
父親のがん治療の記憶といえば、静かな思い出だ。
救急病棟のすぐ傍にあるカーテンで仕切られた、暗い部屋に父と2人。どうしてその部屋にいたのかは覚えていない。大腸がんが原因で具合が悪くなったが、医師に相談した途端に改善したか何かだと思う。1カ所だけだったがんは転移し、聞く人によってがんの進行具合がステージは1やステージ4と様々だった。化学療法、放射線治療、8時間にわたる手術を受け、父は元気にしていた。
元気だったのに、突然、長くて数カ月の命となった。余命は1週間になり、数日へと縮んでいった。
夜が更けた病室で、父の意識レベルは低下していった。薄っぺらい患者衣を着て眠る父の顔からはあらゆる感情が奪い去られたようで、見つめながらつながりを感じつつも惨めさにも襲われた。がん告知から1年も経っていなかったが、22歳だった私は落ち着きを払っていた。そうするほかなかったから。
父の胸部が上下するのを見守りながら、そのリズムに合わせるように自分の呼吸のペースを落とした。忙しなく人が行き交う院内の喧騒のなか、父と私は静かに呼吸のリズムを合わせ、心を通わせた。
父は2017年7月12日に亡くなった。診断を受けてから1年後のことだった。その日は雨が降っていた。小さな雷雨が降っては止みを繰り返していた。
父は自宅のソファで息を引き取った。元気な頃にアイスホッケーの試合を見たり、トッピングはチーズだけのナチョスを食べたりしていたソファで最期を迎えた。夏の暑い空気が網戸から裏庭へと吹き抜けた。「自由に出かけられるように」と父が網戸に開けておくよう頼んでいったのだ。
父は医師による死亡幇助での最期を選んだ。それが父だけでなく、残された私たちにとってもどれほど重要な決断だったか一言では言い尽くせない。父はわずかながらであっても自分らしさを感じられているうちに家族にさよならできた。恵まれていたと思う。
医師の訪問を数時間後に控え、ずっと押さえ込んでいたパニックが吹き出し、突如として過度な興奮状態に陥ってしまった。父と話せるのももうこれっきりになる。最後に話すこととしてふさわしい言葉を必死で探した。何も思いつかなかった。もっと一緒にいることができたら、話したいことがいっぱい出てきたはずなのに。例えば、彼氏にプロポーズされたこととか。友達関係や執筆、昇進で悩んだ時にはアドバイスを求めたかった。どれも今ここでは無理なことばかりだ。父に話を聞いてもらうという未来は、まもなく永遠に奪われてしまった。
父がこの世を去り、年月を経るなかで感じたのは「父に話を聞いてほしい」ではなく「父について語りたい」だった。この気持ちを表現するのにぴったりな言葉やとっかかり、そう口にする自信が見つけられないもどかしさも相まって、言っちゃけない場所で言っちゃいけないことを口走ってしまったことがある。恥ずかしさで体が熱くなり、虚無感と疎外感が押し寄せてきた。
「父なら答えを持ち合わせていたはず」。父の死から数カ月後の編集会議で独り言のように呟いた。「だけどもう聞けない」。
陽気に振る舞おうとしたが、さっき口をついて出た言葉が室内の空気を吸い込んでしまった。会議に出ていた同僚は咳払いをし、自分が答えを見つけるから大丈夫だと言った。口に出してしまった言葉をなかったことにしたくて、机の下で肌に爪を突き立てた。
世界が見知らぬ場所になったようだった。痛みを伴う愛の思い出たちで埋め尽くされている。どこに行っても何をしても父を感じて驚いた。ニール・ヤングの曲、揚げすぎたポテトフライ、リンゴ園、写真展…。父が生きていた頃はこんなところで父の存在を意識することはなかった。今は少し動くだけでも父の一部を感じずにはいられない。
喪失は私の鼓動の一部となり、話し相手が家族や友人、同僚、見知らぬ人など誰であれ、そのことを口にしないのは話の核となる部分に触れないことのように思えた。父が亡くなったばかり。ふさわしい行動をとって。
しかし、まわりの人々はどうしていいかわからないようだった。慰めてくれようとしてくれることが助けになったこともあった。ある友人は斎場のまわりを一緒に歩きながら、時間を気にせずに私の気が済むまで話を聞いてくれた。父が若かった頃の話をしてくれた家族ぐるみの友人もいた。悲しみの奥深くに沈んだ私を引き上げてくれた。
しかし、死について話すことに気まずさを覚える人もいた。私の悲しみを「治そう」としてくれるのだが、やり取りは指示的なもの(ある同僚からは自信満々に「普通に感じるようになるまで2年かかる」と言われた)やおこがましさのあるものになった。
その中でたびたび耳にした言葉がある。
「本当に残念です。お母様も本当にかわいそう。何か私にできることがあったら…」。これらの言葉の多くはぷかぷかと空中を漂い、積み上がったお悔やみの山にふんわりと乗っかっていく。しかし、その中には皮膚を突き抜けてくるものがあった。
「あなたの大変さはよくわかります」
これだ。
もう一つある。
「乗り越えられる日はきません」
