アメリカの高校で教員をしていて、数週間前に驚きと心配が入り混じった経験をした。
生徒たちに作文の課題を出した。「誰かに信頼してもらった経験」か「誰かを信頼した経験」からテーマを選んでもらうというものだった。
課題を伝えると、1人の生徒がパニックを起こし始めた。
「AIを使っちゃダメなら、Googleに課題のアイデアを聞かないと」。その生徒は許可を懇願すると、スマホのGoogle検索ボックスに「誰かがあなたを信頼してくれた時」と打ち込み始めた。
「あなた自身のことを書いてほしい。あなた自身の経験はあなた自身の頭の中にしかないんだよ」。私がこう言ってもなお、この生徒は自分の内側からアイデアをひねり出すという考えには至らなかった。
この課題の狙いは、高校生のうちに自分で考えることを学び、自信を養い、大人になって複雑な問題にぶつかった時にとことん考えることができるようになってもらうことだ。
高校生が自分の考えをもデジタルテクノロジーに外注することに慣れてしまっていて、恐怖を感じた。
ライティングを教えるにあたり、思考についても一緒に考えるように促している。高校で英語を教える教員というものは、考えや気持ちをどうやって言語を使ってより正確に表せるかを学ぶ手助けをする人たちだ。私もその1人なのだが、生徒たちはスマホやパソコン画面に自分たちの考えを委ねてしまっていて、「あなたの考えには価値がある」と知ってもらうことがどんどん難しくなってきている。
生徒たちの情報源はTikTokやYouTubeの動画で、買い物だって動画の合間に流れてくる広告を参考に選ぶ。
別の生徒の主張も強烈だった。ライティングの授業は無意味だとするその生徒の主張は「AIがやってくれるんだから」というものだった。「書く」過程を無意味だとこの生徒が考えるようになったのはなぜか。
本来受け取るべきではないメッセージを絶え間なく投げつけられているからだと思う。YouTubeでAIのライティング支援アプリ「Grammarly」の広告を目にし、TikTokでは最新版のChatGPTをダウンロードするよう誘惑される。子どもたちを受け身の消費者にするために選りすぐられたメッセージに、常にさらされているのだ。
生徒たちに送られるメッセージは戦略的に選ばれており、その結果、自分が何者であるかについて間違った考えを抱く子どももいる。
実際、その戦略はうまくいっている。日々、そう感じる瞬間がある。「Grammarlyを使わなかったら1文でさえも書けない」と言ってきた生徒もいる。また別の生徒は「ChatGPTが手放せない。友だちみたいにいつでもすぐそばにある」と言うのだ。
アウトラインや下書きのような下準備のため、生徒が教室でAIを使うことを認めている教育者はたくさんいる。そうすることで、生徒が先生に隠れてこっそりAIを使うことを防げるからだ。
しかし、生徒たちはAIを使って作文などの課題をこなし、自分が書いたと主張する。対策として、ノートにペンで作文を手書きさせるようになった先生たちもいる。そうしているという同僚いわく、「少なくとも画面は見ずに、自分の言葉で書いている」。そうは言っても「もはやライティングを教えられていないように感じる」ともつぶやき、「コミュニケーションが希薄化したもの」とみているという。
ライティングは考えることでもあるならば、考えることには全てが詰まっている点を踏まえると、現状は生徒にとってもいいことはないし、その生徒たちに教えようとしている先生にとっても良くない。
私は高校のほか、大学でも教員をしているのだが、大学生たちにも似た傾向が見受けられる。
前学期に出した課題のエッセイ4つすべてをAIで作成した学部生がいた。すぐにAIを使用しているとわかった。文法は完璧だが、一般化されたおもしろみのない表現が散りばめられた文章が並んでいた。その学生は授業に出席していたが、エッセイは批判的思考について考えるためのものという課題の狙いを読んでいなかったため、クラスメートとのディスカッションにろくすっぽ参加できなかった。
シラバスにはエッセイのような課題にはAIの使用は認めないと明記していたため、この学生にAIを使ったものか尋ねたところ、「出された課題はちゃんとやりました」と答え、悪びれる様子は皆無だった。この学生が「やった」というのは、AI生成ツールにエッセイ課題を入れ、エッセイが仕上がるまで数秒待ったことだけ。課題に関与していないのに「自分でやった」と思っているため、授業には準備万端で臨んでいると思っていたようだ。「何もやっていない」のに。
授業に臨むこの学生の瞳には、スクロールするノートパソコンの画面が反射していた。私はてっきり自分が怒りを感じると思った。この3時間の授業のために、何時間もかけて準備をしてきているのだ。しかし、怒りはなかった。代わりに、大きな悲しみが襲ってきた。その瞬間に、この学生に近づくことはできないと感じた。この学生のことを理解することはできない、と。
