「真っ黒い焼死体の山」「火の海で叫ぶ人々」孤児になった少女が見た東京大空襲。10万人が犠牲になったあの夜に起こったこと

東京大空襲の発生当時10歳だった元木キサ子さんは、空襲で両親を失い孤児となりました。焼死体が山積みになった光景は「脳裏に焼き付いて消えない」と語ります。

「真っ黒い焼死体が道路一面に広がり、橋の上で山積みになっていました」

80年前の3月10日、東京を大空襲が襲い、一晩で10万人が命を落とした。

空襲は、多くの子どもたちから両親を奪った。

当時10歳で、弟と火の海を逃げ惑った元木キサ子さん(90)も、孤児となった子どもの一人だ。

焼け野原で、焼死体が山積みになっていた光景を振り返り、「脳裏にしっかり焼き付いていて、消えることはない」と語る。

元木さんは3月9日、空襲に遭った菊川の自宅から約600メートルの場所に位置する森下文化センター(東京都江東区)で開かれた「東京大空襲を語り継ぐつどい」で、当時の記憶を語った。

東京大空襲の記憶について語る、元木キサ子さん
東京大空襲の記憶について語る、元木キサ子さん
Sumireko Tomita/ HuffPost Japan

弟の手を引き逃げた火の海。轟音と人々の叫び

元木さんは本所区(現・墨田区)菊川の自宅に、両親や兄、弟2人と住んでいた。木造住宅や工場が密集する地区で、空襲では大きな被害を受けた。

国民学校4年生だった元木さんは1944年夏から千葉県に疎開をしていたが、45年3月4日に父親が疎開先を訪れ、その時に一緒に東京の自宅へ帰った。そしてそれから1週間も経たないうちに、大空襲が発生した。

弁護士の父親は、自宅の裏の建物で、地域で経済的に困っている人たちの支援や無料法律相談、子どもの無料学習支援などを行っており、その建物の地下に防空壕が掘られた。

大空襲の日も、その防空壕に逃げ込むように母に言われ、桃色の防災頭巾を被った弟と防空壕に身を潜めた。

学童疎開では避難訓練も防空壕も経験したことがなく、何がなんだか分からないままに、両親を待った。

両親を待っている間に、聞こえてきたのは「何ぐずぐずしてる!早く逃げないと焼け死ぬぞ!」という大人の怒鳴り声。

命を守るために取るべき行動はどちらか。まだ1年生だった小さな弟の手を引き、防空壕を飛び出した。

「突然目に入った橋の向こうには、空から仕掛け花火を逆さにしたようなキラキラと光る光の束が落ちてきていました。そうすると、わっと火の海が広がりました」

必死に逃げようと駆け出した新大橋通りは、まるで満員電車のように人が溢れ、焼夷弾が町を襲った。

強風が吹き荒れ、トタン屋根やバケツが飛ぶ中、飛ばされそうになりつつも、弟と必死に逃げた。

「言葉でしか知らなかった『空襲』『焼夷弾』が目の前で起きていて、目の前は突然、戦場になっていました」

混乱する人々と共に逃げ惑う中、突然強風が吹いて、大きなトタン板が元木さんに向かって飛んできた。

板を避けようとした衝撃で右足の靴が脱げ、ハッと気づいた時には、手を繋いでいた弟がいなかった。

「弟のことを呼びたいのに声も出ません。絶え間なく波の様に聞こえてくる、物凄い轟音。私はどうしてよいのかわからず、途方にくれていました」

爆発音と火の海、人々の叫び声。強風の中、必死に走った。

山積みになった「真っ黒の焼死体」

元木キサ子さん
元木キサ子さん
Sumireko Tomita/ HuffPost Japan

現在の地下鉄・住吉駅近くにある猿江恩賜公園に辿りつき、木の根元に座っているうちに、あたりは明るくなった。

家族を探さねば、家に帰られねばと思い歩き始めると、道路のあちこちに「黒いもの」が転がっているのに気づいた。

「ハッと息を飲みました。人間の真っ黒い焼死体は、大人ともわからない。もがき苦しんだ形のままでした。めちゃくちゃな形でした」 

菊川橋に辿りつくと、焼死体が山積みになっていた。

「橋の端から端まで、天井の高さほどに絡み合って溶け合った、真っ黒い焼死体の山でした。ふと見た川は水が見えず、水死体がびっしりと重なり動かずに浮かんでいました。

途中、道の焼死体をスコップで、ザクッザクッと音を立てながらトラックに投げ込むように積んでいる人もいました。夜中からの恐ろしいことはみんな本当のことだった。私の感覚はすっかり麻痺していました」

