東京初空襲 敵操縦士と和解の日

昭和8年生まれの私は、「鬼畜米英」のスローガンのもと「出てこいニミッツ、マッカーサー」と威勢良く歌いながらも、実際は米軍機の激しい空襲にさらされた世代の一人である。このドーリットル隊初空襲との遭遇は、ほんの序章だった。

著者と出版社の承諾をいただき、2005年8月号「文藝春秋」に掲載された記事全文を転載する。オバマ大統領が来日した今、真に理解し合える日米関係構築のために「歴史和解」の重要性を今一度考えたい。(肩書、年齢などは2005年8月当時のもの)

やはり立派な大きな鼻だった。「シラノの鼻だとよくいわれる」――4月10日、米テキサス州南西部のサンアントニオ市郊外の自宅で会ったリチャード・コール氏は、こういって自らの人差し指で鼻をなぞってみせた。9月に90歳になるという高齢ながらいたって元気で、背筋もぴんとのびていた。

前年末の真珠湾攻撃後の連戦連勝ムードがまだ日本中を覆っていた昭和17年(1942年)4月18日正午過ぎ、私はこの鼻を、戸山国民学校(現在の戸山小学校)の校庭から見上げた。三年生になったばかりで、まだ8歳だった。

土曜日なので半どんで授業が終わる。校舎から出たとたん、大きなエンジン音とともに、見たこともない異様な双発機が目の前を地上すれすれに左から右へ、つまり東から、西の新宿、中央線大久保駅方向に飛んでいった。機体はカーキ色で、尾翼の両端が縦に立ち、胴体にブルー地の星の標識があった。風防ガラスでおおわれた操縦席の手前側、進行方向右側にすわっていた白人乗組員の横顔がはっきり見えた。濃い茶色の革の飛行服を着ていて、白い顔と高い大きな鼻が目に焼きついた。東の空に高射砲からの黒い弾幕がはられ、空襲警報のサイレンが鳴ったのはその直後だった。日本本土初空襲として歴史に残るドーリットル爆撃隊B25が東京を襲った時である。

この飛行機が太平洋上の空母から発進したB25十六機の一つで、ジェームズ・ドーリットル中佐操縦の隊長機だったと知るのは、戦史作家である半藤一利氏が文藝春秋2002年5月号に発表した「4.18東京初空襲 あの爆撃機は?」と題するレポートを読んだ時である。作家の吉村昭氏が日暮里の自宅の物干台で凧を揚げていた時に、超低空で目前を通過する双発機を目撃したことを取り上げた記事で、調査の結果、吉村氏が見たのは隊長機だったと述べ、日暮里吉村邸から大久保を通り、中野方向に向かう線を航跡として示していた。山手線新大久保駅の近くにあるわが戸山国民学校は、間違いなくその線上に位置していた。時刻もほぼ同じ。私が63年前に見上げた大きな鼻の持ち主が、その機の副操縦士リチャード・コール中尉だったと割り出すのは簡単だった。

今回の訪米で私が接してきた米側資料でも機体番号40-2344の隊長機の航跡は、この線上を通って西に向かい、立川くらいまで中央線南側を飛び、そこから南に転じて、茅ヶ崎付近から相模湾に抜けている。ドーリットル隊長の自伝によると、低空で東京に進入したあと、高度をいったん400メートルぐらいに上げて、128発のエレクトロン焼夷弾子をたばねた焼夷弾4発を投下、直後に超低空で飛行したとある。その投下地点が当時の牛込区早稲田鶴巻町、淀橋区西大久保(いずれも現在の新宿区)であることから、私が見たのは焼夷弾投下直後のドーリットル機であったと思われる。

■ 欠陥爆弾で命拾い

昭和8年生まれの私は、「鬼畜米英」のスローガンのもと「出てこいニミッツ、マッカーサー」と威勢良く歌いながらも、実際は米軍機の激しい空襲にさらされた世代の一人である。このドーリットル隊初空襲との遭遇は、ほんの序章だった。

