この人生ずっと太っていると思っていた。実際に太った時、ある考えを手放すことができた

もう1日たりとも、私に何かおかしなところがあるという考えに自分を抑え込ませたくはない。自分に制限をかけることなく次の数十年を生きたい。

ここ数年のことだが、女性の中でも特に40代以上の人にとっては珍しくないと思われることを何度も経験している。

数十年前に撮られた自分の写真を目にする。InstagramのアーカイブやiPhoneの「◯年前のこの日」の機能で表示されるのだが、写真の中の自分が思っていたのと違って見えるのだ。もっと詳しく言うと、その写真が撮られた時や過去に見た時に抱いた印象とは違うのだ。

例えば、まだ小さかった息子がバーベーキューレストランで私の膝に頭を乗せて寝てしまっている1枚。当時は写真に写った自分の姿を見て、何てひどいんだろうと思い、傷ついた。その頃からほんの数年しか経っていないのに、今同じ写真を見て感じるのは微笑ましさだ。

息子と写る筆者(左)=2018年
Photo Courtesy Of Emily McCombs
息子と写る筆者(左)=2018年

体にぴったりフィットしたヒョウ柄のドレスを着た写真もある。オフィスのソファの端に腰を下ろし、気まずそうにポーズを取っている。その時に感じていたとんでもない恥ずかしさと自意識が今でも甦ってくる。しかし、同時にそこに写っている自分の体の曲線がとてもカッコよく映る。昔の私は一体どこを見ていたのだろう?!

当たり前だが、写真は変わっていない。私がレーシック治療を受けたわけでもない。自分の見え方が変わったのだ。遷移があまりに急激で急速だったため、過去と現在の間にある隔たりをつかみきれないでいる。最も戸惑っていることが体のサイズについての解釈だ。わずか数年前までは、まわりに自分のことを「太っている」「ぽっちゃりしている」「プラスサイズ」「曲線的な体をしている」と言い続けてきた。疑いなくそれが真実だと思っていた。しかし、写真を見返し、間違いだったと気づかされるようになった。

私の醜形恐怖症には理由がある。大前提として、特に女性は非常に厳しい美の基準に沿うことを強いられ、それに満たないと残酷なまでに罰を受ける。私が思春期を過ごした時代はまさにそうだった。歌手で俳優のジェシカ・シンプソンがハイウエストのジーンズを履いた際に「ジャンボなジェシカ」という見出しの記事が出て、その後ジーンズがサイズ4だったと暴露された。モデルでテレビ司会者でもあるタイラ・バンクスはリアリティ番組「America’s Next Top Model」で参加者たちの体重をみんなの前で測り、辱めた。「5-7-9」というファッション小売店の存在も忘れてはいけない。この店ではジュニアサイズ9より大きい服は扱っていない。

私は幼少期からぽっちゃりしていて、思春期も太っていた。外見のせいでひどいいじめに遭い、自分の体を変だと思うようになった。ダイエット文化のおかげで、何をすべきか知っていた。家族全員が大きめだったこともあり、流行りのダイエットには詳しかった。有名フィットネスインスタクターが提唱するものから、イエス・キリストと同じ食事をするといったようなものまで。結果的には糖質制限が一番効果があった。大学2年生の1年間に100ポンド(約45キロ)もの体重を減らした。

減量後にパニックを起こした記憶は今でも鮮明だ。大学の授業を抜け出し、トイレに駆け込み、ちゃんと痩せたまま保てているかを鏡で確認したくなる衝動に駆られることがたびたびあった。

鏡に映った自分は紛れもなく痩せたままだった。しかし、私の自尊心は凝り固まっていたため、その後20年にわたって痩せた体型を必死に維持してきたにもかかわらず、自分の体を客観視することができなかった。20ポンド(約9キロ)や30ポンド(約13キロ)の体重の増減を繰り返し、自分の体がどんなふうに見えているのか、どのサイズの服が合うのかわからなくなった。

