東京電力福島第一原発事故後の除染で出た「除染土」を保管する中間貯蔵施設について、約10年前に「苦渋の決断」で受け入れを判断した福島県大熊町の元町長・渡辺利綱さんが2月、ハフポスト日本版の単独インタビューに応じた。
2019年に町長を退任して以降、中間貯蔵施設に関する個別取材にはほとんど応じてこなかったが、一連の問題を全国の人に「自分のこと」として捉えてほしいという思いから胸の内を明かした。
中間貯蔵施設に保管されている「東京ドーム約11杯分」の除染土は、放射能濃度が低いものを再生利用するなどした上で、2045年3月までに県外で最終処分されることが法律に明記されている。
この「国の責務」を前提に、大熊、双葉両町の住民は先祖代々受け継いできた家や土地を一時的に手放す決断をした。しかし、全国的な理解醸成は進んでおらず、除染土の最終処分に関する認知度は福島県外で約2割にとどまっている。
「『総理が頭を下げたら受け入れてくれますか』と言われたが……」「戦時中でも土地と家を手放して出ていけと言われたことはない」ーー。
町はどのような思いで中間貯蔵施設を受け入れたのか。町民それぞれが長い時間をかけて導き出した決断とは何か。渡辺さんに、当時の言葉や光景をたどってもらった。
◇渡辺利綱さんプロフィール◇
1947年大熊町生まれ。1991年から2007年まで町議会議員、2007年から町長を3期12年務めた。1期目の途中に東日本大震災と東京電力福島第一原発事故が発生し、全町避難や役場機能移転などを陣頭指揮した。2014年に中間貯蔵施設の受け入れを「断腸の思い」で決断。2019年の大川原・中屋敷地区の避難指示解除、役場機能の帰還を見届けて退任した。

◇「別の場所で町民が一緒に住めば町ができる」とは思えなかった
——町長を退任してからほとんど取材を受けていないと伺っています。
退任した人間が余計なことを言ってはいけないと思い、基本的に取材は断っています。特に中間貯蔵施設の話は、双葉町の伊沢史朗町長や福島県の内堀雅雄知事らが今も現職で頑張っています。ただ、中間貯蔵施設の受け入れを決断した元町長として、取材を受けなければならないなと思う時もあります。
——大川原・中屋敷地区の避難指示が解除された2019年に町長を退任されました。それから約5年、どのような心境で過ごしてきましたか。
自分が住んでいる町の復興は気になります。町長を退任してから見えるものはやはり違いますね。避難指示解除の直後は復興の現場を見にくる人も多くて、車や大型バスもよく通っていましたが、段々と落ち着いてきたようです。
ただ、今でも大川原地区の交流施設「linkる大熊」の駐車場にはたくさんの車がとまっていますし、勉強に来た学生たちが街中を歩いています。避難指示解除までの道のりについて、全てにおいて「うまくいった」とは思っていません。今でも自問自答の日々を過ごしています。
そんな中で当時の自分に言い聞かせていたのは、「現状を受け入れてとにかく前に進むこと」でした。私に届く声の7、8割は厳しい批判でしたが、これは町のトップとしての宿命です。
——原発事故があった年の2011年11月の町長選では、対抗馬が「帰れないことを前提に取り組む」と訴えた一方、渡辺さんは「故郷に戻ることが原点」と主張して再選しました。
「あれは本心だったのか」と聞かれますが、間違いなく本心でした。「大熊は人が住めるようになるのだろうかと思っていた」と当時を振り返る人もいますが、「町長がぶれなくてよかった」と言ってくれる人もいます。
原発事故で全町避難することになりましたが、「別の場所で町民が一緒に住めば町ができる」とはどうしても思えませんでした。町は長い時間をかけ、文化や歴史などが積み重なりできていくものです。だから戻るのです。
職員も一生懸命頑張りました。議員も協力してくれて、町民も後押ししてくれました。まだ避難指示の解除は一部地域にとどまりますが、周囲の人が支えてくれたおかげで今の大熊町があります。

◇「総理が頭を下げたら中間貯蔵施設を受け入れてくれますか?」
——先ほど批判が7、8割だったと聞きましたが、特に大熊町など双葉郡の首長はほとんど休むことなく走り続けていましたよね。精神的なつらさはなかったですか。
原発事故の被害が大きかった双葉郡の首長同士で話し合う機会がありましたが、ある意味そこだけが息抜きの場だったのかもしれません。本音を話せる場所だったからです。