昭和18年、福井市に疎開し、さらに同19年末、陸軍の職業軍人であった父の赴任地、香川県善通寺に移ると、勤労動員の途中、空母艦載機グラマンF6Fから、容赦ない機銃掃射を浴びた。昭和20年3月末、米軍との本土決戦に備えて高知県側に出陣した父を見送り、再び福井に帰る旅では、宇高連絡船の運航もグラマンの襲撃でままならず、たどりついた本州でも神戸、大阪はわずか4カ月の間に一面の焼野原となっていた。

そして、6年生になっていた敗戦27日前の7月19日夜、福井市でカーチス・ルメイ将軍指揮下のB29百二十七機による「夜間無差別焼夷弾爆撃」を受ける。爆発音とともに、家の周囲が真昼のように明るくなるなかを、母や弟、妹、いとこたち12人で郊外の水田地帯に向かって逃げた。農道の行き止まりのさつまいも畑でただただ伏せていたとき、大きな落下音に続いて、防空ずきんの上に田んぼの泥水が雨のように降ってきた。これが命拾いした一瞬だった。米軍は日本焦土作戦用に、ナパーム剤のつまった焼夷弾38発を束ねたM69と呼ばれる集束型親爆弾を開発していた。そのM69がたまたま欠陥製品だったのか、予定通り地上300メートルで開かず、そのまま水田に落ちて巨大な泥柱を上げただけで終わったからである。

夜が明けて市内に引き返すと、路上や焼け跡の玄関口に真っ黒焦げになった死体が転がっていた。福井城跡の堀は、男女の水死体で埋まっていた。この夜人口約10万の福井市は、被災者率93.2%、焼失率96%、死者約1800人、重軽傷者6000人。文字通りの焦土となった。

私は、こうした無差別爆撃の対象となることから始まったアメリカとの出会いに、いつまでもこだわることになる。大きな鼻のコール中尉との対面という今度の数奇な旅も、その落とし子だった。

■ 「棘」を抜かなければ

自らも福井でその対象となった全国67都市に対する「夜間無差別焼夷弾爆撃」と、そして広島、長崎に対する原爆投下で、合計51万人の非戦闘要員、つまり民間人が犠牲となっている。その事実に対して、日米間できちんとした鎮魂の儀式が行われていない。私はそのことにこだわり続けている。けじめがついていないのではない、という思いである。この作戦を編み出したルメイ将軍自身が、

「もしアメリカが負けていたら私は間違いなく戦争犯罪人になっていただろう」

とまで戦後、語っているのにである。

こだわりが生まれたきっかけは、10年前の1995年2月に出張先のワシントンで観たテレビのニュースだった。

ドイツの敗色濃い1945年2月13、14の両日、米英連合空軍によるドイツ東部、エルベ川沿いの古都ドレスデン市に対する無差別爆撃で、一般市民3万5000人が犠牲となり、「ドイツの広島」と呼ばれていた。そのドレスデンで開かれていた50周年の記念追悼式で、当時のヘルツォーク・ドイツ大統領が、米英制服トップやイギリス女王名代のケント公らを前に、「ナチスの犯罪行為と民間人の犠牲者を相殺することはできない」と述べ、米英に対し非戦闘員爆撃の責任を認め、一緒に死者を弔い、信頼の精神で平和に共生しよう――と呼びかける剛直な演説を行っているのを目にした。米英出席者はこれを黙って聞いていた。巧みな「和解」の外交ショーではなかったのか。

無差別爆撃の対象となった民間人の数では、ドイツは日本よりずっと少ない。しかし日米は「ドレスデンの和解」と同じことをまだやっていないのではないか。ドイツとの落差をかみしめた。

いまワシントンのスミソニアン航空宇宙博物館別館で広島原爆投下のエノラ・ゲイ号が、オハイオ州デイトンの空軍博物館では長崎原爆投下のボックス・カー号が、いずれも完全に復元され、ぴかぴかに磨き上げられて展示されている。しかし、その下の説明板では、いまだに広島約14万人、長崎約7万人という犠牲者数はどこにも触れられていない。これもフェアーな記述とは言えない。

