生まれ変わったら、弟になりたい
いつも弟が羨ましかった。
年子の弟は運動能力が著しく高く、家の壁をするするするっと登り、スパイダーマンのような格好で天井近くで鎮座している姿をよく見かけた。翻って私は、大の運動音痴。これがもう、典型的な「どんくさい」「ドジな」少年だったのだ。足は遅い。投げ方がくにゃくにゃしている。段差もなにもないフラットな道で転ぶ。
そんな私にXデーが訪れた。小学校2年生のときの運動会だ。私からしたら「わざわざ自分の醜態を、両親と祖父母にさらす日」である。案の定私はいいところなし。一方、弟はリレーのアンカーを務めた。彼が猛烈果敢に走り、凄い勢いでコーナリングを決めながら、大喝采の中ゴールテープを切る姿を私は忘れらない。この日から私は「生まれ変わったら、弟になりたい」という歪んだ想いを抱くようになった。
私が憧れる人物がもう一人いた。小学6年生のときの同級生、T君だ。彼はクラスで一番足が速かった。当時、私はなるべくスポーツと距離を置こうとしており、自分がクラスで生き残る活路として「クラス新聞」というものを自主制作し、定期的に教室後ろの掲示板に貼るということをしていた。はっきり言ってニーズなどない。しかし、この圧倒的にニッチな領域でしか生きる術を見出せなかったのだ。
ある日のお昼休みのことである。私は窓際の席でクラス新聞の企画「はてなくんをさがせ」(新聞誌面のどこかにいる、顔が「?」でできた“はてなくん”というキャラを読者が探すという企画。だがしかし読者などいない)の詰め作業に勤しんでいた。窓の外の校庭から女子の黄色い声が聞こえた。ふと見やると、T君が校庭を走っていた。ただそれだけである。だがとにかく速い。フォームも芸術的に美しい。なにより、柔らかな髪が風にしゃらしゃらなびいているのである。まるで髪が風と戯れているようだ。私もたまらず黄色い声を上げそうになった。と同時にある考えが頭をよぎった。
(人生終わったな)
大げさである。しかし「世界の広さ」を知らないアラテン少年からするとT君と私との間には、永遠に渡ることのできないルビコン川が轟々と流れているように感じ、絶望感を感じずにはいられなかったのだ。
渡米後、さらに深まるスポーツコンプレックス
15歳の時にアメリカに引っ越した。そこでも、スポーツの波状攻撃は容赦なく私に襲いかかってくる。当時通っていたシカゴの高校では、PE(Physical Education)と言われるいわゆる体育の授業が週に3回あった。クラスメートは白人や黒人だ。身長が190cm台の同級生もいる。何食べてきたんだ。さて、そんな環境では何が起きるか。バスケの授業で私がボールを持ちシュートでも打とうものなら100%ブロックされるのだ。ボールが、私の手を離れた次の瞬間、地面に叩きつけられる。これが繰り返されるとどうなるか。益々運動が嫌いになるのである。成長とは、緊張感と達成感のゆらぎの中で生まれるものであろう。しかし私はスポーツにおける達成感を味わえないまま大人になった。
22歳の時に広告代理店に入社した。営業やコピーライターといった役割をいただき、20代はとにかく働いた。10年間でスポーツをしたのはほぼ1回だけ。先輩から「週末に会社メンバーでフットサルをやるから、どうしてもきて欲しい」と誘われ、断れなかったのだ。まったく気がのらないまま、当日がやってきた。プレイ中に自分に課したタスクは2つ。「存在感を消すこと」と(ボール来るな)という念を飛ばすこと。その甲斐あってか、試合中私の足元にボールが来ることはほとんどなかった。しかし試合終了直前。相手ゴール近くにいた私にパスが回ってきた。(ええい、ままよ!)不恰好に足を動かすと、なんと私が蹴ったボールは相手ゴールネットに突き刺さっていた。信じられなかった。ついにスポーツの冬の時代が終わったのだ。20年以上生きてきて、ついに充実のスポーツライフが訪れたのだ!