帰還の時期や放射線量など地域によって違いはありましたが、共通する悩みも多く、「自分だけではないんだ」「みんな同じく大変な境遇の中で頑張っているんだ」と気づきました。
未曾有の災害でマニュアルがない中、私と職員はお叱りを受けることがよくありましたが、町民たちには国や東電に意見を言う機会はそうありません。だからある程度はやむを得ないと思っていました。
しかし、誰一人として復興してほしくないと思っている人はいません。国や東電を怒鳴って物事が解決するのであれば何百回と怒鳴っているかもしれませんが、そういう問題ではないのです。大熊町の復興に向け、真正面から議論を重ねてきました。
——本題に入ります。当時の菅直人首相が知事に中間貯蔵施設の県内設置を要請したのは2011年8月でした。渡辺さんにはいつ施設の受け入れに関する話があったのでしょうか。
震災と原発事故後、早い時期でした。国側の要職に就いていた人物から「渡辺さん、中間貯蔵施設を受け入れてくれませんか」と内々に言われました。
私は「とんでもない。うちで受け入れるには大きすぎる」と断ったのですが、「総理大臣が頭を下げたら受けて入れてくれますか?」と言われました。何を言っているんだと思い、「そんな問題ではないでしょう」と返しました。
ただ、この時から中間貯蔵施設というものと向き合うことになりました。当時の佐藤雄平知事が施設建設の受け入れを正式表明したのが2014年。その間、何年も考え続け、国と条件協議を行ってきました。最終的には「くるべきものがきた」という心境に変わっていきました。
福島全体の復興を進めるためには誰かが引き受けなければならない。当時は除染土をどうするかというのは非常に大きな課題で、これをクリアしなければ復興は進まないというのはわかっていました。まさに苦渋の決断、断腸の思いでした。それは共に中間貯蔵施設を受け入れた双葉町も同様です。
第一原発立地町で放射線量が高い大熊町の除染土をどこか別の自治体が引き受けてくれるのであれば反対していたでしょう。でもそれはない。町民の間でも「絶対に反対」「もう帰れないと思っているから賛成」「条件によっては話を聞く」と、三者三様の考えがありました。
どの意見が正しくて、どの意見が間違いだとかはなく、「絶えず正解のない問題に向き合っている」という感覚でした。

◇戦時中でも「土地と家を手放して出ていけ」なんて言われなかった
——他の自治体の復興を進めるために、大熊町が「犠牲にされる」ような気持ちもありましたか。
もちろんありました。ただ先ほど申した通り、誰かが引き受けなければ福島全体の復興が進まないという現実もありました。首長としては反対すれば楽です。でもそれは問題を先送りにしているだけなのです。
そして、中間貯蔵施設は国の仰せの通りに受け入れたのではありません。粘り強く条件協議を行い、安全協定の締結など地元の言い分を国にくみ取ってもらいました。
中間貯蔵施設は当初、大熊、双葉、楢葉の3町に受け入れの要請がありましたが、双葉町の伊沢史朗町長、楢葉町の松本幸英町長と3人でしっかり話し合ったこともあります。
その時、楢葉は放射線量が低くて早く帰還できる見込みが立っていたため、私と伊沢町長で「大熊、双葉で受け入れる」と決断し、松本町長には「楢葉は帰還に向けた動きが加速するような仕組みを考えてください」と伝えました。
国に言われた通りにするのではない。双葉郡の復興は自分たちで決めるんだ、という意思が確かにそこにはありました。
——国は当初、中間貯蔵施設の用地の国有化を示していました。提示された補償額は納得いくものではなかったようですね。
国有化には反対し、「『原発事故で使い物にならない土地を買ってやる』といったような高飛車な目線は絶対だめですよ」と伝えました。我々は好きで土地を提供しようとしているわけではなく、非常時だから協力したのです。
決して「価値が安くなったから提供します」と言っていたわけではありません。希望者が土地の所有権を持ったまま貸す「地上権」を求めた背景もそこにあります。
実際、先祖代々の土地や家を受け継いできた人々の思いは大きいものがあります。現職の時、高齢の町民からこんなことを言われました。
「町長、私は戦争を経験した。戦時中でも『土地と家を手放して出ていけ』なんて言われたことはなかった。ましてやお墓もある。中間貯蔵施設という名目で追い出されるなんて、こんな大変なことはねえんだ」
その言葉は非常に重かった。その一方で、国の人から「私も土地や家を手放す気持ちはわかります。親が転勤族でしたのでいろいろな場所に住みましたから」と言われたこともありました。