自衛隊イラク派遣から、マツイ、イチローの活躍とますます深まっている日米の友好関係を、さらに強固なものにしていくために、こうした「棘」を抜く努力をすべきではないのか。共同通信のアメリカ特派員を長らく勤めた私は、3年前ジャーナリストに復帰し、こうしたこだわりをバネに、昨年『銃を持つ民主主義――「アメリカという国」のなりたち』(小学館、2004年、第52回エッセイストクラブ賞受賞)をまとめた。この本の冒頭に「初めて見たアメリカ人」としてコール中尉の名前を書いた。

長年の友人である小林陽太郎氏(富士ゼロックス取締役会長)から「あなたが書いたコール中尉はまだ存命で、いつでも紹介しますよ」と言われたのは、昨年3月、この本が発売された直後である。

コール氏は、隊長機が4月18日の夜、中国浙江省衢州の北110キロで燃料切れのため機体を放棄した時、ドーリットル隊長らとともにパラシュートで脱出。中国側支配地域に着地して生還した。ドーリットル隊長だけは現地で准将に2階級特進。重慶経由でワシントンに戻り、ホワイトハウスでルーズベルト大統領から議会名誉勲章を受ける。

しかし、コール氏はこのあとも中国、ビルマ、インド戦線でB25のパイロットとして働き、日本軍基地の爆撃に参加した。戦後の1952年、朝鮮戦争下の東京に極東空軍司令部訓練部長として家族とともに赴任し、下馬に家を借りたことから、近くの小林氏一家と知り合う。

会うことを決心するまでは、若干躊躇した。多くの研究書や翻訳書が出ているドーリットル爆撃隊について、私は門外漢に過ぎない。しかし大きな鼻との珍しい縁を大事にして、日本と直接戦った世代の最後の生き残りであるコール氏に、私が日米関係について抱えているこだわりぶつけてみよう、と思い直した。

小林氏の紹介を得て、昨年9月に電話を入れてみたところ、「歓迎する。早くこないと天国にいってしまう」と冗談まじりの元気な声が返ってきた。今年に入り、4月10日に行きたいというと、

「わかった。ちょうど4月13日から1週間、1945年から続いているドーリットル爆撃隊員のアニュアル・リユニオン(年次懇親会)が開かれる。私も行くので一緒に来ないか」

と誘われた。そうした対日戦勝行事に入り込める機会もそうあるわけではない。了解すると、さらにコール氏は思いがけないことをいった。

「近くのフレデリックバーグにニミッツ提督の博物館がある。彼の生まれたところだ。私が連れていってあげる」

ニミッツ提督とは、真珠湾攻撃の直後にルーズベルト大統領から28人抜きで太平洋艦隊司令長官に抜擢され、日本攻略まで海兵隊を含めた米海軍側の最高指揮官をつとめたチェスター・ニミッツである。ミズリー艦上での降伏文書にも署名している元帥だ。60数年前、私が「出て来い、ニミッツ、マッカーサー」と歌ったあのニミッツである。

■ 東条首相とすれ違う

コール氏の居間はB25などのレプリカなどで飾られ、寝室の壁は一番機の空母発進直後の大きな写真で埋まっていた。ドーリットル隊長が自伝の中で評していた通り「物静かな人」だった。座るなり「戦争では怪我はしなかったのか」と聞いてきた。小林氏によると、美人で親切だったというマーサ婦人を2年前に亡くし、一人暮らし。隣りに次男夫婦が住む。67年に中佐で引退して、ワシントンからテキサスに移り住む。住宅建設業等を経営し、現在は敷地内の菜園の手入れなどを楽しんでいる。自分で毎日運転し、国内旅行も一人で出掛けるという。

出身地はオハイオ州デイトン。ライト兄弟による飛行機発祥の地コロンバスに近く、パイロットにあこがれた。その頃ドーリットルは、米大陸無着陸飛行記録達成などで既に有名だったという。オハイオ大学3年のときに、連邦政府が非常時対策として打ち出した民間人パイロット養成計画に応募する。1940年に陸軍航空隊に入隊して、真珠湾攻撃の4カ月前に任官。B25爆撃機専門の部隊、第17爆撃群に配属された。開戦後は、日本に敵がい心を燃やす、ごく平均的な青年将校だったという。

