2011年に発生した東日本大震災の被災地の一つである、宮城県南三陸町の志津川地区。震災から10年が経とうとしている今も、現在進行形で新しいまちづくりが進んでいます。
その復興の道のりを支えてきたのが、UR都市機構です。
震災までの暮らしと、震災後10年で見えてきた、新しい暮らし。南三陸のこれまでとこれからを伝える連載の【後編】では、復興を支えてきた担い手たちに話を聞きました。
「新たなビジネスなくして、街の『復興』はない」
南三陸町南部の戸倉地区で30年以上カキ養殖業を営む後藤清広さん。震災により、養殖用の筏(いかだ)も、漁船も、住まいも暮らしも、一瞬にして全てを失い、「何もする気になれなかった。もう海を生業(なりわい)にはできないだろうと覚悟した」と振り返ります。
「何もかもなくなったので、人生がリセットされたんだと思えた。今まで働きづめだったけど、立ち止まったら、新しい景色が見えたんです」
「1年後、カキが獲れるかどうかもわからない。かといって、今までのように過密養殖を続けていては海の環境が悪化する一方。ゼロからのスタートができるのは最初で最後のチャンスと腹を括り、20、30年後を見越した持続可能で、かつ品質の高いカキを生産する方法を模索しました」
震災前は1000台以上並んでいた筏を300台まで減らし、養殖を再開。すると、今まで 3年待っても15グラムにしかならなかったカキが、たった4ヶ月で20グラムに成長したそう。「質が良ければ、値段も上がる。生産量も売上も、5年で震災前を上回ることができました」
持続可能な生産の手法は国際的にも評価され、2016年3月、戸倉カキ部会は二枚貝では日本初となるASC(国際環境認証)を受けました。
長年、志津川地区のビジネスを見てきた後藤さんは、この10年での変化をこう話します。「持続可能な生産に切り替えることで、働き方改革にもつながり、将来性に魅力を感じてくれる若い世代が増えた。さらに、この街への移住者がハブとなって、水産業、農業、畜産業、観光業...様々な産業がつながり、新しいビジネスのきっかけにもなっている。いつも刺激を受けて、はっとさせられるんです」
その移住者の一人が、志津川地区でワイナリーを営む佐々木道彦さんです。
佐々木さんは静岡で働きながら、ボランティアとして被災地に通い続けるうちに「インフラが整備されて『復旧』が進んでも、そこにできた暮らしに新たなビジネスを作り、既存産業を盛り上げていかなければ、まちの真の『復興』にはならない」と危機感を覚え、2014年に宮城県へ移住。新たな勤務先となった仙台の会社で、人気のワイン漫画『神の雫』の原作者・亜樹直(あぎ・ただし)さんとともにワイングラスの商品開発を手掛けたことが転機になりました。
「ワイングラスって、ペアで買われることが多いんです。ワインは、人をつなぐお酒なんですよね。それに水を一切使わないので、素材の良さがそのまま生きる。地域の人、産業をつなぐワインは、新たな特産にするにはもってこいだと思いました」
仙台のワイナリーでの修行を経て、2019年に地域おこし協力隊として南三陸町へ移住。今年10月、復興を支えてきたプレハブの水産加工場を改修し、「南三陸ワイナリー」をオープンしました。
「海と山が近くて食材豊富な上、新しいことに挑戦しようとする生産者がたくさんいて、可能性があるまち。ワインをきっかけに、食と、人と、アイデアが集う場を作り、真の意味での“にぎわい”を生み出したい」
南三陸ワイナリーでは、耕作放棄地や遊休地を利用してぶどう栽培をしています。新たに畜産を始めた移住者や、後藤さんのように古くからこの地域を支えてきた生産者と協力して「食」にまつわるイベントを開催したり、志津川湾にボトルを沈めて「海中熟成ワイン」に挑戦したり。佐々木さんは、南三陸の新しい一面を見つけ、発信していくことが狙いだと話します。
「真の意味での『復興』は道半ば。『復旧』に10年はかかると思っていましたからね、ここからがスタートなんです。南三陸をもっともっと面白いまちに、人が集まるまちにしていきたいです」
震災10年。変わるものと、変わらないもの
2020年10月に完成した「震災復興祈念公園」もまた、町内外から人が集う、大切な場所になっています。
町民に向け、懸命に避難を呼びかけ続けた職員が犠牲となった、旧防災対策庁舎が残されるこの場所。犠牲者の追悼、そして津波の記憶と教訓を継承する場として、UR都市機構が南三陸町から委託を受け、整備をおこないました。
