夫婦間で決断をする際に設けたルール、結婚生活をハッピーに続ける秘訣となった

パートナーが一方的に希望を通せば、恨みが募る。ないがしろにされた気持ちは、別れるきっかけになることもある。

数年前、アメリカ・ニューヨーク市にある医大の学長室で働くという「夢」の仕事をオファーされた。仕事に対する価値観にぴったりの職場で、絶好のチャンスだった。何よりもニューヨークに住むという長年の夢が実現するのだ。だが、思うがままに飛びつくわけにはいかなかった。妻のパットと暮らす家はニューヨークから400キロ以上離れたニューハンプシャー州にある。オファーを受けるか返事をする前に、妻とひざを突き合わせて話し合うことになった。

私たち夫婦はこの30年、「意図的」な意思決定を心がけてきたのだが、今回は難関だった。子どもたちは成長し、すでに巣立っている。当時勤務していた医大は問題を抱えてゴタゴタしており、私は新天地で再スタートを切りたかった。一方、妻は職場を気に入っていて、辞める気はない。自宅の庭にもこだわりがあり、引っ越す考えはなかった。そこで私はオファーを受ける場合には、ハイブリッド車を購入して週末ごとに自宅に戻り、家の仕事や犬の世話をし、毎日欠かさず電話をかけると提案した。

「ねえ、挑戦してみたいんだ、80-20。ワクワクするけど怖さもある、80-20」と妻に打ち明けた。

何日も話し合いを繰り返した。

「やってみたら?55-45」。妻は言い、「私も不安だけど、やってみるべきだと思う、55-45」と背中を押してくれた。

オファーを受けるか、受けないか、合意に至った。

数字の意味

ところで、いったい何の数字なのと気になっている人もいるだろう。

物事を決める際に数字を導入したのは、付き合い始めたばかりの頃だった。当時、2人ともニューヨーク州北部で家庭医学科の研修医をしていた。勤務時間は週80時間にも及び、3日に1回は当直が回ってくるという日々だった。付き合い始めて2週間が過ぎたところで、一緒に夕食を取る時間をなんとか作り出したのだが、メキシコ料理と中華料理どちらにするか決めないといけなくなった。

メキシカンレストランの評判は聞いていた。しかし、初デートで訪れた中華レストランも捨てがたい。

「どこで食事をするか」という問いは、すぐに「どこで食事をするかについて2人の間で決めるにはどうしたらいいか」という高次元の問いに変わった。熟考を重ねてしまうと、お互いとも相手を喜ばせたいと思いから、相手がどちらを希望しているの読み取ろうとするところが想像できた。

付き合い始めた頃の力関係は後々まで影響するという考えで一致した私たちは、公平と平等をめざすことにした。メキシコ料理か中華料理かという問いが、夫婦として暮らす中で物事を判断する基準となった。

相手の考えに影響を及ぼすことなく、希望を伝えるにはどうすればいいか。それぞれ行きたいレストランを決め、結果を出し合ってはどうか、と妻から提案があった。自分の気持ちに正直にどちらかを決め、譲歩はしないというもの。「でも、ちょっと待って。やっぱりダメだ。意見が割れたら?ぶつかり合うだけで、答えは出ない」。

少し考え、2人とも数字と定量的思考に慣れていたことから、希望の度合いを数字で示してはどうか今度はこちらから提案してみた。もし妻が中華レストランを希望し、その理由が「初デート」で経験した気持ちをまた感じたいというのであれば、その店の「ムーシューチキン」が食べたいという理由よりも、中華レストランに行きたい気持ちは強いと言えるだろう。同じように、私がメキシカンレストランを希望するのが、単に気分転換になるからなのか、エンチラーダ(具材をトルティーヤで巻いて焼いたもの)にかけるために特別なモレソースを用意しているからなのか、相手は知る術がない。

そこで、「それぞれ好みの方を選び、希望の強さを言い合おう」と提案した。

0〜100の物差しを導入することにした。60-40なら、1つ目を希望する強さは60で、もう片方が40。この場合は1つ目を希望する強さはまあまあということになる。90-10は非常に強い、50-50はどちらでも構わない、という具合だ。

これには妻も賛同してくれた。じゃんけんでもするかのように、メキシカンと中華、どちらをどのくらい強く希望しているか伝えあった。2人が出した数字を足して、数字が大きい店に決定する。結果は、中華の勝利だった。私は麺料理が好物で、妻は茄子料理が好きなのだ。

このやり方において、50-50は単にどちらでも構わないことを意味するだけでなく、私たちが大切にしている平等であることを反映している。私たちはフェミニストであり、反戦運動や公民権運動に参加してきた人間だ。どちらかの希望が一方的に幅を利かせることには耐えられない。

自分たちの理想を再確認する意味も込めて、「ゴーマル、ゴーマル」と笑顔で唱えるのだ。だが、すぐに1つ問題が出てきた。私は食器洗いが好き。妻は犬たちをお風呂に入れることを好む。私は機械の修理が好き。妻はアイロンがけと裁縫が好き。これらの好みには昔ながらのジェンダー的な期待を反映しているものもあり、皮肉を面白がりもした。しかし、これらの家事に関するバランスをはっきりさせることは、夫婦生活がどう進んでいくかの分岐点となりうる。

