除染土の再生利用、福島・元飯舘村長が実証事業を受け入れた理由。過去には村外の廃棄物処理も決断、原点は「までいの精神」

東日本大震災から14年。原発事故後に出た除染土の再生利用の実証事業を進める飯舘村は過去、「仮設焼却施設」の建設や周辺自治体の廃棄物の受け入れも決断しました。元村長・菅野典雄さんにインタビューしました。【シリーズ「除染土と県外最終処分」】

福島県大熊、双葉両町が「苦渋の決断」で受け入れた中間貯蔵施設には、東京電力福島第一原発事故後の除染で出た除染土が「東京ドーム約11杯分」ほど保管されている。

除染土は2045年3月までに県外で最終処分されることが約束されており、国は処分量を減らすための「再生利用」を進めたい考えだが、東京や埼玉で計画されていた実証事業が停滞するなど、全国的な理解には至ってはいない。

一方、第一原発から約40キロ離れた福島県飯舘村では、実際に除染土の再生利用の実証事業が行われている。過去には、除染廃棄物を焼却・減容化する「仮設焼却施設」を「福島全体の復興を加速させるため」と引き受け、村外の廃棄物の処理を認めたことでも知られる。

①除染土の再生利用の実証事業をいち早く受け入れた②いわゆる「迷惑施設」を率先して受け入れ、村外の廃棄物の処理も認めたーー。この飯舘村の二つの決断から、除染土の問題を解決する糸口をつかむことはできないか。

ハフポスト日本版は2月上旬、雪の積もった飯舘村を訪問し、仮設焼却施設や実証事業の受け入れを判断した元村長・菅野典雄さんにインタビューした。

◇菅野典雄さんプロフィール◇

1946年、飯舘村生まれ。帯広畜産大学卒業後、酪農を営む傍ら村公民館の嘱託館長を務める。1996年に飯舘村長選挙で当選。6期24年務め、2020年に退任した。原発事故で村は全村避難を経験したが、生活の変化のリスクを考え、村民の9割の避難先を村から1時間以内の場所に求めた。仮設焼却施設や除染土再生利用の実証事業の受け入れも決断した。

元飯舘村長の菅野典雄さん(2月7日、福島県飯舘村で)
元飯舘村長の菅野典雄さん(2月7日、福島県飯舘村で)
相本啓太

◇「避難して20年後に帰ってきたら」と言われた

——1996年から2020年まで飯舘村長を6期務めました。原発事故後はどのような思いで村の運営をしてきたのでしょうか。

原発事故以降、私たちは「被害者」で、国・東電は「加害者」という関係になってしまいました。私は「被害者」の代表として、国・東電と向き合っていく立場になったのです。

この時、ふと頭によぎったことがありました。それは、瀬戸内海に浮かぶ香川県の豊島(てしま)の話です。かつて産業廃棄物が大量に不法投棄されるなどし、環境汚染や風評被害に見舞われましたが、現在は「アートの島」として有名になっています。

豊島の環境再生には、産廃物などの無害化処理を担った近くの直島(香川県)の協力も大きかったそうです。私はこの話から「利他の心」を学び、自らの立場や利益ではなく、村長として村や村民のために働くことを改めて誓いました。

1996年に掲げた「公正無私」という信念も貫いてきたつもりです。答えは決して100点だけではなく、立場や利害を超えた先に着地点が見つかることもあります。

原発事故の被害者でありながらも、国・東電の立場を理解しつつ、対等な立場に立って提案したり、話し合ったりし、70点を75点、80点にできないかと試行錯誤してきました。

——原発とも縁がなかった飯舘村でしたが、原発事故で全村避難することになりました。

飯舘村は原発事故から約1カ月後の4月22日、計画的避難区域となり全村避難することになりました。国は県外避難の案を提示してきたのですが、私は村民が村から1時間以内の距離にある県内の自治体に避難できるよう求めました。