多くの人がまったく同じ言い回しをするのには驚いた。「これほど大きな出来事を乗り越えることはできません」と葬儀の時に言ってきた人もいる。見慣れない顔だったが、葬儀の場にいた誰もがそうだったように、この人物もまた私のことを知っているようだった。父が仕事場に置いていた写真か、父が財布に入れていた写真か、メールで送った写真かで私を見たことがあるようだった。
「まだこんなに若い子どもを残して」というこの人物のハグを感覚のなくなった体で受け入れ、見知らぬ人の香水のにおいとがっしりとした腕で抱きしめられた。乗り越えられる日はこないという言葉が刃となり、私の体を切り付けてきた。
もちろん善意からの発言だったと思う。私が悲しむのは当然で、悲しみの深さは否定できないと伝えたかったのだろう。でも、だからといって「乗り越えられる日はきません」と言うのはいかがなものだろうか。
私を慰める意図だったかもしれないが、その言葉で私は奈落に突き落とされた。「これほど大きな出来事を乗り越えることはできない」という世界では、私は不可抗力なものによって不可逆的にボロボロになっている状態だ。
葬儀から数週間後、「自分が若いことはわかっている」と日記につづった。「私のためを思ってすべてを説明しようとしたくなることも理解できる。しかし、父の希望とは相反するものがあるように感じる。父がくれた最後のアドバイスは『人生を楽しみ、自慢の娘になって』というものだった。永遠に乗り越えられない悲しみによってボロボロになった状態のままで、どうやって父のアドバイスに従えるというのか」
長い闘病生活と共に歩んだことに共感を示そうとしてくれた人たちもいる。すぐに亡くなったり、突然の死だったりすれば、少しは楽だったかもしれないと言う人は1人ではなかった。
暗いアパートでお酒を飲みながら「交通事故だったら一瞬だったろうに」と友人の友人が言った。そうすれば私の悲しみは違っていたというのだ。

私は「そうですね」と言って甘ったるいワインを一口飲み、もう何も話さないようにした。友人の友人は、医療制度の欠陥について語り続けていた。
がん体験を頑固に擁護するつもりはない。1年間お見舞いに通い続け、長時間の手術、父がゆっくり弱っていく姿を見ることで、心は引き裂かれていった。しかし、悲しみがどれほどのものかとの関連性はないと昔も今も思う。
ゆっくり流れる蛇口もあるし、勢いよく流れる蛇口もある。どちらにしても結果は同じだ。大切な人を亡くすことに変わりはない。どれほどの警告があったとしても、お別れするのに十分ということはない。どんな悲しみも、プレッシャーの大きさを軽減することはできない。
しかし、黙り込むことが癖になりつつあったこともあり、私は何も言わなかった。
ひび割れたビニール製のスツールをむしりながら、残っていた少ないエネルギーをかき集め、慈悲のある人間であろうと頑張った。「交通事故だったら一瞬だったろうに」と言った友人の友人は意地悪をするつもりでも、浅慮だったわけでもない。伝え方は下手だったが、痛いほど本気で同情しようとしていたのだ。
これらのやり取りを通して、また、私自身も模索を続ける中ではっきりしたことがある。生きるうえで最もありふれた物事の一つである「死」について、身近か否かにかかわらず、どう話していいかわからないのだ。その理由もあって、気にしないようにしたくなる。結局のところ、話すだけでは限界があるのだ。
悲しみへの答えというものが存在するとして、その答えを他人に教えてもらうことはできないと思っている。他人の干渉を受けないのはとても大切なことだ。そうなると、人から言われたことに頼るのではなく、自分を立ち直らせるのは自分自身ということになる。
父の葬儀では多くの家族や友人がそばにいてくれて、泣きはしなかった。でも、仕事に向かう車の中では数えきれないほど泣いた。当時は通勤が一人きりになれる唯一のチャンスで、悲しみと交わる時間となり、体内で脈打つ喪失感がどう対応してもらいたいのか私に伝えてきた。
しかし同時に、鬱々とした気持ちに囚われることもあり、それは大きな車に割り込み運転を仕掛けたり、運転中に一瞬目を瞑ってみたりという愚行に出る形で現れた。
人生が小さく縮んでしまったようだった。こうやって通勤の車で泣いて、仕事をして、夜あまり眠れない日々をひたすら繰り返しているうちに、数年がまるで一瞬かのように過ぎ去り、母が体調を崩して亡くなり、おばたちも、きょうだいも、友人も、そして夫も同じように死んでしまう姿が目に浮かんだ。私には人生が真っ平な上に痛みが積み重なっていき、そして何もなくなるように感じられた。
「日々生きるだけで恐ろしく疲弊する」。日記に書いた。「何も感じない。眠りから覚醒できないでいる感覚。自分らしさを取り戻したいと思っているけれど、この危機的状況に飲み込まれそうで、どうしたら立ち直れるのかわからない」
「生きている世界」とのつながりを感じられる瞬間がこま切れで訪れる。その瞬間だけが何が起きたか認識できるチャンスだった。ごぼごぼと溺れていて、私が喪失感について打ち明ける時は空気を求めてあえぐことだった。誰も私を岸まで連れていくことはできないが、生きながらえさせてくれた。ぎこちなくて傷つけられたやり取りでさえ、窒息しそうな私の中でうねる大きな波を吐き出す助けとなった。