コール氏の話を聞くと、ドーリットル爆撃隊の日本本土爆撃は、かなり泥縄式のバクチ的要素が強かったことが改めてよくわかる。

真珠湾攻撃で落ち込んだ、米国内と連合国側の士気を盛り上げ、日本に一泡吹かせたいというルーズベルト大統領の、「とにかくどこでもいいから、日本を早く爆撃しろ」との強い指示のもとですべてが始まる。

空母ホーネット艦上の短い滑走路から、B25が離陸するテストが行われたのが1942年2月1日。コール氏が所属した第17爆撃群から志願の要員が選ばれて約1カ月、フロリダの基地で離陸特訓が行われた。空母ホーネットにB25十六機と134人の要員を乗せて出航したのは4月2日。空母エンタープライズらと合流、合計16隻の機動部隊として日本を目指すのが4月13日――といった具合に、綱渡りのスケジュールであった。当時としては虎の子の空母2隻を無傷で返すことにも神経が使われ、東京湾口と神戸沖に潜水艦2隻が配置され、日本海軍の動きを監視していたという。

空母艦載機の攻撃を予想していた日本側は、陸上爆撃機を空母から発進させて低空で進入、中国着陸を目指すという発想と、その決死隊的な気合いに虚をつかれる。当日、東条首相は栃木、茨城、群馬の三県視察を続けており、陸軍輸送機に乗って宇都宮から水戸に向かう途中、ドーリットル機と思われる1機と約20キロの距離ですれ違っている。東条首相は同夜あわてて列車で帰京した。

■カミカゼに救われた爆撃隊

本稿で参考にさせてもらっている防衛研究所戦史部主任研究官の柴田武彦、戦史研究家の原勝洋両氏執筆の『ドーリットル空襲秘録』(アリアドネ企画)によると、爆撃の被害は東京、川崎、横浜、名古屋、神戸、新潟、横須賀等合計で民間人の死者87人、重軽傷者462人。「極めて軽微なり」という大本営発表ほど軽いものではなかった。

しかしそれ以上に、日本は「航母集団のゲリラ戦――米海軍今後の姑息戦法」(昭和17年4月20日付東京日日新聞)に怯え、ミッドウェー海戦という墓穴を掘る。この辺のアイロニーについて、コール氏は「我々にはそこまでの計算はなかったと思う」という。

コール氏によると、当初の計画では日本本土爆撃予定日は4月19日。まず日本時間の夕方に進入して、東京、横浜、名古屋、神戸、大阪の5都市を爆撃後、夜間に鹿児島県屋久島上空を通過して中国に向かう。朝になったところで、衢州およびその周辺の中国飛行場に着陸。中国側にB25を引き渡すという合計約13時間、約3520キロメートルを飛ぶ作戦だったという。隊長機の役割は、夕暮れ時の東京の中心部に焼夷弾で火災を起こさせ、後続機に道しるべを与えることで、爆撃する場所はどこでもよかった。ただし皇居爆撃は全機に対して固く禁止されていたという。

しかし、16日早朝、日本海軍の監視船第二十三日東丸に空母が発見されたため、当初の計画よりも320キロも手前で発進、昼間の爆撃となった。

「最大の問題は燃料がいつまでもつのか、中国大陸にたどりつけるのかということだった。日本の緑が美しく清潔な国だという印象を持った以外、地上の記憶はあまりない。日本の戦闘機とは1回も交戦せず、遥か高いところを飛ぶ日本軍機を39機まで数えたことを覚えているだけだ。高射砲の脅威も感じず、とにかく燃料切れだけが心配だった。500ポンド爆弾を積み目標を決めていた他の機も、旋回する余裕がないため、実際は通過した所に爆弾を落とすのが精一杯だった。幸い屋久島を過ぎる頃から中国大陸で低気圧が発生したおかげで本来の偏西風が追い風の東風に変わり、かろうじて中国本土までたどり着くことができた。この『カミカゼ』がなければ、巨大な鮫が泳いでいるのが見えた海上に不時着せざるをえなかった。多分、日本軍に捕まる前に鮫にやられていただろう」

と、コール氏は当時の心境を正直に語った。

結局、隊員80人中、64人が中国支配地域にたどり着き、住民の保護もあって生き残った。1機5人は燃料切れを懸念してウラジオストックに向かい、1年間ソ連内でたらい回しにされた後、イラン経由で脱出した。

