日本でも普及してきたインプラント治療だが、患者が望んでいるのは健康的に噛めるという結果であって、決してインプラントそのものではない。
歯科医師 平沼一良(右)
骨格を意識した治療を進める歯科医師の平沼一良(ひらぬま かずよし)は、かつて、患者の" 咬合崩壊(こうごうほうかい)に直面したと言う。
「咬合崩壊とは、家屋でいうと、床が腐り反り返った状態です。かみ合わせがなくなってしまうケースについて、30年前、歯科業界はどう対応するか基準値がありませんでした。」
- 「かみ合わせがなくなってしまう」とはあまり聞き慣れない表現ですが、一体どういうことでしょうか?
「歯が全部なくなってしまった。あるいは、歯は残っているけど上下でかみ合わないなど、物を噛むことができなくなる状態のことを指します。他にも、片方が異常に低いケースや嚙めるところがなくなったというケースもあります。本人は嚙めると思うところがあったとしても、それは正しい位置ではなく、基準値よりずっと低い位置で噛んでいる場合などもあります。これらを含めて咬合崩壊といいます。」
- 正しい位置で噛めないと、患者さんはどんなことで困るのですか?
「例えば、下の前歯だけ残っている患者さんがいましたが、下の歯で上の歯茎や鼻の下まで噛んでしまうのです。下の歯が止まっている位置がなくなってどこまでも深く噛んでしまっていたのです。朝起きて、"鼻の下が痛いな"と思ったら、実は自分の下歯で上の歯茎を外側から噛んでしまっているというケースでした。」
- それは深刻ですね。どう対応されましたか?
「色々、勉強をしましたが、歯科の観点からだけでは決定打がありませんでした。そこで、視野を広げて、全身の骨格について勉強していくうちに、自分なりの咬み合わせの基準値を見つけることができました。結局、骨格を勉強せず口の中だけ診ていると、どこにもメルクマール、つまり基準がないわけですね。骨格から正しい位置を導き出さないとどうしようもない、と実感しました。建設でいう水準に平行に家を建てるような訳にはいきません。下顎は常にブランコのように動いているわけですから...。」
咬み合わせは、上下の歯の咬合面(こうごうめん)の精度が重要だ。ただ、生きた人間が動かす歯の接地はジグソーパズルのように形が揃えば良いというほど単純ではではない。理由は、しっかり噛み合っているかどうかの感覚には、サスペンションのように働く歯槽や歯根膜(しこんまく)に内包された固有受容器(こゆうじゅようき)からの神経学的フィードバックが大きく関わるからだ。このフィードバックにおいては、咀嚼筋の伸長反射と三叉神経などが補正の信号を発してバランス調整をする。たとえ上下の歯の形がぴたりと合っても、しっかりと噛めているかどうかの感覚は人それぞれ違う。「上下の歯の凹凸がピタリとはまれば全て解決。」というわけにはいかないのだ。
固有受容器...神経学的な位置・圧力センサー。
伸長反射...伸ばされた筋肉が、固有受容器の作用によって、縮まろうとする反射運動。
(敬称略)