10年間で新しいまちづくりが進む中、「変わるもの」「変わらないもの」とは? 南三陸町役場の及川明さんに聞きました。
「南三陸では、生業と住まいがとても密接につながっています。だからこそ、『住まい』を最重視したまちづくりを、復興の指針としました」
南三陸町が掲げた、新しいまちづくりの目標は3つ。
・安心して暮らし続けられるまちづくり
・自然と共生するまちづくり
・生業とにぎわいのまちづくり
津波から命を守ることを最優先に考えた、住宅地の高台への移設。その一方で、震災前の居住地ごとのコミュニティを大切に守っていくために、町民の声に耳を傾けながら、新しいまちづくりが描かれていきました。
「『住んでいた場所に戻りたい』『〇〇さんの近くに住みたい』という声がとても多かった。そこで、URさんの支援で災害公営住宅が整備される際には、なるべく元々のコミュニティを守りながら、住まう人が一番快適なかたちで暮らせるよう、避難所、仮設住宅を訪問して、町民にヒアリングをしました」
未曾有の大規模災害によって住まいと暮らしを失った街で、被災前以上の発展と、安心・安全を実現するまちづくりを担う中、URは「なくてはならなかった存在」と及川さんは話します。
「未曾有の状況で、何から手をつけたら良いかわからない私たちに、新しい街と暮らしを描く道筋を示してくれました。2013年にはURの南三陸復興支援事務所が開所。高台移転や盛り土によるかさ上げ、災害公営住宅の整備など、安全の住まいから、新しい暮らしをつくり、コミュニティやにぎわいを創出するというところまで、URさんにまちづくり全体の支援を受けてきました」
震災から10年の節目、「復興・創生期間」の終了に伴い、URが行ってきた南三陸町での復興支援事業も終了を迎えます。
東京から南三陸に赴任し、新たなまちづくりに携わってきたURの沖山観介さんは、「個人的には、南三陸の暮らしを今後も、応援していきたい」と話します。
「東日本大震災被災地での復興事業は、規模が大きい上、1日も早く快適な住まいと暮らしを提供することが求められるため、南三陸事務所復興支援事務所だけでも延べ100人を超えるUR職員が復興事業に携わり、あらゆるノウハウを最大限に活用して取り組んできました」
高台に住宅地を移転すると、およそ60haの低地から人がいなくなってしまいます。そういった人が住まない場所でのまちづくりでしたので、もともと海岸沿いに住んでいた人たちからは「自分の土地は使い道はどうしたらいいのだろうか」という不安の声も。URの震災復興事業は、住まいと暮らしの基盤を整えることだけでなく、行政や住民だけでは解決することができない、土地活用のサポート、住民との調整も大切な役目となっていました。
「生業と暮らしと自然。この3つが密接に結びついている地域。これまでは、物理的にも密接な関係であったところ、暮らしを全て高台に移したことで、にぎわいを低地部に生み出す仕掛けが必要だった。そこで、さんさん商店街に代表される町内外からの人が集まる交流の拠点を作り、そこから中橋を渡って回遊できる復興祈念公園を整備することになりました」
また、多様な世代が生き生き暮らし続けられる環境づくりを意識し、災害公営住宅では、入居者の属性に合わせた施設やコミュニティづくりも推進。
阪神・淡路大震災をはじめとする被災地復興支援の経験や、都市開発、団地での快適な住まいと暮らしづくりのノウハウ。そして、国や自治体とそこに暮らす人々の橋渡し役としてのURならではの強みを生かし、この10年、東日本大震災の被災地各所で、復興の支援をおこなってきました。
「無事に復興祈念公園が完成し、住宅地の造成工事も終わり、まさに南三陸町にバトンタッチをしたところです。これからはこの町のみなさんが自らの手で、新しい暮らしをつくっていく姿を見ることができれば」
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東日本大震災からまもなく10年。南三陸町での復興支援事業は終了しますが、ここからが本当のスタートです。
URが目指すのは、そこに住まう人の手によって、これからも街が育つ、発展していくまちづくり。これからの南三陸町では、どんな新しい暮らしが待っているのでしょうか?