マンションの屋上から飛び降り自殺を図ったものの、九死に一生を得たトランスジェンダーの女性がいる。
東京都在住のモカさん(本名・亀井有希、33歳)。
一時は死ぬことばかり考えていたが、奇跡の生還をきっかけにインターネットで無料の人生相談に応じるようになった。彼女の壮絶な半生を紹介する。
マンション屋上から飛び降りた
晴れ間が広がる清々しい朝だった。
2015年10月。29歳のモカさんは都内にある12階建てマンションの屋上に立っていた。
直前、大好きなニルヴァーナの「All Apologies」などを聴いた。気分はよかった。
大量の精神安定剤を飲んでいたので感覚はふわふわとしていた。
「もう、何も心配事はない」
モカさんは助走をつけて一気に飛び降りた。
だが、モカさんは死ななかった。
マンション下に止めてあった車の上に落下し、一命を取り留めた。
「痛い。痛い」。車のボンネットの上でモカさんは叫んだ。
転落の大きな音を聞きつけたマンションの管理人らが駆けつけ、救急車で運ばれた。
腕や背中、胸の骨が折れるなどの大けがを負った。
転落時の記憶はない。のちになって人づてに聞いた。
「あれ、生きてる。信じられない」
意識が戻ったとき、モカさんはすでに病院のベッドの上だった。傍らには母がいて悲しんでいた。
体中が痛く、毎日叫んだ。
「苦しい。死にたい」
窓から飛び降りてやろうとも思ったが、体は動かなかった。
「『痛い』って、自分のせいでしょ」
看護師らは厳しかった。
「もうこれ以上、逃げられない」
やがてモカさんは死ぬことをあきらめた。
「痛みや苦しみを思うより、楽しいことに目を向けよう」
12月に退院したモカさんは、新たな「人生」をスタートさせることになる。
15歳で女性ホルモン摂取
モカさんは3歳ごろから漠然と女の子になりたいという思いがあった。中学生になると、自分の性に違和感を強めた。
「プールの授業で、ゴツゴツとした毛深い男子たちの体を見て、自分はそうなりたくないと思ったんです」
女性になりたいという気持ちは抑えられなくなった。
中学3年だった15歳のとき、インターネットの通販サイトで女性ホルモンが摂取できる錠剤を取り寄せて服用を始めた。
「15歳で女性ホルモンを摂取したらどうなるのか。ネットで調べてもわかりませんでした。たとえ病気になっても構わない。覚悟を決めて服用をはじめました。とにかく女性になりたかったんです」
それから間もなくして、テレビでドラマ「金八先生」の新シリーズが始まった。
上戸彩さんが演じる性同一性障害の生徒が登場した。
「これは私だ」
モカさんは番組を見て、初めて自分が何者であるかを知った。
女性ホルモンの影響で体型が徐々に変わった。全体的に脂肪がついて体が丸みを帯び、胸が大きくなっていった。
「Tシャツを着たら胸が大きくなっているのがわかる」
そんな理由から、夏が来る前に家族に打ち明けることにした。
両親は困惑したが、2人の弟は「あ、そうなんだ」とすんなり受け入れた。
通信制の高校に入り、性的少数者が集う「新宿二丁目」に通うようになった。
一方で、インターネットで個人サイトを作り、「性別があいまいな人」として自分を売り出した。
「オフ会」を開いて夜遊びに明け暮れる日々。18歳になると飲み屋でアルバイトも始めた。
スカートなど女性用の服を着て接客をした。当時、若い子で女装をする人はまだ少なく、モカさんは先駆けだった。
20歳のころ。いったんデザイン会社に入ったが、10カ月で退職。その代わり、自分と同じように性別の不一致に悩む人たちのための活動を始めた。
女装イベント「プロパガンダ」だ。新宿・歌舞伎町の真ん中に立つビルのフロアを貸し切って月1回、開いた。
イベントは盛況で、モカさんは運営会社を設立した。
23歳のころ、稼いだ金でタイに渡り、性別適合手術を受けた。
「男性器を見るたび、自分が男性だということを思い知らされるのが嫌でした」
モカさんは当時の苦しい思いを明かす。手術費用は160万円。術後は強烈な痛みに襲われたが、念願の女性になれたことで後悔はなかった。
不思議なことがあった。
「あれだけ女性になることをこだわっていたのに、いざ女性になってみると、男とか女とか、性別のこだわりがなくなりました。人として向き合えるようになり、男性とも女性ともお付き合いするようになったんです」
この数年後、戸籍上の性別も女性に変更した。
成功の影で
事業は拡大し、もう1つの夢だった漫画家にもなることができた。
充実した日々を過ごしたが、心と体は次第に悲鳴を上げていった。
疲労がたまり、うつ病に陥った。気持ちの浮き沈みが激しくなり、精神安定剤が欠かせなくなった。
「ずっと死にたいと思っていました。念願の漫画家にもなれたし、やりたいことをやった。収入も安定している。燃え尽きた感じでした。死にたいという気持ちが5年ぐらい続いたら本当に死のうと思ったんです」
マンションから飛び降りる前夜。親しい友人たちには電話で別れを告げたり、メールを送ったりした。
あわてて駆けつけてくれた人たちもいたが、モカさんの気持ちは変わらず、朝を迎えた。
再生
九死に一生を得たモカさんは、ポジティブに生きることを決めた。
「あのとき自分に必要だったことを、これから他の人にしてあげたい」
インターネットで人生相談を受け付けるようになった。
実際に会ったり、ネットのビデオ通話で話したりして、性別や年齢に関係なく相談に乗っている。
性的少数者たちからの悩み相談も多い。
モカさんはこのほど、壮絶な半生を著書「12階から飛び降りて一度死んだ私が伝えたいこと」(光文社)にまとめた。
モカさんは静かに言った。
「私にとって社会とは、戦い続け、戦い抜かなければならない世界でした。自分が追いつめられた経験が、ほかの人の役に立てたらうれしい」