悲惨な光景を目の前にしながらも、残った片方の靴だけで歩き続けた時「桃色の防災頭巾」をつけた男の子を見つけた。逃げる間にはぐれた弟だった。

母が「はぐれた時に目立つように」と桃色にしてくれた防空頭巾のおかげで、再会することができた。

空襲後の東京の焼け野原
空襲後の東京の焼け野原
Ullstein Bild Dtl. / Getty Images

両親を探しに焼け残った中和国民学校に行くと、全身包帯でぐるぐる巻きになった人や赤く腫れ上がった人たちで溢れていた。

両親は見つからなかった。

孤児として生きた戦後の地獄

東京大空襲を経験し、5ヶ月後に終戦を迎えた後も、孤児たちの「地獄」は続いた。

母親たちと一緒に逃げた大人に連れられ、祖母の家にたどり着いた。

「そこで一緒に逃げた大人から、両親は防空壕からいなくなった私と弟を探しながらげ切れず、火に巻かれて菊川橋のたもとで亡くなられたのでしょう、と告げられたのです」

それを聞いた祖母からは「なぜ一緒に逃げなかった。だからお母ちゃんが死んだ。お前らが死んで、お母ちゃんが生きていればよかったんだ」と言われた。

「10歳の私の心に、その言葉が突き刺さりました」

学童疎開に出ていた兄の帰りを待って、両親らの「骨のないお葬式」を済ませた。

小学6年生の兄、4年生の元木さん、1年生の弟の3人は「孤児」となり、行き場もなく祖母の家に身を寄せたが、差別や虐待に晒された。元木さんは「労働力」として毎日、家族12人分のごはんを作り、家事をこなした。

小学1年生だった弟はいとこたちのいじめの標的となり、ある日、畑から「殺される」と紫色の頬になって逃げてきた。

国の調査などでは、太平洋戦争で孤児になった子どもは12万人以上に上ったとされている。

どう戦争を語り継ぐのか。次世代が模索

元木さんがこの日、空襲の記憶を語った「東京大空襲を語り継ぐつどい 東京大空襲・戦災資料センター開館23周年」は、「東京大空襲を語り継ぐつどい実行委員会」が主催した。

東京都江東区北砂に2002年に開館した東京大空襲・戦災資料センターは民立民営による資料館で、これまで累計23万6000人が訪問してきた。

センターでは東京大空襲の写真や資料を展示し、語り継ぐ活動を続けており、修学旅行生などの団体見学の受け入れのほか、3月10日や8月15日などの節目には、空襲経験者が証言を語る会なども開いている。

2024年8月に東京大空襲・戦災資料センターで行われた、空襲の経験を聞く会。
2024年8月に東京大空襲・戦災資料センターで行われた、空襲の経験を聞く会
Sumireko Tomita / HuffPost Japan

終戦から80年となり、空襲の経験を証言できる人が少なくなってきている中で、力を入れているのが、若い世代が空襲の記憶を語り継ぐ活動だ。

同センターの学芸員の比江島大和さんは、「今ならまだギリギリ、体験談を直接聞けるという時期でもある」として、こう話す。

「私たちは空襲体験やそれに紐づく資料をしっかりと『残し』、そしてそれをどう『伝える』かという課題に取り組み、本人に代わり体験を伝える継承者の育成や、ウェブサイトでの資料公開などを進めています」

空襲経験者からの聞き取りやビデオ作成などに加え、都内の小中学生や大学生など、若い世代とも連携して、活動の幅を広げている。

この日の会では、センター開館から17年間にわたり館長を務めた、作家の故・早乙女勝元さんが、空襲の経験を元に書いた紙芝居「三月十日のやくそく」を昭和女子大学附属昭和中学校・放送部の生徒が読み上げた。

早乙女勝元さん著、紙芝居『三月十日のやくそく』
早乙女勝元さん著、紙芝居『三月十日のやくそく』
Sumireko Tomita/ HuffPost Japan

比江島さんは、若い世代とも連携し、継承していくことの重要性も指摘した上で、「東京大空襲を学ぶということを通じて、今起こっている戦争のことを知り、平和とは何かを考えるきっかけにしてほしい」と呼びかけた。

(取材・文=冨田すみれ子 / ハフポスト日本版)

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