コミュニケーション能力を磨けば、他人と接するときにうまくコミュニケーションをとることができるのだろうか──?
前編では劇作家の平田オリザさんと、ライターの武田砂鉄さんに「コミュニケーション能力とは何か」というテーマでお話を伺いました。
後編では、「わかりあえる」コミュニケーションばかりしていると、「同じような経験をしているという幻想を持ってしまう」「コミュニケーションは能力じゃなくて複数の要素で成り立っている」など、そもそもコミュニケーションとはなんなのか? について深掘りしました。
人間の会話には余計なものがたくさん流入している
武田:えっと、再びサイボウズ式が苦手、という話になるかもしれないのですが(笑)。
*前編では「サイボウズ式」の話し手の顔がアイコンになっていて嫌い。というお話がありました。
武田:こういった対談のテキストって、必ず編集が入るし、平田さんも自分も編集者から送られてきた原稿に修正を入れるので、最終的に掲載される対談は、あたかも2人のコミュニケーションがスムーズに成立しているように見えますね。
とりわけ、こういったサイトでは、会話のやりとりが短く、双方の合いの手が頻繁に入る。
読んでいる人は「この2人はこんな風にスムーズに会話したんだな」と思うけど、まったくそうではない。
「あ、あの、えっと、その〜」と口ごもり、「全然それはもうアレですね」とかよくワケの分からないことを呟く。そうやってノイズになる言葉は、掲載されるときには入らないですよね。
平田:そうですね。
武田:そうやって、整理されたコミュニケーションばかり見せられていると、人間の会話には余計なものがたくさん流入し、付着しているという当たり前のことが、うっかり消されてしまう。
タイトにしぼられて伝わる対話が「良きもの」と理解されてしまう。
だからこそ、平田さんが著書で書かれていた「冗長率」*という考え方は、もっといろんなところで問われたほうがいいと思うんです。
*「冗長率」:一つの文章の中に意味伝達とは関係ない無駄な言葉がどのくらい含まれているのかを数値で表したもの。
どんな人間でも1から10まで伝えたいことを明確に話せる人なんていない
平田:日本では「きちんとしゃべれ」「無駄なことはいうな」ということを教育で教えられます。
最近の学校教育ではアクティブ・ラーニング*、ロジカル・シンキング(論理的思考)、クリティカル・シンキング(批判的思考)などが大切だと言われていて。
*アクティブ・ラーニング:課題の発見や解決方法を、主体的・協働的に学ぶ手法。参加型や双方向型の授業などをそう呼ぶこともある。何を学ぶかではなく、どのように学ぶかということに焦点があたっている。
平田:でもロジカル・シンキングとクリティカル・シンキングを一度に教えることには、無理があるんですよ。
武田:というと?
平田:クリティカル・シンキングって話の腰を折る技術なんですよ。それをロジカルにやると、本当にいやなやつになる(笑)。
平田:僕が、今やっているコミュニケーション教育の最大の目的の一つは、「うまく話の腰を折る」ということです。そこで冗長率は重要なんです。
「おっしゃることはわかるんですけど......」という相手の意見を一度取り入れた上での言い方と、「それはちがいますよね」という最初から突き返してしまう言い方は伝わり方が違うわけじゃないですか。
武田:違いますね。
平田:本当にロジカルに突き詰めて話の腰を折ると、険悪になってしまう。世の中にはうまく話の腰を折る人と、いらつかせる人がいて、どうせならうまく話の腰を折った方がいい。
学校教育は、ヨーロッパでうまくいった方法を、日本語の特性を考えずにそのまま直輸入するから、戸惑う人が生まれてしまうんです。
今の教育だと、40人クラスのうち37人がコミュニケーションを嫌いになってしまいます。
武田:そうですね。どんな人間であっても1から10まで伝えたいことを明確に話せる人なんていないですからね。
武田:数年前まで出版社で働いていたのですが、ある先輩編集者から
「対談の原稿は時間軸に沿って、そのまままとめるだけではいけない。対談の前半で話されたことが後半にまた形を変えて出てくることがある。それはもしかしたら、本人にとっては無意識かもしれない。その時は、後半の部分を前半に移植してみるといい」
と言われて。
平田:うんうん。
武田:この考えを思い出すと、こうして人前で対話する、あるいはそれが掲載される、という行為が少し楽になります。
今この場で、順序立てて言いたいことを伝えなければ、と無理に意識する必要がなくなるわけで。
「わかりあえる」「察しあえる」コミュニケーションばかりしていると、同じような経験をしているという幻想をもってしまう
武田:平田さんに聞いてみたかったのですが、そもそもコミュニケーションとは、と聞かれたら、何と答えられますか?