中国にたどり着いた15機も機体放棄や不時着で全て使用不能となり、その際3人が死亡。8人が日本軍の捕虜となり、うち3人が民間人銃撃の罪で処刑される。ドーリットル隊長は、軍法会議にかけられると、だいぶ落ち込んでいたという。

しかし、ルーズベルト大統領にとっては、日本爆撃の事実だけでも、政治的PR材料としてこれ以上のものはなかった。4月21日の記者会見で爆撃の成功を発表した際には、B25の発進地について質問が集中した。これに当時評判だったジェームズ・ヒルトンの小説『失われた地平線』に出てくる架空の楽園都市「シャングリラ」だと答えて煙に巻いた。この機智が、フィリピン陥落など暗いニュースにおおわれていたアメリカ世論に受けた。太平洋戦争史の第一人者、サミュエル・モリソンは『太平洋の旭日』の中で、ドーリットルの爆撃が日本軍部をミッドウェー島攻略という「手を広げすぎた作戦」に追い込み、ミッドウェー海戦の勝利を引き出して戦況逆転へのきっかけをつくったと評価した。泥縄式のバクチは、こうして歴史に名を残す。

「だから63年経ってもいまだに"再会"の記念式典が続いているのだ。ミスティックに行けばそれがわかる。ベトナム戦争はもちろん、朝鮮戦争の復員軍人の間でもこうした行事はないと思う」

ここまで語ったコール氏は「早くニミッツ博物館に行こう。説明員を頼んである」と私を誘った。

■ 東郷元帥を敬愛したニミッツ

コール氏の運転する車で45分ほど行ったフッレでリックスバーグは、ドイツ移民の町で今でもメイン・ストリートにはドイツ料理店が並ぶ。ニミッツ博物館はその中心地にある。提督が1966年に81歳で死んだあと、提督の祖父が建てたホテルを地元有志の寄付で修復したものだ。1969年、テキサス州議会の決議でニミッツ元帥記念海軍博物館として発足し、現在は9エーカー(3.6ヘクタール)の土地に、先代のブッシュ大統領が寄付した建物も含めて1800平方メートルの展示場が建ち、テキサス州政府公園野生動物局が管理している。2000年に「ニミッツ提督州史跡――太平洋戦争米国博物館」として再発足。全米で唯一の太平洋戦争、つまり日米戦争専門の博物館だという。

入ってみて、コール氏が私を連れてきたかったわけがわかった。一つは、なんとB25の実物が展示されていたからである。空母発進時の甲板上の命令の緊張した音声が流されていて臨場感たっぷり。副操縦士席には、コール氏に似た人形が座っていた。私が見た濃い茶色の飛行服もちゃんと飾ってあった。ここで吉村昭氏が目撃したという黄色いマフラーについて聞くと、「私の機内では、誰も付けていなかった。別の飛行機だったのではないか。私たちはゴーグルもかけていなかった」と断言する。困ってしまった。

もう一つコール氏が知らせたかったのは、展示内容がアメリカ側に偏ったものではなく、日本側にもかなり気を遣ったフェアーなものとなっている点だった。説明に来てくれた副館長も、戦争に至る日米双方の歴史と行動を、極力「並列的」に展示していることを強調した。1万8000点を越す日米双方の文書、写真、遺品などから、1000点を定期的に入れ替えて展示しているという。

100年前の日本海海戦のところでは、ニミッツ提督が少尉候補生だった頃、東京に寄航して、東郷元帥とも直接話した経験を持ち、敬意を持っていたことが紹介されていた。ニミッツ提督は死去する8年前、昭和33年2月号の文藝春秋巻頭随筆欄に「『三笠』と私」と題して寄稿、荒廃していた戦艦三笠の復元を訴えた。それがきっかけになって現在の三笠保存会が発足し、提督が寄付した文春の原稿料2万円が最初の基金となった。そのエピソードなどを記録した福地誠夫元海上自衛隊横須賀方面総監(101歳、海兵53期)執筆の日英両文のパンフレットが並べられていた。「ニミッツ・東郷――二人の偉大な提督を偲ぶ」と銘打たれた「平和の庭園」が日本からの寄付で館内に作られており、東郷元帥の舞鶴鎮守府司令長官時代の官舎の客間を再現したという日本家屋も建てられていた。

