男性中心社会・不妊治療・「ダメな私」。 キャスター長野智子さんは、どう闘ってきたのか?

"無敵"な女性に見える、長野智子さん。しかし、その人生にはたくさんの困難があった。
長野智子さん
長野智子さん
Junichi Shibuya

女性にも男性並みに長時間働いて「活躍」してほしい。でも少子化は困るから、結婚をして子供も産んで、母親としてたっぷり愛情も注ぎなさい。

今の日本には、女性を引き裂くプレッシャーと呪いの言葉が溢れている。

ハフポスト日本版編集主幹を務めるフリーキャスターの長野智子さんは、今も男性中心のテレビと報道の世界でキャリアを築き、「サンデーステーション」(テレビ朝日系)でメインキャスターを務めている。

「女子アナ」に対するセクハラが当たり前の時代に、フジテレビの超人気番組「オレたちひょうきん族」に出演、結婚退職した後にアメリカ留学を経て「報道キャスターになりたい」という目標も叶えた。

すべてを勝ち取った"無敵"な女性に見える、長野さん。しかし、仕事と不妊治療で身体を壊してしまうなど、その人生にはたくさんの困難があった。

長野さんは、どうやって困難と立ち向かい、女性の報道キャスターとしての道を切り開いてきたのか?悩める"後輩"が学ぶべきことはあるだろうか。"人生の大先輩"に、ハフポスト日本版の女性エディター2人が聞いた。

<聞き手:ニュースエディター 生田綾 / 副編集長 泉谷由梨子>

Junichi Shibuya

ーー今は「報道」のイメージが強い長野さんですが、アナウンサーとして人気が出るきっかけは「オレたちひょうきん族」だったんですよね。

そうなんですよね。「ひょうきん族」って知ってる?

ーーリアルタイムで見たことはないんですが、知ってますよ!(笑)過去映像とかで...。

見ちゃったかぁ(笑)。

Junichi Shibuya

私は1985年にフジテレビに入社したんですけど、当時は「ひょうきん族」とか「なるほど!ザ・ワールド」が人気で、フジテレビがすごく上がってきている真っ最中の頃ですね。

「楽しくなければテレビじゃない」がキャッチコピーだった時代で、女性アナウンサーを積極的にバラエティーに起用し始めた時期でもありました。

ーー「ひょうきん族」は、今じゃ絶対許されないようなセクハラも普通に放送されていましたよね。

「見えるセクハラ」ですよね。セクハラが電波にのって、全国に映されていた。

でも、その時は無我夢中で、「セクハラ」とか言ってる場合じゃなかったんですよね。

「ひょうきん族」はすごく厳しい現場で、テレビに映る時はバカをやっている芸人さんたちも、カメラの後ろですごく練習していたり、激しくダメ出しし合ったりしていて。アナウンサーといえども、お笑いのド素人の私が中に入って一緒にやるのは、本当にすごく難しかった。

その時はアナウンサーがゴールデンタイムの番組に出ることが少なかった時代で。自分はニュースをやりたいと思っていたけど、ゴールデンに出られるのは物凄く光栄なことだったから、絶対にやりたいという気持ちの方が強かったんですよね。

とにかく期待に応えるという思いだけで必死で...。それが正直なところなんです。

ただ、私が「ひょうきん族」で認知されるきっかけになったのは、胸を触った芸人さんを蹴飛ばしたことだったんです。「ヘンなアナウンサーが出てきた」って言われて(笑)。蹴飛ばしたことに、新時代っぽさがあったんでしょうね。

長野智子さん
長野智子さん
Junichi Shibuya

ーーそもそも、バラエティではなく「報道」を志望されていたんですね。

そうですね。

フジテレビに入りたての頃は、上司の露木茂さん(元フジテレビアナウンサー)に何をやりたいのか聞かれて、「英語の先生になりたかったからセサミストリートみたいな番組をやりたい」って答えるくらい、全然定まっていなかったです(笑)。

報道をやりたいと思うようになったのは、入社した年(1985年)に起きた日航ジャンボ機墜落事故の影響が大きかった。

臨時ニュースで露木さんがキャスターを担当した時、本番直前で送られてきた映像に生存者が映っていて。報道センターがパニック状態になったんだけど、露木さんは用意していた原稿を全部ゴミ箱に捨てて、原稿1枚もなしに「生存者が発見されました」という一言でスタートさせたんです。

