平成最後の「歌会始の儀」に、天皇陛下が詠んだ歌は「ひまわり」だった。
宮内庁によると、阪神淡路大震災から10年が経った2005年、追悼式典に訪れた際に、遺族代表の少女から天皇陛下に「はるかのひまわり」の種が渡された。震災で犠牲になった当時小学6年生だった加藤はるかさんの自宅跡地に咲いたひまわりの種だった。
種は、御所の庭に蒔かれた。両陛下は翌年以降も咲いたひまわりから種を採り、育ててきたという。御製は、そのひまわりの成長をつづったものだった。
国民と同じ目線に立ち、被災地をまわってきた天皇、皇后両陛下。時にはひざをつき、目を合わせて話をした。
なぜ被災地へ向かうのか。そこには人間として生まれ、国民の「象徴としての姿」を探し続けた両陛下の思いが込められている。
阪神大震災を機に変わっていった世論
1995年1月17日午前5時46分。兵庫県の淡路島北端付近を震源とするマグニチュード7.3の大規模直下型地震が、西日本を襲った。
消防庁や兵庫県によると、死者6434人、負傷者4万3792人。住宅への被害は63万9686棟にのぼる。
天皇、皇后両陛下は、震災から2週間後の1月31日、被害の激しかった神戸市や淡路島を訪れた。
当初、両陛下が乗る御料車と随員が乗るバス1台を用意する予定だった。しかし、被災状況や被災者感情を鑑みた県からの打診で、両陛下は随員とともにバスで移動することになった。
バスに乗った皇后美智子さまは、窓越しに両手のこぶしを握り「がんばって」と手話を示し、バスの周りに集まった被災者を励ました。
この日の神戸の最低気温はマイナス1.8度。底冷えする体育館は、避難した人たちでごった返している。
当時のニュース映像には、不安な表情の避難者に、両陛下はひざをついて語りかけ、背中をさすり、1人ひとりの話を聞く姿が映っている。
天皇陛下は、このとき背広ではなく黒のズボンとタートルネック、その上に深緑色のジャンパーを着ていた。着の身着のままの避難者に対し、スーツ姿での訪問よりも一層距離感が近くなったように感じる。
阪神淡路大震災以前の1993年の北海道南西沖地震による被災地への訪問や、皇太子時代の訪問では、ワイシャツ姿やスーツにネクタイを締めた姿が一般的だった。
天皇陛下が腰を折り、ひざをついて話すスタイルは、平成が始まったころまでは風当たりが強かった。
1993年の奥尻島訪問では、ひざをつく両陛下の映像が放送されると、町役場に批判の電話が相次いだ。昭和天皇の時代には、ありえなかったことだからだ。
阪神淡路大震災では、評論家の江藤淳氏が文藝春秋1995年3月号で次のように苦言を呈した。
「何もひざまずく必要はない。被災者と同じ目線である必要もない。現行憲法上も特別な地位に立っておられる方々であってみれば、立ったままで構わない。馬上であろうと車上であろうと良いのです」
昭和を過ごし、「現人神」として崇められていた戦前の昭和天皇を知る、一部の保守層の意見を反映したものだった。
今上天皇は皇太子時代の1986年、三原山の噴火で東京都千代田区の体育館に避難していた伊豆大島の住民を訪問したとき、声を掛けても立ち上がれない避難者たちの姿を目にして、自ら腰を落として話を始めた。
ご結婚間もない1960年代前半、訪れた児童施設などでは美智子さまがかがみこんだり、ひざをついて話す姿が印象的だった。そうした美智子さまの考えを取り入れ、ご夫妻で訪問のスタイルを作り上げていったとみられる。
平成の世になり、阪神淡路大震災の被災地訪問以降、批判は少なくなっていき、そのスタイルはだんだんと国民に受け入れられていくようになった。
東日本大震災、被災地を自らの足でまわった
2011年3月11日に発生した東日本大震災では、両陛下が「避難所として那須御用邸を提供したい」と意向を伝えたが、暖房設備がないことなどから宿泊は難しかった。そのため、御用邸の温泉の提供となり、温泉に入る人たちのために入浴用タオル約3400枚が用意された。タオルの費用は、両陛下からの寄付だった。
この時、天皇陛下は77歳。高齢であり、被災地の惨憺たる状況の中で慰問していくのは相当の労力を要する。一人ひとりの話を聞き、受け止めるだけでも疲れはたまる。
福島県などから都内の体育館などに避難していた被災者を見舞った際に、石原慎太郎都知事(当時)から被災地には名代を差し向けてはいかがか、と提案された。だが「東北へは、私が行きます」と陛下は断ったという。
両陛下はその後、千葉県や茨城県、そして宮城県、岩手県をまわった。
2011年5月11日には、震災後初めて福島第1原発事故があった福島県を見舞った。翌年以降も、東北被災3県を10回以上訪れている。
象徴とは何か
「即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました」
天皇陛下は2016年8月8日、退位へのお気持ちを示した。「天皇」の務めとはなにか。陛下は「何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ること」と表現した。
そして、象徴としての思いを次のように伝えた。
天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。
こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。
皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共におこなって来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。
国民の悲しみに向き合い、喜びを分かち合い、同じ目線で過ごす。
超越した存在として国民の上に立つのではなく、一人の人間として国民に寄り添う存在として、天皇、皇后両陛下は全国をめぐった。時には災害だけではなく、公害の被害者や、ハンセン病療養所で隔離された人生を送ってきた元患者の人々の声にも耳を傾けた。
災害、人災、そして戦争。唯一の地上戦となった沖縄の地では、1975年、皇太子時代の初訪問で火炎瓶を投げ込まれたこともあった。だがその後も、両陛下は沖縄への訪問を続け、その回数は11回に及ぶ。
天皇陛下が生きてきた時代の中で、日本各地に刻まれた傷跡の地を訪ねることで、その痛みを和らげていく。それが国民統合として、天皇陛下が探求した「象徴」としての姿なのかもしれない。