私が住む東京の区では、「古紙を指定時間より早く回収に出さないように」と区役所にかなり言われます。生ゴミと違って衛生問題にならないわけですが、どうも違法な業者がおり、区に委託された業者より早い時間に回って古紙を取り、違法に売っているようです。それを避けるためにあまり早く出さないでもらいたい、とのことです。
なるほどと思うのですが、世のほとんどの人と同じように私はゴミ出しの時間が生活の中心ではなく、早く出かけるときは必然的に早く出すことになります。そして、それが回収さえされれば、何処の誰が持って行ったのか強い関心を持っているわけでないというのが本音です。
さて、そのような違法な業者ですが、当然暴力団と繋がっていると予想されます。今国家で審議されている共謀罪のいう、いわゆる「組織的な犯罪集団」です。それどころか、その業者の主たる目的が犯罪行為であれば、それ自体「組織的な犯罪集団」になるでしょう。そして、早く古紙を出すことでそれら「組織的な犯罪集団」の資金獲得に協力しているこの私は、実は共謀罪の容疑をかけられるのではないでしょうか。
まさかと笑う読者が多いと思いますが、現在国家で行われている議論を見ると、その可能性は決して排除できないでしょう。音楽教室や合唱団が著作権侵害の共謀で「犯罪集団」。テロ集団の資金獲得のためなら、キノコ狩りも犯罪。ATMで現金を引き出すのも散策をするのも「準備行為」。もはや捜査当局の恣意的な断定で、生活のほぼ全てが犯罪となってしまう可能性があるのです。政府の方は「適正に捜査する」と繰り返すだけですが、それは「悪いようにはしないから信用しなさい」と言っているにすぎません。
「公正な裁判があるのだから、悪くない人は有罪にならない」と考えている人もいるでしょう。しかし、それでは共謀罪の真の恐ろしさを認識していません。そもそも捜査当局にしてみると、裁判にかける必要は全くないのです。捜査当局にとっての共謀罪の一番の「旨味」は、それを武器にして市民を意のままに屈服させることが出来るということです。
不意に一時間早くゴミを出した私は、いきなり警察に逮捕されます。犯罪集団の共謀者の一人として、刑務所行きだと散々脅します。そして私が心身ともに参ってしまう隙を狙って、「実は」と切り出す。「このような事件など、我々にとっても大したものではない。それより、君の同僚の某がいるだろう? 彼はどうも政治的に問題がある人間のようだ。その動向について教えてもらえれば、この件はチャラにできる。」弱みがある(と信じ込まされた)私はこのように持ち出されると、当然協力するでしょう。
即ち、最初の「事件」が裁判に持ち込めないほど些細なものであっても、問題はないのです。捜査当局にとって有意なのは、解釈次第でいかなる市民でも「容疑者」に仕立てることが出来るということです。「容疑」をかけられた市民は協力を強要され、いたるところに密告者の網が張り巡らされる。そのような社会を作るところに、共謀罪のように恣意的に運用できる法律の恐ろしさがあるのです。