大学卒業後、デジタルメディアで働き始めた。最初の仕事は男性向けサイトの編集で、楽しい日々を過ごした。しばらくして、コメディ動画シリーズの脚本を手がけ、出演もするようになると、体型や外見について絶え間なくネガティブな意見が届くようになった。発信者はスーパーモデルを「平凡」と呼ぶようなネット上に巣食う男性たちだ。

この類の男性たちの目に「ヤリたい」と思われる体になるためのプランを書き出したオンラインフォーラムのスレッドを目にしたこともある。数カ月かけてジムでトレーニングを行うとか、歯のホワイトニング剤を使うなど書き連ねられていた。

フェミニズムに傾倒する女性向けサイトに職場を移してからは、状況が改善したと言いたいところだが、そうはいかなかった。記事に記者の顔写真を付けることが必須だったため、「わあ、エミリーはすごく太っているよね?」というコメントや、当時27歳だった私のしわをあげつらって「年齢を詐称してるはず」という言いがかりはなくならなかった。

私がこのようなメッセージを頑張って忘れようとするとすぐに、ソーシャルメディアでは怒れる男性たちがそうはさせまいと定期的に使い捨てアカウントを作って嫌がらせのコメントを書き込み続けた。 

最高体重を記録した時に着ていた最も小さいサイズは、一般ではプラスサイズとされているものだった。しかし、振り返ってみると、身長5’11(約180センチ)で、大きめの胸をしていたからだと思う。(あの胸は場所をとる!)

私が厳密に「プラスサイズ」かは別にして、ネット上で愚かな人たちからどれだけ太っていると言われてきたとしても、十分に細い体型をしていて申し分ないほどの特権を享受できる世界で活動できていたことが私は見えていなかった。

細い体型の人に与えられる特権があることに気づいていなかったわけではない。45キロ減量する前と後で、まわりからの扱いが変わったことには当然気づいていた。だから、その後数十年にわたって落とした体重を戻さないように必死だった。減量によって世界が変わり、みんなに優しくしてもらえた。

自撮りする筆者。2018年ごろの写真で、太っていると思い込んでいた
Photo Courtesy Of Emily McCombs
自撮りする筆者。2018年ごろの写真で、太っていると思い込んでいた

しかし、あらゆる体型の女性が押し付けられているバカげた美の基準に傷めつけられてきたことによって、物事の全体像を見失っていた。被った害は深刻だ。ほんの少し体重が増えただけなのに恥ずかしさと自己を呪う気持ちが湧き上がり、長い間苦しめられた。文字通りひとかじりしか食べていないのに罪悪感に苛まれ、自分を嫌って数十年を過ごすはめになった。

そうは言っても、私が感じていた苦痛は、実際に太っている人々が経験する社会的な権利の剥奪と同等とは言えないものだった。減量後は、体に合う洋服を見つける苦労がなくなった。飛行機に乗る際に恨めしい目で見られたり、罵詈雑言を浴びたりすることもなくなり、座席に収まらないなどと苦労することもなくなった。これらの困難は、自分のことをかわいそうに思うこととは比較にならない経験だ。

このことに気づいたきっかけは、身をもっての体験を通してだった。再び体重が増えたのだ。コロナ禍のロックダウン中の2020年に増え始めた。それまで20年間、精神的にも肉体的にも多くのエネルギーを費やして増やさないようにしてきた体重が70ポンド(約30キロ)増え、最終的には 100ポンド(約45キロ)増えた。

体重は増えてしまったが、まだ多くの特権を享受している。肥満恐怖症は体のサイズが大きい人ほど目に見えない存在にされる傾向がある。洋服を買う際には、まだ私よりも上のサイズがある。有色人種で太っている人たちは、障害があり太っている人たちと同様に、白人で太っている人たちに比べてより差別されている。

