地震、台風、豪雨、火山噴火...私たちは、さまざまなリスクと隣り合わせの「災害大国」に暮らしています。
いつ、どこで、何が起きるか分からないからこそ、自然災害に備えた安心・安全のまちづくりが強く求められているのです。
2011年に発生した東日本大震災の被災地の一つである、宮城県南三陸町の志津川地区。ここでは、震災から10年が経とうとしている今も、現在進行形で新しいまちづくりが進んでいます。
その復興の道のりを支えてきたのが、UR都市機構です。
震災までの暮らしと、震災後10年で見えてきた、新しい暮らし。南三陸のこれまでとこれからを2回の連載で伝えます。
あの日、いつもの暮らしが一瞬で失われた
世界でも有数の災害大国と言われる日本。近年は、気候変動による風水害の発生リスクが増していると度々報じられていますが、一方で、地震が非常に多い国でもあります。日本の地震発生頻度は世界4位、2009年から10年間の統計によると、少なくとも年に1,000回以上の地震が発生しています(※)。
いつ、どこで、何が起きるかわからない──。
私たちの、災害に対する意識を大きく変えたのが、2011年3月11日に発生した東日本大震災でした。
日本の観測史上最大規模、マグニチュード9.0の大地震と、それに伴う津波。東北地方の太平洋岸では、そこにあった、いつもの暮らし、当たり前の景色が、一瞬で失われたのです。
阪神・淡路大震災や、新潟県中越地震発生時にも、【震災復興事業】として復旧・復興支援をおこなってきたUR都市機構。その経験を生かし、東日本大震災の多くの被災地で、自治体や住民とともに復興の道のりを歩んできました。
宮城県南三陸町も、その一つです。
震災から10年、どのような街と暮らしを目指して歩んできたのでしょうか。まずは、南三陸の暮らしを作り上げてきた「これまで」を見てみましょう。
全て失ったからこそ、見えた景色
宮城県北東部の沿岸地域、南三陸町。三陸の海は、ノルウェー沖、カナダ・ニューファンドランド島沖と並んで「世界三大漁場」と呼ばれており、カキ、ホヤ、ワカメの養殖や、タコ漁獲による水産業は全国的に有名です。また、江戸時代から続く良質な「南三陸杉」による林業、そして、コメや肉用牛などの畜産農業。地域の特性である自然の恵みを生かし、多様な産業が古くから営まれてきました。
中でも、南三陸町南部の戸倉地区は、山に挟まれた小さな浜をいくつも持ち、震災前は年間12億円の水揚げを誇る水産の町の中核地域でした。
この地域に生まれ育ち、30年以上カキ養殖業を営む後藤清広さん。南三陸の水産業の発展、そして暮らしのために、長年、生産量の拡大を常に追求し続けてきたと言います。
「今思い返すと、自然の恵みで生活させてもらっていることを、忘れていたのかもしれない。いつの間にか私たちの生業(なりわい)は、自然に負担をかけるものになってしまっていた」
生産量を求め、養殖用の筏(いかだ)が過密なほどに張り巡らされるようになると、それまで2年で収穫できていたカキの成長に、3年かかるようになってしまったそうです。こうなると悪循環に陥り、その年の生産量が減ってしまうためさらに筏が増やされ、海の栄養分は枯渇し、しまいには「県内で一番品質が悪い」と酷評されるほどになってしまったと言います。
「今年の生産量を増やすこと、自分たちの暮らしを守ることで精一杯。若者にとっての魅力もなく、後継者不足にも悩まされました」
東日本大震災が戸倉地区を襲ったのは、ちょうどこの頃でした。
過密なほどに並んだ筏も、漁船も、住まいも暮らしも、さっきまでの「当たり前」を一瞬で失う経験を、想像できるでしょうか? 後藤さんは「何もする気になれなかった。しばらくは何もせず、とにかく生きることに精一杯だった」と振り返ります。
「今まで働きづめだったけれど初めてゆっくり考える時間ができた。何もかもなくなったので、人生がリセットされたんだと思えた。立ち止まったら、新しい景色が見えたんです」
後藤さんは震災から2ヶ月経った頃、再び前を向いて歩き始めました。
自然の恵みと、脅威とともに生きる街
南三陸町役場の及川明さんも、街の「これまで」をよく知る一人。南三陸の特徴を、「住民同士のつながり、コミュニティの結びつきが非常に強い地域。自然資源を活用し、環境や時代の変化に応じたさまざまな産業を営みながら発展してきました」と話します。
湾の奥に行くほど狭くなるリアス式海岸の地形は、津波の被害を受けやすいため、この地域に暮らす人々は防災意識が高いと言われていました。「1960年のチリ地震など、世代によっては3回の津波を経験している、まさに自然の恵みと脅威とともに生きてきた地域。毎年防災訓練も実施し、災害に強いまちづくりができていると思っていた」と及川さん。
先人たちの教えから、海岸には防潮堤が設けられていたものの、東日本大震災では想定をはるかに超える20mの津波が街を襲いました。
「それだけ備えていても、災害は防ぎようがないことを改めて思い知った。南三陸の暮らしは、自然の恵みに支えられているからこそ、自然を正しく恐れ、その脅威とともに生きていかなければいけない」
発災直後の復旧は、まずは「がれき」の処理。次に道路やインフラの整備が始まりました。そして、「住まい」を重視した新しいまちづくりのスタートラインに立ったのです。
「安全性を考えたら、住宅地を高台に移すことが最優先。しかし水産業に携わる人が多いこの地域では、海岸沿いが生業の場であり、住まう場所でもある。だからこそ、町民みなさんの声を聞き、自然とともにある産業、住まい、暮らしを最も安全で快適な形にできるような復興を目指した」と話します。
発災から半年も経たないうちに、UR都市機構の職員が町役場の一員として加わり、復興のサポートを始めたそうです。及川さんは「役場には建築関係に詳しい技術者が特に少ない。地域資源をどのように活用し、町民の要望を叶えながら、安全・安心のまちづくりをしてくのか、URさんの長年のノウハウに支えてもらった。なくてはならない存在です」と笑顔を見せます。
復興は、まだ道半ば。それでも、全国からの視察が絶えないと言います。
「これだけの災害を経験したからこそ、伝えられることがある。自然の脅威に備えてどんなまちづくりができるのか、そのモデルケースになれたら」
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UR都市機構のサポートを受けて始まった、南三陸での新しいまちづくり。
10年の道のりを経て、どのような街が、どのような暮らしが作り上げられてきたのでしょうか?
南三陸の現在の姿を、【後編】で伝えます。