伝統とは何か。
私が学んでいるのは「伝統武術」です。
これの意味するところは、長い年月で磨かれ、あるいは淘汰され、歴史を紡いできた達人たちによって「これは良し」とされ続けてきた「純粋なる結晶」です。
人類が歴史的時間の中で営々と実践してきたディープ・ラーニング、それが「伝統」です。
「伝統」が「伝統」であるというだけでは、正しいという保証にはなりません。
ディープ・ラーニングが結果でしかその正しさを証明できないように、伝統武術も「使えなければ意味がない」という厳然たる現実と向き合わなければなりません。
さらに、これまたディープ・ラーニング同様、伝統にも「ゆらぎ」があります。
師匠の教えを本当にすべて弟子が受け継げたかどうか。
保証はありません。
外見だけそれっぽくやってるだけで、目に見えない肝心なところが抜け落ちてしまってるかもしれません。
さらには、ある日突然、それまでの伝統を上回る「最適解」が誕生するかもしれません。
アルファ碁がこれに当たりますし、あるいは意拳はそのようなものかもしれません。
こういう新たな最適解が生まれてしまうと、「昔からやってることだから」というだけの伝統性は意味のないものになります。
こういう「新型最適解」が爆誕する可能性は常にあるとはいえ、私たち個々人が学ぶにあたって、営々たる歴史により積み重ねられた解を上回る「新型最適解」を、何もないところから発見する可能性は限りなくゼロに近い。
だから私たちは、まずは伝統を「信頼」して、歴史が醸成した解を学ぶのです。
武術は「使えなければ無意味」という現実があるため、「形骸化した伝統」に陥ることはある程度防げるかと思います(それでもそういうことはありますが)。
神事や文化的儀式の場合、はたしてどうか。専門外なので軽々には論評できません。
ただ、以前に韓氏意拳学会会長の光岡英稔先生から「五体投地」(チベット仏教などで行われる、全身を地面に投げ出す拝礼法)を教えていただいて、神事の所作であっても、やはり「歴史的スケールのディープ・ラーニング」によって醸成された身体的行為であることが実感できました。
いずれにせよ、伝統の正しさは、それを受け継ぐ人間・人間・また人間が「これは良し」という承認を与え続けることによって保証されるものであるということです。
さて長々と前振りをしましたが、件の「土俵に女性は上がってはならない」という"伝統"についてです。
もしこの伝統を厳守していたら、多々見良三・舞鶴市長の命が失われていた可能性が高い。
この一点によって、歴史上のこの時点で「これは良し」という承認を与えることはできなくなりました。
見直すべきだと思います。
Q.E.D.
もし中国伝統武術、そしてその現代的意味を私と一緒に学びたい...というお考えの方がおりましたら。毎週日曜日18:00より、主に高島平温水プール多目的室で行っている「高島平カンフークラブ」を、ぜひ見学に来てください^^