そこから情報が入ってくるまで、全く動じずに航空評論家の方と特番を進めていて、その姿を見て「すごいな」と。

その後、露木さんが私のところに来て、「報道キャスターはいかなる時も冷静に、起きていることを伝えるのが仕事だから」と仰って。私はこういう仕事をやりたいなと思った。

それをきっかけに、「私は報道をやりたい」ってまわりに言い始めましたね。

ーーでも、報道ではなく「ひょうきん族」でどんどん人気になっていって...。

「ひょうきん族」をやりながら朝のニュースもやっていて、両方やっていたから大丈夫かなと思っていたんだけど...。あまりにもバラエティーの印象が強くなり、「ニュースはないだろう」という空気になっちゃって(笑)。

でも、「ひょうきん族」は本当にいい経験だったと思います。生放送ではなかったけど、とにかく1秒後に何が起きるかわからないような番組で、学んだことは本当に多くて。

「ひょうきん族」をやっていなかったら、私はこの年までテレビに出られていなかったと思います。

ーー「ひょうきん族」卒業(1989年)から1年後に結婚退職してフリーに。それから報道への道は順調でしたか?

全然ですね。もうフジテレビを出たら最後、世の中が私をバラエティーアナとしか見ていないから、バラエティーのオファーしかなかった。

必死にやってはいたけれど、30歳前後ですごく落ち込みました。

ものすごくつらくて、たぶん人生で1番酒量の多かった時期ですよ(笑)。毎日毎日逃げるように、浴びるようにお酒を飲んでました。

でも、結局「ニュースをやりたい」って口では言うのに、それに対して何ひとつ努力をしていなかったんですよね。「あなたは何ができるんですか」と聞かれた時に、何もできない。

このまま死ねないよなあ、って思うくらい惨めな気持ちでした。どんどん下から若いアナウンサーも出てくるし、このままでいたら、あと3~4年で仕事がなくなると思っていました。

そのタイミングで夫がニューヨークに転勤することになって、32歳の時にアメリカ移住を決意しました。

Junichi Shibuya

ーーそれまで積み上げたキャリアのすべてを捨てる、くらいの思いがないと、できない決断だと思います。

でも、それくらい追い詰められていたんだと思います。何しろ、自分が1番嫌いだった、自分のことを。

「ニュースをやりたい」と思いながらバラエティーをやるのは、命がけでバラエティーの仕事をしているタレントさんにもすごく失礼だなと思っていたので。大きな決断をした理由は、そんな自分を消したかったからじゃないですかね。

向こうに行ったら「とにかく何でもいいから努力しよう」と思って、大学院に入って一から勉強しました。勉強さえしていなかったから。

ーーそこでジャーナリズムやメディア論を学ばれたんですね。

大学院のゼミでは、常識に疑問を持つこととか、批判をただの批判に終わらせないために必要な「証拠」を集めるプロセスとか、報道ジャーナリズムそのものを学んで、鍛えられました。

あとは、アメリカの報道番組から学んだことも多かった。

アメリカの番組は、スタジオにいるキャスターよりも、フィールド(現地)からレポートするキャスターの方が「かっこよく」見えるんです。中東の紛争地から中継しているキャスターがすごくかっこよくて、作り手も視聴者も彼らをリスペクトしてる空気があるように感じました。

アメリカに行ってから、「報道をやりたい」という漠然とした憧れから、自分のやりたい「報道キャスター像」が見えてきたと思います。

ーーそして、5年後に帰国して、鳥越俊太郎さんの報道番組「ザ・スクープ」の女性メインキャスターに抜擢されました。ストーカー規制法が制定されるきっかけにもなった桶川ストーカー事件の調査報道をした伝説的な番組です。

憧れの番組にまさか呼んでいただけるとは、という気持ちでした。

ただ、オファーをいただいた時は「めざましテレビ」でニューヨークの現地レポーターの仕事もやっていて、すごく楽しくて、しかも夫の転勤が残っていて。

迷ったんだけど、夫に「あなたは何のためにアメリカに来て、こんなに頑張ったのか、忘れてるよね。さっさと帰りなさい」って言われまして。「そうだよね」と。

それで、夫をアメリカに置いて、日本に帰ってきました。

ーーずっとやりたいと思っていた報道の世界に入られたんですね。

もう、37歳で新人みたいな感じだよね。(笑)やっと憧れのスタートラインに立てて嬉しかったです。

でも、初出演の1週間前に鳥越さんから手紙がきて。「来週からご一緒する鳥越俊太郎です。ザ・スクープのキャスターをやるに当たって、以下のことを守ってください」って、毛筆で書かれた便箋が10枚ぐらい入っていまして。

「一、取材先には自分で連絡する」、「一、現場ではディレクターの言葉ではなくて自分の言葉で伝える」とか...。何カ条も書いてありました。「出演者でも、週に3本は企画を出すこと」とか。

すぐに報道の世界のリアリティを突きつけられ、それを読んでもうビビりまくって...。(笑)「どうしよう」って、その手紙を握り締めながら飛行機に乗った記憶があります。