アメリカ側敗北の場面も律儀に記録されており、ボタンを押すと、コレヒドールで在フィリピン軍米軍に降伏を呼びかけるウエインライト将軍のラジオ・メッセージが流れてくる。しかし、やはり戦勝国だからこその博物館だと思ったのは、真珠湾攻撃の際、米側に捕獲された特殊潜航艇の酒巻艇が展示されていたからである。この酒巻艇は戦時国債売り込みキャンペーンの一環として46州を巡回、売り上げは真珠湾攻撃による各種被害を修復するのに十分だったという。

■ 宣教師になった爆撃手

4日後、コール氏が参加しているドーリットル爆撃隊の年次懇親会に合流するため、コネティカット州ミスティックへ向かった。メイフラワー号の到着地として知られるプリマスから南へ160キロの美しい港町は、町中が歓迎の星条旗であふれていた。

いきなり市民歓迎集会に連れて行かれ、「63年前、コール氏の鼻を見上げた8歳のジャパニーズ・ボーイがここに来ている」と紹介された。しばらくして本物のB25が、記念飛行として2機飛んで来た。コール氏はその戦闘機の副操縦席にいるのだという。ピカピカに磨き上げられた銀色の機体のB25は晴天にきらきらと映えて美しい。63年前、カーキ色の機体が秘めていた「殺気」を今になって確認した。

集まった9人の元隊員は最高齢が92歳で、一番若い人が85歳。みんな夫人や子ども、孫が付き添っている。一人で来ていて、一番記憶がしっかりしているのはコール氏だった。行事を取り仕切っている「ドーリットル東京爆撃隊協会」(1963年創立)事務局長のトーマス・ケーシー氏によると、ドーリットル隊長が空母発進直前、全員で重慶での大パーティを約束し、それを戦後の1945年秋、マイアミで私財2000ドルをはたいて実現した。それ以来、3回を除いて毎年4月18日の記念日を中心に、主に南部や西部の各都市で年次懇親会を開いており、ニューイングランド地方での開催は今年が初めてだという。主催地では復員軍人会、商工会議所、ボーイスカウトなどがボランティアで全面協力。愛国行事として定着しており、開催希望地は目白押しだという。関係出版物や、元隊員がサインしたB25のレプリカの売り上げで協会のコストをまかなっており、十分黒字。公的な資金援助は一切受けていないという。

心が痛んだのは、9人の中に、中国で日本軍の捕虜になり、銃殺刑はまぬがれながらも日本の敗戦まで上海、南京、北京と移動しながら約40ヵ月、日本軍の収容所生活を送っていた2人がいたことだ。十六番機(名古屋爆撃)の副操縦士だったロバート・ハッチ元中尉(85歳)と六番機(川崎爆撃)のチェース・ニールセン元中尉(88歳)で、ニールセン氏は左足が悪く杖をついていた。戦後、収容所幹部を虐待行為などで裁く米軍の法廷に唯一証人として出廷したニールセン氏は、収容所生活について語ることは拒否。ただ「タクサン・アリガトウ」と収容所内で覚えたという日本語を繰り返すだけだった。

ハッチ氏の方は、拘束直後の憲兵隊の取調べでひざまずかされて頭のてっぺんから水をかけ続けられる水ぜめ、指裂きなどの拷問を受け、脚気や赤痢に悩んだ収容所生活についても語り、

「日本側の形勢が悪くなるとともに、我々の待遇は良くなった。結局、神の存在が私を救ったとしか思えない。貴方がここにいるのもそうだ。ジェイコブ・デシェイザー氏のことを忘れないでほしい」

といって口をつぐんだ。十六番機の爆撃手デシェイザー元伍長(93歳)は収容所で差し入れの聖書を読んで入信し、48年に宣教師として来日した。大阪を中心に布教に当たり、真珠湾攻撃部隊の総指揮官で「トラ、トラ、トラ」の第一報で名高い淵田美津雄中佐をキリスト教に入信させる。以後、二人でコンビを組んで愛と平和のための伝道行脚を続けたことで知られる。現在は療養中のため出席出来なかったのだという。