何時間も一緒に過ごしつつも、本当の会話というものをしたことがない。生活や人生について質問をしても、単語1つで返してくる。単位が必要だから授業には出席するが、授業に貢献することはなく、担当教員である私に望むのはいい成績をつけてもらうことだけ。私たちの関係を妨げているのは単にテクノロジーだけでなく、経験よりも結果を優先する教員と学生の取り引きのような関係によっても苦しめられている。
私は世代的に、ビッグテックが教育現場に入り込む以前、教室でどんなふうにディスカッションが繰り広げられていたか覚えている。当時の学生たちは新たな学びに目を見開き、教室で新たなアイデアが生まれ、育っていく。画面上で受け身的に繰り広げられる15秒間の上部だけの動画を通して生まれるのではない。
教室でのこういった機会が完全になくなったわけではない。しかし、学生たちがビッグテック企業のサービスに依存するほどに、こういった機会はどんどん減っていく。
禁止された課題へのAI使用を悪びれない大学生が悪いわけではない。勤務先の高校の生徒たち同様、この学生もまた大学に入るまでに受け身の消費者へと育てられてしまい、想像力を働かせて革新的な考え方ができるように訓練されてこなかったのだ。
この大学生が現在2年生ということから考えると、高校時代の後半は課題に何らかしらのAIを使ってきたのだろう。きっと自分自身で書いた作文を提出するのがどんな気持ちか知らないのだ。自分の作品を生み出し、そこに注ぎ込んだ自分の考えに誇りを持つ気持ちを知らないのだ。
私たち大人は若者にひどい不利益を与えてきた。ものすごく魅力的なテクノロジーを使うべき時とそうでない時を若者が見極められることを期待する一方、どんな困難に直面したとしてもAIに溺れるべきではない確固たる理由を筋道立てて伝えきれていない。
社会全体として、子どもたちに及ぶ長期的な影響について十分に話し合えていない。学校を苦労なく卒業したけれど、自分の頭で考えて問題解決する方法という基礎的な能力を学んでいない世代たちに及ぶ影響について、議論がなされるべきだ。
社会は、警鐘を鳴らす教育者たちの声に耳を傾けることもしていない。ChatGPTの存在を意識していると答えた大学教授の72%がChatGPTによるカンニングへの影響を心配しているとする調査結果も出ている。しかし、だからといって何をしたらいいのかわからないし、抵抗するのに必要なサポートもない。
教育機関は無批判にAIを受け入れ続け、AIの危険性や限界、結果としてもたらされるものについて熟考することなく光の速さで教室に導入している。AIは学校向けに作られていないにもかかわらず、見過ごされている。
ビッグテック企業にとっては喜ばしい話だ。学生たちに考えを「外部委託」させ、批判的思考を展開する能力を奪うことで数十億ドルの利益を上げている。
ChatGPTを開発したOpenAIの月あたりの収益は、2024年8月に3億ドルに達した。2023年初めから1700%の伸びとなった。グーグルは教育者向けの製品を通してアメリカ、イギリス、インドの教育現場に入り込んでおり、企業価値は2兆ドルを超える。これらのテック企業が利益を急上昇させる一方で、アメリカの公立校では大変な資金不足の状態が続いている。
数週間前に作文の課題を高校生に出した際の話に戻るが、別の生徒から「どう答えたらいいのですか」という質問も上がった。
「あなた自身の生活や人生について考え、言語を使ってそれを書いてみて」と伝えたところ、「嫌です。そんなのぼーっとするだけだから」という返事が返ってきた。
生徒たちには伝え続けていこうと思っている。それが私の仕事だし、そうしたいと心から思っているから。しかし、AIを利用せずに課題をするメリットを説き、許可していない課題へのAIの使用をなくすために使う時間とエネルギーは、私が本来教えるべき物事に費やす時間とエネルギーを奪っていく。
それでも、生徒たちが常にAIに頼るのではなく、AIなしでも何ができるのかに気づくことを願い、できることはやるつもりだ。高校と大学で教える同僚の多くも感じていることだが、教育者は常にAIを使うことなく学び、生きることがいかに重要かを生徒たちにわかってもらうという困難な闘いにどこまで挑み続けるべきだろうか。
「ちょっと作業します」と例の生徒は言い、まるで抗えない重力に引っ張られるかのように学校配布のノートパソコン画面に映し出されたGoogleに関心を移した。生徒の机までは60センチほどの距離しかなかったが、その瞬間、宇宙の果てにいるほど遠くに感じられた。
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筆者のLiz Rose Shulman氏はSlate、The Boston Globe、Newsweekなどで執筆している。エヴァンストン・タウンシップ高校とノースウェスタン大学で英語を教えている。
ハフポストUS版の記事を翻訳・編集しました。