1945年8月9日午前11時2分、長崎市上空550メートルに巨大な火の玉が発生した。米軍が投下した原爆「ファットマン」が爆発したのだ。同年12月末までの死者数は約7万人に上った。
同市浦上(うらかみ)地区のカトリック教会の浦上天主堂は、爆心地から北東500メートルの地点だった。
1914年に完成した石と煉瓦づくりのロマネスク様式大聖堂は、高さ25メートルの双塔の鐘楼を備え、「東洋一の大聖堂」と謳われていた。しかし原爆投下の結果、一瞬にして崩壊。一部の外壁だけが残された。鐘楼の一つは北側の川まで吹き飛ばされたという。
長崎市長の諮問機関である原爆資料保存委員会が1949年に発足した。この委員会は毎年9回に渡り「浦上天主堂を保存すべき」と答申を出していた。51年に当選した田川務市長も保存に前向きだった。
しかし、長崎市は1955年にアメリカのセントポールと、日本と海外では初の姉妹都市提携をした。これを受けて訪米して以降、対米関係を重視して浦上天主堂の消極姿勢になった。以下は、田川市長の1958年2月の臨時議会での言葉だ。
「この資料をもってしては原爆の悲惨を証明すべき資料には絶対にならない、のみならず、平和を守るために必要不可欠な品物ではないというこういう観点に立って、将来といえども多額の市費を投じてこれを残すという考えは持っておりません」
カトリック教会も天主堂の保存を望んでいなかった。被爆した浦上天主堂の遺構は1958年3月14日に撤去され、新しい天主堂が翌年10月に完成した。外壁の一部だけが爆心地公園に移築された。
■「今残っていたら世界遺産だった」
当時、浦上天主堂の保存を訴えていた岩口夏夫・元市議は、ノンフィクション作家の高瀬毅さんの取材に以下のように振り返っている。
「本当にいま残っておったら世界遺産だったはずです。悔やまれてならんと、ほんとうに。あれは二十世紀の十字架です。人類の愚かさを教えてくれるものだった。キリスト教を信じとる国が、おなじカトリックの信者のおる浦上の真上に原爆を落とした。まるで作り話のような物語性をもった世界遺産になったとではないですか」
(文春文庫『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』より)