ーーそれはすごい...。

でも、ありがたかったですね。本当に、いろいろ教えていただきました。

ニュースキャスターに向いてないと思ったり、落ち込んだこともありましたよ。

女性キャスターの草分け的存在でもある憧れの田丸美寿々さんもそうですし、鳥越さんや田原総一朗さんと一緒に仕事をしていると、やっぱり彼らが持っているこみ上げるような怒りとかガッツとか、すごい熱量なんです。

それを見ていると、私は報道をやってはいけないんじゃないか、とか、一時期すごく悩みました。

恥ずかしながら、田丸さんの前で号泣したこともあるんだけど...。田丸さんは、「それだけ自分を追い込んでいるのは、目指すものや自分に求めることがすごく高いということだから、ニュースキャスターに向いていると思うよ」と言われて、胸に刺さっています。

Junichi Shibuya

ーーニュースキャスターとしてキャリアを積みながら、プライベートでは不妊治療をされていたと聞きました。

「そろそろ子どもをほしいな」と思ったのが渡米した頃で。ニューヨークにいる間にできるかな、と思っていたんですよね。でも、できなかった。

37歳で帰国してしばらくは仕事に必死だったんだけど、40歳を目前にしてヤバイと思い始めて。39歳で不妊治療を始めました。死ぬほど忙しかったけど、もうそこしかなかったんだよね。

そこから47歳くらいまでやったかな。

ーー報道の仕事をしながら、10年近く...。

妊活はいろんな段階があるんですけど、体外受精をしていた時は、軽い鬱になるほど追い込まれていました。

注射をたくさんして、すごく痛みがあって。痛みが残ったまま取材に行って、痛み止めを飲みながらレポートをするような状態。

それが続くうちに、自己矛盾にハマってしまったんですよね。自分は子どもが欲しくてこれだけの思いをしてるんだから、仕事をしないで家でゆっくりした方が体のためにも子どものためにもなるんじゃないかって。

けれど、それで仕事を休んでしまったら私にはもう何も残らない、という恐怖心もすごくあった。

「報道ステーション」の現場レポーターや「朝まで生テレビ!」をやっていた頃で、いろんなことが重なっている時ですね。今ここで仕事を休んだら、それこそ「戻れない」という思いがあった。社員だったらまた違ったのかもしれないけど、フリーだとその辺の自信が持てないんですよね。

今回もまた妊娠できなかったとわかるたび、「あの時あの仕事を入れたから」とか思ってしまって、精神的に参ってしまい、不眠や過呼吸の症状が出るようになって。

精神科で処方してもらった薬を飲んで、そうすると不妊治療ができなくなるので妊活を休んで...。薬を飲んだら鬱が改善されて、妊活に戻る、みたいなことを繰り返していたかな。

ーー仕事はお休みされなかったんですよね。

しなかった。だから、そこが私、ダメだったのかもしれないよね。そんなに子どもが欲しいんだったら、そっちを優先すればいいものを。

やっぱり、夢だった報道をやれるようになったから、取材レポーターとしての仕事をやり遂げたかったし、メインキャスターをいつかやりたいという思いもあって、やめられなかったんですよね。

両立させようとした結果、不妊治療もうまくいかず、精神的に追い詰められてしまった感じでした。

47歳の時に、ホルモンの治療で卵子が20個くらい、すごくたくさん取れた時があったの。これで最後にしよう、と思って。

体外受精を少しずつやっていって、最後の1個で妊娠できなかったら、もうこれでやめにしようっていう、カウントダウンを始めたの。

それで、「今回もダメでした」というのを何カ月も続けて、最後の1個がダメだった時に、「私は全力を尽くしたから、そういうもんなんだ」と思ったんだよね。だって、私も夫もどこかが悪い、というわけじゃないんだよね。

ここまで努力をして、それでもできないんだったら、それは「あなたは仕事をしなさい」っていうことだろうなと思って。それなら、私は子どもがいる人にはできないことをやろうって決意しました。

その半年後ぐらいにメインキャスターの仕事が決まって。

そうなると、「仕事を続けててよかったな」という思いにもちょっとなったんです。やっぱり女性がメインキャスターの椅子に座るのって、すごく大変なの。だから、やっぱりやっててよかったって自分自身が納得できたというか。

それでもしばらく泣いていたけどね。女として健康で生まれてきて、なんでなんだろうって、本当思ったし...。子どもの虐待死のニュースを読むとすごく怒りが湧いてきたり、わからない気持ちにもなった。

私が心身を壊してしまったのは、仕事場では誰にも言わずに治療していたのもあるかな。以前にブログでも書いたけれど、「ガマンと忍耐」で乗り越えずに、職場で打ち明けることから解決する方法も、今思えばあったと思う。

