皇居を散策中、広大な芝生の向こう側に、平たいピラミッドのような巨大な石垣が見えた。旧江戸城の天守台だ。
約40メートル四方の大きさで、高さは約11メートル。この上には以前、さぞや雄大な天守がそびえ立っていたのかと思いきや、実はこの天守台には一度も天守が立ったことはないという。一体なぜなのか。江戸城のミステリーを探ってみよう。
■3回建て替えられた江戸城の天守
初代将軍の徳川家康が江戸幕府を開くと、江戸城を「天下人の城」とすべく大改修に乗り出した。1607年には白亜の天守がそびえ立った。その後、2代将軍の徳川秀忠が1623年に建て替えた。
さらに3代将軍の徳川家光が1637年、石垣を合わせると高さ58メートルの巨大な天守に作り替えている。現在の20階建てビルの高さに相当する。
この天守に関しては外観などの資料が残っており、緑色の銅瓦と黒光りする外壁に覆われていた独特な姿だったという。皇居内には宮内庁が製作した30分の1スケールの模型が展示してある。
しかし、この家光の天守も長くは持たなかった。4代将軍の徳川家綱の時代に、1657年の明暦の大火で、江戸の町や本丸御殿とともに焼失してしまったからだ。
焼失後すぐに天守の再建が計画され、加賀藩約100万石の藩主・前田綱紀(まえだ・つなのり)が焼けただれた天守台の石垣を積み直し、家光の天守と同じ位置に天守台が築かれた。広さは変わらないものの、天守台の高さは7間(12.7メートル)から6間(10.9メートル)に縮小されたという。これが今も残る天守台だ。
天守台が立ち、実に4つ目となる天守が建造されるはずだったが、ここで「待った」をかけた人物がいた。
■「公共工事が長引けば下々の者にも支障があるに違いない」
それが先代の将軍・徳川家光の異母弟である会津藩主・保科正之(ほしな・まさゆき)だった。
当時17歳の4代将軍・徳川家綱の補佐役を務めていた彼は、明暦の大火から2年後に「天守は軍事上は役に立たず、ただそこからの眺めがいいだけ」として「労力を費やすべきではない」と、他の重臣たちに提案したという。
幕府が諸大名の系図を編纂した「寛政重脩諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)」。保科正之について解説した項目で次のように書かれている。
<万治2年(1659年)9月1日、江戸城の工事が終わり、次は天守も造ろうとして大老や老中ら幕府の重臣が相談していたが、(保科正之が)「天守は最近になって造られるようになったもので軍事上は役に立たない、ただそこからの眺めがいいだけだ。このために労力を費やすべきではない」と主張したことで、そのこと(天守再建)はなくなった。>
会津藩士の大河原臣教(おおがわら・おみのり)が、保科正之の業績をまとめた「千年(ちとせ)の松」では、保科の発言がもう少し詳しく書かれている。明暦の大火からの復興が進み、江戸の町は建築ラッシュだった。ここで天守造営の工事が長引けば、民衆にも悪影響があると心配する言葉が続いている。
「天守は少し前に織田信長が作って以来のもので、それほど城の防御に有利ではない。ただ遠くを眺めることができるだけだ。現在は武家も町人も家を作っているときで、公共工事が長引けば下々の者にも支障があるに違いない。このようなことに国家財政を費やすべき時期ではなく、当分は延期するのが適切だ」
幕府の威光を誇示するために、莫大な費用と労力をかけて天守を再建することもできた。しかし、江戸の民衆を思いやった保科の配慮で、江戸城は天守のない城となったのだ
【参考文献】
・中村彰彦「保科正之言行録」(中公文庫)
・サライの江戸・江戸城と大奥/「江戸始図」でわかった“家康の城”の全貌(小学館)
・加藤理文「知る・見る・歩く! 江戸城」 (ワン・パブリッシング)