その距離であれば、避難生活中も仕事を継続できるかもしれない、学校を転校しなくても済むかもしれない、孫が祖父母と気軽に会えるかもしれない、仲の良いご近所さんとも顔を合わせることができるかもしれない。当時はそんな思いで判断しました。

特別養護老人ホームなどもそのまま村内で運営できるよう国と交渉し、例外的に承認を得ました。放射線のリスクは当然考えなければなりませんが、同時に生活の変化によって起こるリスクもあると報道などを通して知っていました。

「見捨てるのか」「人殺し」「モルモットにする気か」ーー。当時、こうした考え方については散々批判されましたが、高齢者が移動中に体調を崩して亡くなるケースがあることを考えると、当時の判断は間違っていなかったと思います。

村から近いところに村民たちが避難したことによるメリットもありました。村の課題が出る度に皆で集まって話し合うことができたのです。多くの人と情報を共有し、議論を円滑に進めることができました。

「飯舘村は住めるところではないから、皆で避難して20年後に帰ってきたほうがいい」と言われたこともあります。その通りにしていたら飯舘村はバラバラになっていました。人も生きる、村も生きる。これが本当の復興です。

原発事故後、計画的避難区域となった福島県飯舘村。菅野典雄村長(左)に政府の対応を説明する枝野幸男官房長官(2011年4月17日、福島県飯舘村で。肩書はいずれも当時)
原発事故後、計画的避難区域となった福島県飯舘村。菅野典雄村長(左)に政府の対応を説明する枝野幸男官房長官(2011年4月17日、福島県飯舘村で。肩書はいずれも当時)
時事通信

◇除染土再生利用の実証事業、仮設焼却施設を受け入れた理由

——中間貯蔵施設内の除染土は2045年3月までの県外最終処分が決められていますが、処分量を減らすための再生利用の理解醸成は進んでいません。一方、飯舘村は2017年11月、いち早く再生利用の実証事業に合意しました。

中間貯蔵施設を「苦渋の決断」で受け入れた大熊、双葉両町の負担を少しでも軽くしたいという思いがありました。また、村内の20行政区のうち、唯一「帰還困難区域」となった長泥(ながどろ)地区を何とかしたいという気持ちも大きかったです。

飯舘村は2017年3月、長泥地区を除く19行政区で避難指示が解除されました。取り残された人々は「自分たちだけ帰れない」「見放されている」と感じてしまう。そこで、実証事業に手を挙げて除染や環境整備が進み、復興に向けた機運が高まれば、長泥地区の「第一歩」になるかもしれないと考えました。

内容は、村で発生した放射能濃度が「1キロあたり5000ベクレル以下」の除染土を再生資材化し、盛土を行い、その上に覆土することで営農しやすい農地の造成をするというものです。村内の除染土を使用するため、中間貯蔵施設への搬入量を減らすことにもなります。

実証事業の実施に向け、安全性や未来に関して長泥地区の住民らと議論を重ねました。不安に感じる人もいましたが、安全性を理解し、最終的には「このままではどうしようもねえからやってみっぺ」という話に落ち着きました。

実証事業では、農地造成のほかに花や野菜の栽培も試験的に行われています。作物の放射性セシウム濃度は基準を大きく下回っており、安全性の心配はないことがわかっています。

当時は「今できることを前向きに踏み出そう」「ゼロからではなくゼロに向かってスタートしよう」という気持ちでした。長泥地区の一部ではありますが、2023年5月に「特定復興再生拠点区域」で避難指示が解除されました。今後も着実に復興は進展していくと思います。

——飯舘村は2013年10月、除染廃棄物などを燃やす「仮設焼却施設」の建設を発表しました。中間貯蔵施設と同様、「迷惑施設」と反対意見が飛び交う中、建設だけでなく村外の廃棄物の受け入れも認めました。どのような理由があったのでしょうか。

仮設焼却施設は誰かが受け入れなければならない施設でした。当時は廃棄物の早急な処理が喫緊の課題で、特に臭いの酷かった下水汚泥については多くの自治体が早く処分したいと思っていました。