平田:「そんなものはない」というのが僕の結論なんです。コミュニケーションは能力の問題じゃなくて、モチベーションの問題だと思っていて。
武田:それって、どういうことでしょう。
平田:「伝えたい」という気持ちはみんなありますよね。なぜかというと人間は、「会社」や「家族」といった複数の共同体に属して生きているからです。
武田:はい。
平田:たとえば、ゴリラは家族単位で動くし、チンパンジーは群れ単位で動きます。彼らは、同じ体験をするので、伝える必要がないんですよ。
人間だけが、異なる複数の共同体をまたがって生きている。
お父さんと子どもでも違う体験をしている。だからお父さんが狩りから帰ってきたら、家族に「こんなでかいマンモスがいてさ」と伝えなくちゃいけない。
だから人間には伝えたい、聞きたいっていう衝動も基本的にあると思うんです。
ただ、「わかりあえる」「察しあえる」といった温室のようなコミュニケーションばかりしていると、みんなが同じような経験をしているという幻想をもってしまいやすい。
それによって、「伝えたい」というモチベーションが低下しているんじゃないか、というのが、僕のコミュニケーションへの問題意識の出発点でした。
コミュニケーションは「能力」ではなく、複数の要素で成り立っている
武田:自分はコミュニケーションって、重層性だなって思うんです。
こうして話しているときであっても、自分は100%平田さんのことを考えているわけではない。
目の前にいる編集者の表情を気にしているし、あるいは、「この対談が終わった後、昼飯どこで食べようかな」とか「夕方からの打ち合わせ、面倒くさいなぁ」ってことだって、どこかで頭に置きながら、今こうして対話をしている。
武田:たとえば、今日、駅からこの対談場所に向かっている時に、カメラマンさんと別のことを話していたら、今ここで別の話をしていたかもしれないですし。
平田:ええ。
武田:ここで平田さんとどんなやりとりが行われるかって、平田さんと自分だけで決まることではないはずなんです。
平田:そうですね。
武田:でも、コミュニケーションが能力として問われる時って、自分と平田さんだけで構成されているもの、と考えられてしまう。
武田:コミュニケーションは能力ではなく、時間の流れや環境など、複数の要素があって成り立っているものです。
そう考えないと、コミュニケーションがなにかなんて見えてこない気がします。
平田:その通りだと思います。人間は主体的にしゃべる存在であると同時に、環境によって、他者によってしゃべらされている存在であるということを、僕たちは演劇の中で提唱してきました。
俳優がうまくセリフが言えないのは、もちろん俳優の主体的な能力の問題もあるんだけれど、環境の問題がある。
たとえば小道具が一個なかったり、目の前の風景がいつもと少し違ったりするだけで、あるセリフが出てこないってことが起こるんですよ。
武田:それほど環境に依拠しているものなんですね。
平田:人間の脳細胞って、意味とは関係なく、行為とセリフを関連づけて記憶するようになっている。
俳優だけではなくて、人間の言語活動もおそらくそういうふうになっていますよ。
主体性を否定するわけではなく、主体性の範囲を明確にするといい。どこまで私たちは主体的に喋っていて、どこまで喋らされているのかを意識することが大切ですよね。
武田:そうですね。複数の要素があって成り立っているということを頭に置いて、コミュニケーションなるものとつきあっていきたいですね。
執筆・くいしん/撮影・橋本美花/企画編集・木村和博