このエッセイで伝えたいのは、叱ったり、恥をかかせたり、噂話をしたりすることではない。中には悲惨な詳細だけを知りたがったり、区切りをつけて前に進みたがったりする人もいたが、多くの人がボロボロな私を見て立ち直らせたいという思いから勇敢にも関わろうとしてくれた。心配してくれて、私がなかなかできないでいた「喪失感について話す」ことを促してくれた。この人たちの言葉選びに複雑な気持ちを抱きはしても、間違いなく感謝している。
今でははっきりとわかるが、かけられた数々のちょっとした言葉を振り返って思うのが、その多くは「私について」ではなかったということだ。その人たち自身が経験した喪失感から出てきた言葉だったのだ。
「誰かのために強くいる」「一生ついて回る」「突然の死の方が簡単かもしれない」…。これらの言葉はそう話す人たちが自身の悲しみ、トラウマ、忘れられない痛みを伝えようとしたものだったと思う。悲しみながら生きた人生、終わりに向かう重い足取りという強さ、あるいはその強さを持ち合わせていない人々の記憶なのだ。みんながそれぞれの話をしてくれて、私がヒントに思えることを提供しようとしてくれた。
アドバイスやお悔やみから親など近しい人の死を経験した話へと違和感なく話題を移し、率直に話そうとしてくれた人たちもいた。口には出さないけれど、具体的なアドバイスと悲しみと死にまつわるタブーに慰みを見出すところは、その人たち自身の経験から来ていたはずだ。
父が死んで数カ月間はモヤがかかったようだったのだが、そんな時に年配のライティングの先生が「何か創作してみてはどう?」とアドバイスをくれた。「家から出て、人と交流すること」を勧められた。
悲しみは水のようなものだと思う。感情と記憶が大海原のうねりのようで、私の魂をあますことなく求めてきて、内側から引き裂いてくるようだ。泣きじゃくり、日記を書き、話すというのはいずれも蛇口が開いている状態だ。再び呼吸ができる余白を作るために、プレッシャーを和らげてくれるのだ。一気に吐き出すのはなかなか難しいが、永遠に内側に押さえ込むのも耐えられない。
悲しみは人それぞれで、トラウマは人によって違うとわかっているが、プレッシャーは多くが感じているものだろう。死の話になった時にお互いの会話に飛び込むのは不思議じゃないのではないか。誰かの悲しみについて話すというのは、自分自身の悲しみについて話し、抱えているプレッシャーを吐き出すチャンスでもあるのではないか。その衝動によってお互いの仲がより深まるわけではないが、それが人間であって、時に必要なことなのだ。
「悲しんでいる人にどう話しかけたらいいのか」という問いに対し、どこかの誰かが確固たる答えを持っているのかもしれない。その誰かは少なくとも私ではない。親やパートナーや子どもを亡くし、私が父を失ったぐらい大きな喪失感と向き合っている知り合いは何人もいる。彼らに正しい言葉をかけられる自信はない。ただ、言葉をかけてみることが大切だと思う。まずは耳を傾け、優しく問いかけ、思い込みは排除する。時々、自分の経験を話しすぎてしまう。私自身の中にまだプレッシャーがあって、蛇口を開いて和らげたいという気持ちがあるようだ。
チャンスさえあれば父のことを話したい気持ちが今でも残っている。裏庭で花を育てていたこと、植物や鳥の名前を教えてくれる父の声が今でも聞こえること、私が執筆したものを読んでくれたこと(最初に書いた長すぎる小説も!)、夕食後に一緒に音楽を聞いたこと、病室からも子育てに参加してくれたこと(疲れている私に帰って寝るように諭し、看護師さんがどこにアイスを隠しているか教えてくれた)、少なくとも2年間は幸せの可能性を信じることをやめたことなど…。
恐れていたように、私はダメになってしまったのだろうか。誰かに言われたように、悲しみを乗り越えられないのだろうか。
そうなのかもしれない。もしめざすところが、父を失ったことが私を定義しない「通常」の状態に戻ることであるならば、私は間違いなく失敗したことになる。チャンスはなかった。好むと好まざるとにかかわらず、私は父を失う前とは別人なのだ。起きた出来事について話したいと思うようになったのだ。
他人の苦しみを和らげる方法はわからない。自分にまた同じことが起きた時に耐えられるかさえわからない。蛇口を開ける正しいタイミングを探り、心が求めるものを与えようと思う。そして、心地いいかは別にして、他人が喪失感を声に出して嘆くことを受け入れたい。誰も何が正しいかわからないし、この類の話は繊細だ。傷ついたとしても話すようにした方がいいと思う。
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筆者のCarly Midgley氏はカナダでライター兼フリーランスの編集者として活動するほか、図書館プログラムのプランナーでもある。Instagramは@carlymidgleywrites。Webサイトはcarlymidgley.com。
ハフポストUS版の記事を翻訳しました。