さらに仮設焼却施設を建設する場合、周辺の自治体の廃棄物も受け入れてほしいと国から提案されました。「なぜ村外の分まで」と拒否することは簡単ですが、村民が避難してお世話になっている自治体の悩みを解消できるかもしれないと思いました。

村民らとの話し合いは長期間に及びました。安全性については、バグフィルターによって排ガス中の放射性セシウムはほぼ完全に除去できると国から説明を受けました。私が主に訴えたのは「までいの精神」についてです。

「までい」という方言には「丁寧に」「心を込めて」といった意味があります。「思いやり」「お互い様」という意味でも使われています。飯舘村は決して裕福な村ではなく、冷害に悩まされることも度々ありました。

だからこそ「までいの精神」を大事にし、支え合って生きてきました。村には今でもその精神が根付いています。

話を戻すと、私は村民らに「『困った時はお互い様』が飯舘の誇りである『までいの精神』」「これまで力を合わせて乗り越えてきた」「避難でお世話になっているけど困り事はお断りでいいのだろうか」などと話しました。

考えに賛同してくれる人も増え、仮設焼却施設が建設され、村外の廃棄物が運び込まれることになりました。周辺自治体も感謝していたようです。村民の理解と決断を誇りに思っています。

長泥地区で進める除染土を利用した試験栽培について説明を受ける住民ら(2020年10月6日、福島県飯舘村で)
長泥地区で進める除染土を利用した試験栽培について説明を受ける住民ら(2020年10月6日、福島県飯舘村で)
時事通信

◇「大熊町、双葉町だけの特別な問題ではない」

——福島全体の復興のために中間貯蔵施設を受け入れた大熊、双葉両町の思いについてはどう考えていますか。

双葉町の伊沢史朗町長と大熊町の渡辺利綱前町長は、苦渋の決断で中間貯蔵施設を受け入れました。福島全体の復興のためとはいえ、説明に追われ、批判を受け、精神的な負担も大きかったと思います。地権者の思いも相当なものでしょう。

あっという間に10年が過ぎ、除染土の県外最終処分の期限まで20年になりました。国も一生懸命なのでしょうが、特に県外の理解を得るのはそう簡単ではありません。

福島県外の自治体の首長が昔、自らの自治体で出た廃棄物を「飯舘村の仮設焼却施設で処分すればいい」と発言しました。私は拒否しました。そもそも廃棄物は福島県が出したものではなく、原発事故によって発生したものです。

「福島に押しつければいい」という感覚がある限り、問題を解決することは難しい。科学的な安全性に関する理解はもちろんですが、その土地の思いを知ることも大切です。

——除染土の問題はどうすれば解決に一歩ずつ近づいていくと考えていますか。

国には、中間貯蔵施設受け入れの経緯や地元自治体の思いをくみ取り、県外の首長ともしっかり向き合ってほしいと思います。福島県も「双葉と大熊のためにお願いします」などと地元の思いを積極的に発信してほしいです。

「説明している」「国の責任で」と言うだけでは、理解してくれる人はなかなか増えないのではないかと感じています。

2023年、青森県の自治体が除染土の再生利用の実証事業に前向きだというニュースを複数のメディアが報じました。しかし、それから動きはありません。福島県の自治体でも首長が除染土の再生利用について前向きな発言をしたところ、批判の声が相次いで謝罪することになりました。

このような状況から考えると、個々の自治体だけでなく、都道府県としても向き合わなければ物事が進まないような気がします。

立場が悪くなるかもしれない。票を減らすかもしれない。政治家としてそう思う気持ちはわかります。ただ、中間貯蔵施設や除染土は「大熊町、双葉町だけの特別な問題ではない」のです。「までいの精神」で、福島の復興に向き合ってくれる人たちが増えることを願っています。

(取材・文=相本啓太 / ハフポスト)

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