暗黙のうちに夕食のメニューを決めるかのように責任を分担する夫婦たちを見てきた。お互いから心が離れていく夫婦たちも見てきた。理由は恨みのように思えた。

パートナーが一方的に希望を通せば、恨みが募る。自分だけ損していると感じるようになってしまう。ないがしろにされた気持ちが、別れるきっかけになることもある。

私たちは具体的ではっきりとしたコミュニケーションを取ることにしていた。夫婦ともに家族医ということもあり、傾聴のプロだった。日ごろからお互いに対して気持ちや考えを率直に、そして明確に伝えることで、恨みを回避できると考えた。すべての場合というわけにはいかないが。

36時間勤務を終え、心身ともにくたくたに疲れて帰宅した妻のことはハグで出迎え、お茶を淹れてあげる。ダイニングテーブルや廊下の台に編み物を置きっぱなしにしないという約束が守られていないことは、すぐには指摘しない。頃合いを見てから伝える。すぐにではなくても、伝えることが大切だ。もし言わなければ、散らかったままのテーブルを片付けたくなる性分の私が妻に嫌気がさすの同じように、妻もまた自分の荷物を勝手に触る私に恨みを募らせることになる。

こうして、0〜100の物差しを使って行動や選択の好き嫌いを表すようになった。妻が置いたままにした荷物に対してイライラする状態が55-45であれば、まあ我慢できるということ。本当に煩わしいと感じていれば、数字で表すと80-20になるという具合だ。この場合は、置きっぱなしの荷物について妻と話し合わないといけない。私がどんな気持ちになっているか踏まえて意思表示するのは、妻ではなく、私自身がすべきことなのだ。逆に、リビングにあるテレビとパソコンのコードがぐちゃぐちゃになっているのを整理すると言いながらなかなか取りかからない私に、妻がイライラを抱えていれば、妻はそう指摘しながら「70-30」とそっと伝えてくる。「70-30」と聞き、私はすぐさまコードの整理に取りかかる。

掃除などの家事や夕食のメニュー決めはささいなことではあるが、週を通してどちらかに負担が偏ることがないように心がけている。それぞれ5割方は希望が通る感じだ。もし、妻の希望通りになることの方が多いようであれば、それは誰のせいなのだろうか。もし、妻が「70-30」を多用して希望を通すとしたら、それは私が自分の希望を表す際に明確さが足りないということ。「60-40」と言っていたところを「75-25」と表現しないといけないのかもしれない。自分の希望が通らないなら、それは妻ではなく、自分のせいなのだ。

結果として、もしお互いに希望を伝える数字を「80-20」や「90-10」へと上げていくようになったら、それは何か深刻な問題があることを意味する。そうならないようにするため、必要に応じてセラピストのカウンセリングを受ける取り決めをした。実際にカウンセリングを受けたこともある。

すぐに決めなければいけない状況では、このやり方はうまく機能する。どのソファを買うか、どの慈善活動を支援するか、コーヒーショップの長い列からいつ離脱するか決める時などだ。

このやり方の真価が問われるのは、大きな決断をする時だった。いつどこで休暇を過ごすか、家を住みかえるか、結婚するか、引っ越すか、子どもを産むかというような重要なことを決める時だ。決断の重大さが増すにつれ、明確さと正直さの重要性も増していった。数字で表す仕組みを構築しておいて、本当に助かった。

妻は終のすみかに庭づくりをするスペースを希望した(80-20)。この希望は、芝刈りが大変なので芝生がそこまで広くないとうれしいという私の希望(60-40)を上回った。お互いのことを大切に思っているが、2人とも相手の心を読むことはできない。言語なしでは、わかりづらい。愛があるからといって、相手が何を望み、どうしたいと考えているのか正確に知れるわけではない。愛とは、自分を犠牲にすることなく、相手を尊重し、相手の希望や求めているものを大切にすることだ。そのためには、尋ねることも必要になるのだ。

決断には調整しない方がいいものもある。数字を使うという私たちのやり方では、違和感が生じるものもある。例えば、一方がもう1人よりもセックスを楽しみにすることがあった。そうなると、いつ、どこで、どのようにということを決めることが難しくなるのだ。もし、妻が弾む足取りでニコニコしながら寝室に入ってきたら、私はそれをいい夜になるサインと取るだろう。そんな時には「ねえ、しようか、90-10。どう?」と妻の耳に熱く囁きかけることはしない。育児関連の決定事項も、即決よりも合意が求められた。

年を取るにつれ、2人とも体がたるみ、動きもゆっくりになってきている。思考も昔に比べると鋭さを失い、今まで以上にお互いを思いやる必要がある。結果として、90-10という希望の強さを口にすることは減った。結婚生活の中心に「ゴーマル、ゴーマル」理念を据えつつも、本当に希望する物事には正直であることにこだわっている。

さて、冒頭で伝えた夢の仕事オファーについて、私たちはどんな決断に至ったのか。無事に受けることができた!自分の価値観を妻と明確に共有できていなかったら、オファーを断念し、素晴らしい経験を逃すことになっていただろう。

決断をする際に数字を使うというこのやり方は、私たちじゃなくても活用できる。子どもたち(医師ではない)も時々、パートナーとの間で使っているようだ。だが、強い絆や関係性を築いている彼らには、独自のやり方がある。愛とは、結局のところ、量的なものではなく、数値化できない質的な面も大いにあるのだ。

◇     ◇     ◇ 

筆者のDon Kollisch氏はセミリタイアした家庭医。キャリアの大部分をニューハンプシャー州郊外で築き、現在は短編フィクションの執筆に取り組んでいる。

ハフポストUS版の記事を翻訳しました。