医師に診てもらうと、血液検査をすることもなく、ちらっと私の姿を見るだけで、GLP-1注射や減量手術といった極端な選択肢を必ず勧められる。私は自己免疫疾患とそれによって起こる合併症の治療中のため、健康上の問題はいずれも体重のせいではなく、減量によって改善されるものではないにもかかわらず、このようなことが頻繁に起こる。

単なる迷惑な話ではすまない。医療現場で差別を受けることが意味するのは、太っている人々が必要な治療を受けられなくなったり、そもそも受診することを完全に諦めてしまったりすることにつながりかねない。

私自身の体験を話すと、ヘルニアの治療をしてもらえずにつらい1年を過ごしたことがある。最初に受診した外科医に、体重を30ポンド落とさないと手術をしないと言われたからだ。あるいは減量手術を受けない限り。減量手術なら喜んですると言われた。

今日では、かつて太っていたインフルエンサーたちでさえ、自己受容のメッセージを室内でウォーキングをするための商品や糖尿病注射薬の処方を宣伝するスポンサードコンテンツと置き換えていることからもわかるように、社会に根付いた肥満恐怖症は以前にも増してあちこちに存在している。

このエッセイで私が伝えたいことは、自分の思い込みに反して明らかに太っていない写真を延々と見せることではない。脳を破壊して女性に自分自身の姿を正確に見ることをできなくさせる、社会が押し付けてくる病的に小さい数字でもない。

伝えたいポイントというのは、私も長年そうしてきたように、ボディポジティブという考えを平均的な体型を「愛せる」ようになりたい白人の女性向けの自助プログラムだと思っている人が非常に多いということだ。ここでいう白人の女性は、太っている人々を虐げている社会システムにおいて恩恵を受けられている人たちなのだ。

もう2025年なのだから、目を覚ますべきだ。(Instagramにポーズ写真と、おなかにほんの少ししわが寄っている気取らない写真を上げるのやめません?本当に太っている人は上半身をひねっても、姿勢をよくしたとしても太っている)。

太った体で生きることがどのようなものかという視点を欠くことは、実際に太った体で生きている私たちの感情を害することであり、対立を引き起こす。それだけじゃない。文字通り満たすことが不可能な美の基準から外れた自分を受け入れるためのこの長い旅路は、とてつもない時間の無駄以外の何物でもない。

今も私は自分の体を残念に思ってしまうが、かつてほど体に執着しないようになった。体重は増えたものの、だからといって自分に何かしらの欠陥があり、まわりの人たちが享受するものを受けるに値しない存在だという考えを手放すことができた。それらの物を手にするために、魅力的な体をしている必要も痩せている必要もない。私はただ、内なる気持ちに一度も目を向けてこなかったのだ。他人軸で思わされていた感情だ。

昔の私はどんな体型をしていても満足はしなかった。大きな視点の転換によって気づいたことは、いつだって私は十分すばらしかったということ。こう気づくまで何十年もの日々を無駄にすることがなかったとしたら、私の人生はどう違ったものになっていたのだろうか。

「太っている」から「価値がない」という誤った原理に意味もなしに人生の大半を左右させてしまった。着られる服からデート相手に至るまで、まちがった考えにコントロールされていた。

もう1日たりとも、私に何かおかしなところがあるという考えに自分を抑え込ませたくはない。自分に制限をかけることなく次の数十年を生きたい。そして何よりも大切なのは、すべての人にとって暮らしやすい世界にすることを阻んでいる真の障害を取り払うために、これからの私の人生を使うことだ。

◇     ◇     ◇

筆者のEmily McCombs氏はハフポストパーソナルの副編集長。アイデンティティ(人種、ジェンダー、セクシュアリティなど)、愛、恋愛、セックス、育児、家族、依存症、メンタルヘルス、体を張って権力に立ち向かうことなど、あらゆるテーマのパーソナルエッセイを自ら書くほか、編集も手がけている。

ハフポストUS版の記事を翻訳、編集しました。