しかし次の瞬間、私は耳を疑った。
「超ウケる!」。
先輩が大きな声で叫び、笑ったのだ。それにつられて敵も味方も笑い出した。「シュート決めて、ウケる」。運動が苦手なヤツがたまたまシュートを決める。その光景を客観的には見ていないが、さぞかし面白かったのであろう。クスッ。つられて私も笑った。ハハハ。大きな声で笑った。「いやーすみません僕が決めちゃって」。ワハハハハ。そして、みんなと笑いながら、(もう絶対二度とスポーツなんてしてやるもんか)と何故か上から目線で心に誓ったのであった。
運動が苦手なのは、ルールの方に問題があるのでは?
ところが、転機は突如訪れた。2020年東京オリンピック・パラリンピック開催の決定だ。テレビをつけると、ニュースキャスターもタレントも有識者もそれぞれ嬉しそうだ。しかし私の心は晴れなかった。逃げても逃げてもスポーツは追いかけてくる。そんな憂鬱な気持ちになったのだ。ところが、少し時間が経って冷静になったときにふと思った。
「これを機に、新しいスポーツをつくれないか?」
スポーツが苦手なのであれば、それを克服するのではなく、自分が好きになりそうなスポーツをつくればいいのではないか? そう思い至ったのだ。
私は福祉の仕事をすることも多いのだが、福祉の世界には「医療モデル」と「社会モデル」という考え方がある。「医療モデル」というのは、障害が皮膚の内側(自分)にあるという考え方。一方の「社会モデル」は、障害というのは皮膚の外側、つまり社会側にあるという考え方だ。障害は個人固有のものではなく社会全体の中での話だから、みんなで対話して改善していこうよ、という「社会モデル」のあり方が私は大好きだ。
「新しいスポーツをつくれないか?」という考えは、スポーツの“社会モデル的発想”である。つまり、スポーツが苦手というのは、私個人の特徴や能力に問題があるのではなく、私が楽しめるスポーツがない社会の方に問題があるという発想の転換だ。自分が救われる予感がした。
そこで、2015年4月に「世界ゆるスポーツ協会」という、新しいスポーツを開発することに特化した団体を立ち上げた。チャレンジしたのは、スポーツが苦手な人(私だ)に新しい名前をつけること。「運動音痴」という言葉はよくない。かっこ悪いし、現状が変わる気配がしない。
そこで私が開発したのは、「スポーツ弱者」という新しい言葉だ。
運動が苦手な人は「スポーツが生み出したマイノリティ」であり、それぞれ生きづらさや傷を抱えているスポーツ弱者なんだという定義づけをあえて行った。コンプレックスのある自分を、世界に認識してもらいたかったのだ。世界ゆるスポーツ協会のミッションはずばり「スポーツ弱者を、世界からなくす」。4年の活動でおよそ80の新しいスポーツを開発した。目隠しをしたブラインド状態でプレイする「ゾンビサッカー」や、イモムシのようなウェアを着て、這ったり転がったりする「イモムシラグビー」など、既存のルールでは「勝者」になれない人も、苦手意識をとっぱらえる新ルールをどんどん考案した。スポーツ弱者を世界からなくすためには、既存のルールの方を変えればいいのだ。
スポーツ弱者でも気兼ねなく楽しめるのはもちろんのこと、プロのアスリートに勝てるスポーツもある。ゆるスポーツのことは以前ハフポストでも取り上げて頂いたのでそちらを是非読んでみてください。
もともと決められていたルールの中で劣等感を感じていた私が、自分も楽しめる新ルールを作り出す。こうして私は、以前よりもスポーツが好きになった。現場で参加者がどんどん仲良くなるを見て、スポーツの「平和をもたらす力」を日々実感するし、何より私自身スポーツを定期的に行うようになっている。はっきり言って今はスポーツが大好きだ。それでも、スポーツコンプレックスが消えたわけではない。いまだに運動音痴な自分は、心の奥底にしっかりといるし「克服」と呼んでしまうのは、やはり少し違う気がする。
それでも、運動が得意であれば、「世界ゆるスポーツ協会」を立ち上げようなんて思い至らなかったわけで、今ではそのコンプレックスに感謝さえしている。
私は、たまたま機会に恵まれ、スポーツが苦手というコンプレックスを、ゆるスポーツというコンテンツに活かすことができた。しかしコンプレックスとの向き合いは人それぞれでいいと思う。放っておいてもいいし、仲良くしてもいい。私のコンプレックスは、私のものでしかないのだから。
(文:澤田智洋 @sawadayuru /編集:南 麻理江 @scmariesc)