エレベーターを利用しようとするとき、階段やエスカレーターを利用するよりも遠回りをしなければならなかった経験はありますか?
車いすを使用される方々からは、
同じ目的地にたどり着くのにも、エレベーターを利用するために遠回りしなければならず、時間もかかりとてもストレスになる。
との声を多々聴きます。
欧米では、エレベーターを利用することで遠回りにならないように、当たり前に整備されている場所が多いとのことです。
文京区長は、「かすかな木漏れ日であっても、日の光の当たらないところに日の光を当てるのが政治の基本」としています。しかし、文京区は、エレベーターを利用する子どもに遠回りさせる学校の建て替えを計画しており、本来であれば、そうした計画にストップをかけるべき福祉部でさえもが、「しかたない」という見解です。
マイノリティに我慢を強いるような、共生社会の実現とは真逆の状況について提議します。
文京区教育委員会は、明化小学校、柳町小学校の2校の建替えにむけた実施設計を行っています。エレベーターが下駄箱近くの階段から離れた場所に設置されていることから、エレベーターを利用する児童は遠回りをしなければならない設計です。
車いすを使用する子どもの保護者は、
後付けでエレベーターを設置するならまだしも、ゼロからの設計で、エレベーターを利用する子どもを遠回りさせるような設計なんてありえない。
自分だけ別ルートに行かなければならないことが、どれほど疎外感を味わうか、まったくわかっていない。
と憤っています。
憤りは、わがままなことでしょうか?
「とりあえず、エレベーターはつくのだから、遠回りしたってしょうがない」と思われますか?
憤りを感じて当然です。遠回りを強いることも間違っています。
区は、高齢者や障害者、子ども、外国人など多様なニーズを視野に入れて、「利用者本意、人間本意」の考え方に立った設計をすることが使命だからです。
根拠のひとつには、2年後のオリンピック・パラリンピックの開催地となる東京都が、施設整備を行う際のユニバーサルデザインガイドラインを作成していることがあげられます。
ガイドラインでは、「公平に誰もが同じように施設や設備を利用できるようにすること」を求めています。
- 基本的にだれもが同じ動線で利用できる経路となっている(特別な経路を設定していない)
- だれもが差別感や疎外感を感じることなく、利用できるようになっている
東京都ユニバーサルデザインガイドライン http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/kiban/machizukuri/kanren/guideline.files/p4-5.pdf
オリンピック憲章は、いかなる差別も禁止しており、当然の指針です。
文京区はこうした視点を持ち、設計をしなければなりません。が、今回の小学校建替えの設計打ち合わせ議事録からは一切、そうしたユニバーサルデザインの視点は見えてきません。
それでも、教育委員会は、バリアフリーに考慮していると胸を張ります。
障害の有無にかかわらず、同じ正門から登校して、同じ出入口を通り、同じ下駄箱を使ってエントランスホールに入り、そこから階段を使う児童と、エレベーターが必要な児童に分かれるだけ。下駄箱まで同じルートにしているのだから、そこから別ルートでも問題なし。
との主張です。
同じ正門、出入り口、下駄箱は当たり前です。それで十分のように考えているのは、間違っています。
明化小学校・柳町小学校の現段階の設計では、エレベーターは、それぞれ入り口近くの階段から離れたホールを通り抜けた奥に設置されており、かつ、ホールを使用しているときには他のルートをまわるか、行事等が行われている中を通らなければならない設計になっています。
明化小と柳町小の設計図: http://a-kaizu.net/blog/wp-content/uploads/2018/06/tatekaesekkeizu_meikashou_yanagichoushou.pdf
区には、「同じルートを通れないぐらいで、差別感や疎外感など感じるはずがない」という根拠のない確信があるのでしょうか? 子どもを傷つけてしまうかもしれない心配や不安等、想像力がまったく見えてきません。
文京区は基本構想を貫く理念として次のように掲げています。
だれもがいきいきと暮らせるまち
子ども、高齢者、障害者、外国人をはじめ、地域社会を構成するさまざまな人たちが人権を尊重し、互いの立場を思いやりながら行動するとともに、男女が性別にかかわりなく平等な立場で、社会のあらゆる分野へ参画することによって、一人ひとりが個性豊かにいきいきと暮らせるまちを目指します。
基本構想とは、「地方自治体が事務処理を進めるために最も基本とする計画」です。
このようなまちづくりを目指す文京区の、次代を担っていく子どもたちに提供する教育のあり方として、果たしてふさわしい環境整備でしょうか?