Junichi Shibuya

ーー本当にたくさんの困難を乗り越えてこられたんですね。

いやいや、不器用なんですよ。でも、誰でもそうだと思いますよ、みんな。本当、大変だよね、生きるって。

でも、なんとかなる。自分の腹さえ決めれば。

夫と2人で、それなら子どもにかける生涯の学費の分を旅行しようとか、贅沢しようとか、自分たちなりの人生を考えなおしたりして。

私は体は健康だし、もっと大変な思いをしている人がいっぱいいるし、ありがたい人生だと思ってます。

ーー長野さんの困難を乗り越えるその強さは、どこから出てくるんでしょう。

やっぱり、一番好きな仕事をできているからだと思います。あとは、いつも明るくて楽しい気持ちにしてくれた夫と友達と、仕事仲間の存在も大きいですね。

心の底から好きで打ち込めて、心から嬉しいと思えるものが何か一つでもあると、他のことを乗り越えられるんだと思います。

元をたどれば、その一つを見つけることはすごく難しいんだろうね。

ーー本当にそう思います。

私はたまたまそういうものがあったから、多少大変なことがあっても、ここまでこられたんだけど。

そういうものが見つからずに、もがいている人もいっぱいいるわけだし、心の底から見つけてほしいなって、すごく思うんだよね。

「願えば夢は必ずかなう」っていう言葉があって、ケース・バイ・ケースだしあまり言いたくはないんだけれど。でも、一つ言えることは、願いって、夢の温度を落とさないで、それに対する努力をずっと続けてれば、結果的に何かにつながってくる。

私は報道という夢がかなったんだけど、でも、それは別に、強く願っただけじゃなくて、強く願うことによって具体的にいろんなことやるじゃない?行動を起こしたりとか。そういうことだと思う。たぶん、ご縁をつくるっていうか。

長野智子さん
長野智子さん
Junichi Shibuya

ーー長野さんは、女性キャスターとしての地位を築き上げてきた存在です。先ほどは「女性がメインキャスターの椅子に座ること」の大変さを話されていましたが...。

自分が男だったら違うかなと思ったことはありますね。少しずつ変わってはきてはいるけど。やっぱり圧倒的多数の男性が決定権を持っている限り、大きくは変わらないような気がします。

「意識改革」というのはそう簡単にできない。決定権を女性が平等に持って、システムや組織を具体的に変えていかないと。結局そこが大事だと思います。

ーーだから、長野さんがメインキャスターとして番組を率いていることに希望を感じるんです。

ありがとうございます(笑)。

「30歳定年説」なんていう、「若くてかわいければいい」と言われるような世界で戦っている女性アナウンサーたちに、頑張ればそのポジションにいけると感じてほしいという気持ちもあります。

個人的に持っている目標ももちろん仕事のモチベーションになるけど、そう考えると、ますます頑張ろうと思いますよね。

ただ、今ある格差を変えていかなきゃいけないのに、テレビという媒体自体がなかなか変わらない。ものの見方や考え方に影響を与えるメディアが変わらないと、社会も変わらないわけで、もっと努力しなければなと思います。

ーーそれこそ、「女性が若くてかわいければいい」という座組みは通用しなくなってくるのでは、と思います。

でも、テレビドラマでもジェンダーの問題が描かれるようになったり、確実に30年前より意識は変わってきている。その中で生まれてくる新しい世代の人たちがいるわけですよね。

若い人がテレビを観なくなっているけど、できたら若い世代にもテレビを見てほしいなぁ(笑)。

テレビは視聴者の観たいものを提供しようとする性分なので、若い視聴者が増えれば作り手も即座に反応するんです。高齢の方が多いとそういう番組作りになって、若い世代がさらに離れるというスパイラル。

もちろん、私たちも若い世代に見てもらえるような番組作りをしないといけないし、そもそも「コンテンツではなくデバイス離れ」とも言われるので、改めてテレビは何ができるのかを考えるべき過渡期にいると感じています。

日本のジェンダー環境も、バラエティで胸を触られてた80年代に比べれば変化してるよね(笑)。

速度は猛烈に遅いけど、今若い人たちが社会のリーダーになるころには、価値観も大きく変わっていると信じているし、そのために自分も力になれたらいいなと思います。

長野智子さん
長野智子さん
Junichi Shibuya

【長野智子さんプロフィール】

ハフポスト日本版編集主幹。米ニュージャージー出身。上智大外国語学部英語学科卒。フジテレビアナウンサーを経て、90年フリー。 99年ニューヨーク大・大学院「メディア環境学」専攻卒。2000年「ザ・スクープ」(テレビ朝日系)キャスター、現在、「サンデーステーション」(同)のメーンキャスターを務めている。

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