心が滅入ったまま、実物のB25を前に開かれた地元団体主催の記念夕食会に顔を出すと、そこは愛国ムード一色だった。500人以上が参加しており、地元の世話人に、共和党員が多いのかと聞くと、

「ここは大統領選で、民主党のケリーが勝った州だ。ドーリットル隊への尊敬は党派を超えている。ついでに言えば、私はイラク戦争には反対している」

との答えがかえってきた。

地元ミスティックの海洋博物館長は基調演説で、アメリカ建国の立役者の一人ジョン・アダムズと、ドーリットル爆撃隊を結びつけて話した。ワシントンに次いで二代目大統領となるアダムズは、独立戦争真っ最中にフランスとの同盟交渉のためイギリス海軍の包囲網の中を小型フリゲート艦で船出した。そのアダムズの勇気と、ドーリットル爆撃隊の敢闘精神を同列に置いたのだ。アメリカの愛国インフラ垣間見た気持ちになった。

ブッシュ大統領からも、ドーリットル隊の不屈の愛国心が現在テロと戦う米軍将兵に引き継がれている、というメッセージが届いていた。

私も演壇に呼ばれて挨拶する成り行きとなった。私が校庭からコール氏の大きな鼻を見たときはまだ平和な時期で、その後にルメイ将軍のB29の夜間焼夷弾爆撃を受け、欠陥爆弾のおかげで命拾いしたと話をすると、会場中が静まり返った。ハッチ、ニールセン両氏の収容所内での苦難については、ソーリーという。しかし、私たちにも広島、長崎という経験があることを忘れないでほしい。戦争は終わり、今我々は民主主義のパートナー。共に寿司とハンバーガーを楽しんでいる――といって終わると、どっと拍手がわいた。

閉会となった後、人込みの中から一人の老人が出てきて「広島、長崎に触れたのはよかった。私はガダルカナルの生き残りだ。日本兵は本当に勇敢だった」と強く握手され、名前を聞く間もなく立ち去っていった。

■ ルメイ将軍への勲章に絶句

その夜コール氏に、エノラ・ゲイ号とボックス・カー号の説明板に、少なくとも広島、長崎の死者数を入れるべきではないか、事実に目を向ける米国伝統のフェアネスの精神からいって、これはむしろ当たり前のことではないか――との私の提案をぶつけてみた。

コール氏は少し考えて、こう答えた。

「その点については反対ではない。若い世代に戦争の残酷さを伝えていくことは必要だ。核戦争はやるべきではない。しかし、米国内では、あの原爆投下というトルーマンの決断が結果として日米双方の死者を少なくすることに貢献したという評価が根強くある。その辺とどう折り合っていくかだ」

続けて「ドレスデンの和解」の話を持ち出した。日米双方の次の世代のために、民間人無差別爆撃という「棘」を取り除く、犠牲者への鎮魂の儀式をきちんとやるべきではないのかと聞いた。まず手始めにブッシュ大統領が広島を訪れ、平和記念公園で花をたむけてもらうのはどうだろうか。米国内で保守派の支持を得ているブッシュ大統領なら可能なのではないかと言うと、コール氏は呆気にとられていた。ややあってこう答えた。

「そうした考えをポール・ティベット(エノラ・ゲイ機長)とこんど会ったら話してみる。彼は私と同じ年だ。彼がどう思うかが大事だ。彼も私も仕事として戦争をしたのだから。日本側も大統領の花束と同じようなことをしないと、過去の修正は出来ないのではないか」

コール氏が一番驚いた表情を見せたのは、「実は日本政府はルメイ将軍に41年前、最高級の勲章(勲一等旭日大綬章)を贈っているのだ」と私がいった時だった。

彼は「本当か。信じられない」といって絶句した。

「私はルメイ将軍と会ったことも、その指揮下にいたこともない。しかしどういう理由での勲章だったのか」と聞くので、「航空自衛隊育成に貢献したという理由だった」と答えると、コール氏は無言のままだった。

私はこうしてまた、こだわりを抱えたまま、日本に帰ることになった。そこでは中国の反日デモのニュースが火を吹いていた。

(2005年8月号「文藝春秋」より転載)

注目記事