100年以上引き継いできた土地を追い出される町民の思いと、転勤族だから気持ちがわかると言った国の人。あの時は言葉を失いましたが、だからこそ国とは条件協議をしっかり行ってきました。
中間貯蔵施設の地権者は何年も考えて結論を出してきました。土地の提供に協力すると決心し、いざ紙にハンコを押そうとしたら最後の最後で手が震えて押せないそうです。2045年3月までに除染土を県外で最終処分するという約束には、このような町民の思いや決断も込められているのです。

◇「総論賛成各論反対」ではなく「自分のこと」として
——まさに福島県外の人にも知ってほしい町民の思いですね。
町民の思いという点で言えば、町と町民の懇談会の時、郡山市に避難している人からこんな声が上がりました。
「近くの小学校の校庭にフレコンバッグ(除染土などが入った黒い袋)が積み上がっていて子どもたちがかわいそうなんだ。だから中間貯蔵施設の受け入れに協力してほしい」
その発言の後、周囲の人から「お前は何を言ってるんだ!」と激怒されていましたが、「お世話になっている避難先の自治体のためにも協力したい」という人はほかにもいました。
今でも忘れませんが、当初の懇談会で反対の声が多かったことを受け、ある職員が「受け入れは反対するしかなさそうですね」と言ったことがあります。確かにそれは正論ですが、単純に多数決で決めていいのか、町としてどうあるべきかが重要ではないか、と私は伝えました。
町民の避難を受け入れてくれたり、支援してくれたりした人への感謝の念は当然消えることはありません。寒い時に毛布を持ってきてくれた人。「何かあったらいつでも言ってください」と声をかけてくれた人。軽トラックに米や野菜を積んで駆けつけてくれた人。各避難所や体育館ではそんな光景が広がっていました。
感謝というと日常にありふれた言葉のように思えますが、私たちにとっては絶対に忘れてはならない言葉の一つでもあります。熊本地震の時、何人もの町職員が現地での支援に立候補してくれましたが、その時は本当に嬉しかったですね。
——中間貯蔵施設の受け入れを表明した時、心ない言葉もあったのでしょうか。
ありました。町外の人から「簡単に中間貯蔵施設なんて受け入れるな。福島全体のイメージがダウンする」という電話が役場にかかってきました。「福島第一原発ではなく『大熊双葉原発』だったらよかったのに」というのもありましたね。
ただ、第一原発で作られていた電気が都内など関東に送られていたことを知った人が寄付をしてくれたこともありました。「年金生活者なので微々たるものですが」と、毎年1万円を寄付してくれていた大阪府の人もいました。
心ない声もありますが、心の温かい人もいます。除染土の最終処分や再生利用の理解醸成が進んでいくと信じています。
ただそのためには、国だけでなく福島県も地元の意見をしっかり発信する必要があると思っています。さもなければ、最終処分の段階で再び双葉と大熊でどうこうすべきだという事態になりかねません。
双葉町の伊沢町長が先日、除染土の再生利用について「まずは県内で取り組む必要があるのではないか」と私見を話していましたが、背景にはこのような心配があったのではないでしょうか。
——除染土の県外最終処分まで残り20年。全国の人に呼びかけたいことはありますか。
「苦渋の決断」で中間貯蔵施設を受け入れた時、飯舘村の村長だった菅野典雄さんが首長同士の懇談の場で、「大熊と双葉の英断で除染土が集められることになった。『引き受けてくれたからよかった』ではなく、我々も大熊と双葉のために何ができるか考えていきましょう」と発言してくれました。
もしかしたら「自分のところに降りかからなくてよかった」と思っていた首長もいたかもしれません。そんな中、菅野さんの発言は嬉しかったですね。これだけ大きな問題です。全国の人には「総論賛成各論反対」ではなく「自分のこと」として捉えてほしいです。
大熊町には震災と原発事故前まで1万1505人が住んでいました。あの日を境に人生が大きく変わった人もいます。町も全域で避難指示が解除されたわけではありません。中間貯蔵施設のために断腸の思いで土地を提供した町民がいることはこれまで述べた通りです。
除染土の県外最終処分は国との約束事。残り20年しかありません。町が歩んできた歴史や町民の思いを知り、皆さんでこの問題を考えてほしいです。(取材・文=相本啓太 / ハフポスト)