にした廓噺や艶笑噺は、「風俗を乱す」などの理由で自粛を求める声が強まっていた。
1941年、落語家たちは浅草・本法寺に「はなし塚」という塚を建立。53演目の「禁演落語」を葬った。その中には「明烏」「五人廻し」「木乃伊取り」「居残り佐平次」「錦の袈裟」など、数々の名作が含まれた。
終戦翌年の1946年9月、禁演落語は「禁演落語復活祭」で甦った。当時、本法寺の住職は「山河亡びたる邦国の民に真の笑ひを」と述べたという。
歌丸さんは生前、こんな言葉を残している。
「文化に国境はない」
(会長メッセージ|落語芸術協会より)
心から「笑い」を楽しめる幸せを、いま噛み締めたい。