明化小で60億円超、柳町小で70億円超の建築費をかけての建替えです。多額の税金をかけて、今後、50年以上使い続ける間中、ずっと、「障害のある人は、別に分けて良いのだ」と、子どもたちに植え付けていくことになりかねません。
問題を感じているのは、全国の障害当事者団体97が加盟する「DPI(障害者インターナショナル)日本会議」も同じです。
DPIは、障害の有無によって分け隔てのない共生社会を実現するためには、障害の有無によって場を分けない整備が重要であることから、出来るだけ同じルートで移動できるようにと、「明化小学校・柳町小学校のエレベーターの設置位置を見直し、階段近くに設置することを求める」要望書を、文京区と文京区議会に提出しました。
文教委員会でDPIの要望書についての対応を質疑したところ、
「ホールの脇には廊下等を整備するから、それでホールを通り抜けてエレベーターに行く問題は解決する」とだけの答弁です。
エレベーターを利用する子どもに対して、遠回りを強いてしまう計画を解決する答弁はありません。むしろエレベーターをつけたのだから「我慢してほしい」という思いが見えました。何度も書きますが、「動線を分けてしまう」こと自体が問題なのです。区には、そこが見えていないのです。
障害のある人たちから聴こえてくる思いを紹介します。
役所は一生懸命、障害のある人の《ため》にやっていると言うけれど、結果は、障害のある私たちの《ため》になっていない。
《ため》にと言うのは、《とりあえずやっています》という言い訳に過ぎないのです。
当事者の声や思いに耳を傾けず、自分たちの都合や想像だけで進めてしまう。その結果です。
障害のある子どもの《ため》のエレベーターも「付ければ良い」のではないのです。《ために》ではなく、《ともに》考えることが不可欠だと思えてなりません。
柳町小の現段階の設計ですと、音楽室や家庭科室等を地域住民に開放する際には、エレベーターを使用できないのが前提です。仮に、エレベーターを利用するには、いちいち事前に申し込みをして、シャッターの開け閉めをしてもらう必要があります。
なぜ、エレベーターを利用するだけで、通常の利用にはない負担がかけられてしまうのでしょうか。納得できることではありません。
障害者権利条約には、
一般住民向けの地域社会サービス及び施設が、障害者にとって、他の者との平等を基礎として利用可能であり、かつ、障害者のニーズに対応していること。
とあります。
地域開放で、エレベーターを利用しない人にはかからない負荷を背負わなければならないような設計もまた、悪意があってのことではないにしろ、結果的には、障害等でエレベーターを利用する人を排除、あるいは、分けてしまう設計になってしまいます。障害のある人の《ため》にはなっていないのです。
DPI日本会議のホームページ( http://dpi-japan.org/ )には、以下の記載があります。
障害のある人は、障害のない人が遭遇しないはずの様々な壁にぶつかっています。この壁が、障害のある人とない人を遠ざけ、無理解や偏見を助長しているのです。この「見えない壁」を一緒に壊していきませんか。
おおいに共感します。
大人の世界には、残念ながらこの「見えない壁」がそこかしこに存在し、無理解や偏見が溢れてしまっているのかも知れません。そして、それを壊していくのは容易ではない。それでも、そこを目指していくのが、文京区が基本構想に掲げる理念であるはずです。
ましてや、まだ、無理解や偏見等、色に染まっていない子どもたちの育ちの場である学校に、この「見えない壁」を新たに作ってしまうことなど、絶対にあってはならない、私たち大人の「最低限の責務」だと強く思います。
役所の、基本構想の理念を捻じ曲げるようなありようは、自ら掲げた看板に泥を塗るようなものであり、公務員の信頼を失墜させる行為にあたるように感じてなりません。
すべての区民が「だれもが同じように」「容易に」「危険なく」「使い勝手よく」「快適」に社会参加できる施設整備を求めていきます。