7年間も何かおかしいと1人で苦しんだ。ようやくもらえた4文字の言葉は、私が必要としていたものだった

医師たちが正常だとみなし、病的なものとしないことで、人間としての私に原因があるかのように感じさせられた。

薬を処方されるまで7年間も1人で苦しみ続けた。診断にこれほど時間がかかったのは、人生初のカウンセリングでつまずいたからかもしれない。大学の健康センターのカウンセラーは私の話にほんの少し耳を傾けただけで、「あなたはいろんなことに感謝すべき」と結論づけた。家族と会話する時、メンタルヘルスが話題になることがほとんどなかったことも要因の1つだろう。私自身、悲しみを感じていることはわかっていたが、病気だとは思っていなかった。

精神障害は長いこと、偏見を持たれてきた。悪霊、ヒステリー、魔術、天罰…。様々なものが精神障害のせいにされてきた。この考え方が修正されてきたのはここ数十年のことだ。ミレニアル世代やZ世代は、それ以前の世代に比べて目を見張るほどメンタルヘルスにオープンだ。

どんな人でも感情にまつわる悩みを抱えているということは広く知られている。病的なものとみなすのではなく、誰もが経験するものとして受け止め、レッテルを貼るのはなく、「みんなそうなのだ」と捉える。だから「精神病」とはせず、「メンタルヘルス問題」や「課題」、「苦闘」などと呼ぶ。現代社会が勝ち取ったすばらしい勝利だが、見過ごせない点がある。

大学2年生の時だった。暗闇、無気力そして絶望が絡み合った苦しみが始まった。しかし、私はたまたまだと自分に言い聞かせた。せっかちな性分の私は、同じようにせっかちな友人と目まぐるしい会話を繰り広げた。英語を専攻していたため、分析と修正を行う教室での日々が日常生活にも入り込むようになった。前向きで明るい人間をも絶望の底に突き落とすカフカの作品をたくさん読んでいたことのせいにもしていた。通っていた大学が「派手」だったことも、罪悪感と混乱状態を引き起こす要因となった。キャンパスにあるカウンセリングセンターを後にし、自分が恵まれていることに感謝が足りていないことを恥ずかしく思った。

以上のことをすべてひっくるめて考えると、悲しみを感じていたのも無理はない。

4年生になると、ますます憂うつになった。しかし、これも当然のことに思えた。最終学年になると、将来への不安や現実世界に対する恐怖、大学での人間関係に悩む人は少なくないはずだ。

ところが、大学を卒業しても暗黒の時代は続いた。この現象に名前はあるのだろうかと思うこともあったが、友人を含め、まわりの多くが憂うつに苦しんでいた。自分の身に起きていることがそれに該当するか自信がなかった。人生の意味を探り、混沌とした20代を過ごしているぐらいに思っていたからだ。

セラピストも私の見解に同意しているようだった。セラピストは、孤独な時に起きる「憂うつ期」や「不安の瞬間」などという言葉を用いた。私が思考や行動パターンを変えるなどすれば克服できると言われた。

コロナ禍が拡大した2020年に入ると、状態は悪化した。6月にロサンゼルスに引っ越し、高校で教え始めると同時にオンラインで大学院に行き始めた。これらすべての変化のただなかで、ソファから起き上がれず、わけもなく涙がこみ上げてくる日が出てきた。しかしこの時も、ロックダウンの期間は誰しもが悲しみを感じており、私が悲しいのも当たり前だと自分に言い聞かせた。だけど悲しみは何カ月も消えることがなかった。ようやく、もしかしてみんなとは違うのはかもしれないと疑うようになった。2021年夏になると、状態はさらに悪化した。現在の夫である当時の交際相手を前に泣きじゃくった。「いったい私に何が起きているの?これは何なの?」

「うつだよ」。私の手を優しく握り、「あなたはうつなんだよ」と言われ、急に涙が止まった。「どうして今まで誰も教えてくれなかったの?」

その夏の終わり、週末を友人と過ごしていると、また新たな発見があった。夕食を食べようとしたところで、友人MがZoloft(抗うつ薬)を持ってくるのを忘れたと言った。友人Lが自分も同じ薬を持っているからと分けてあげようとしたが、錠剤サイズが普段Mが服用しているものよりも大きかったため、今度は別の友人が自分のZoloftを2錠取り出し、Mは安心したように飲んだ。

友人たちのやり取りを見ながら、「え、ちょっと待って、みんな薬を飲んでいるの?私はどうなの?」となった。

帰宅後、精神科に予約を入れた。

2021年から24年にかけて、薬を服用し、すばらしいセラピストとともに改善に取り組んだ。

私はためらいながらも、気落ちした状態になることをうつと呼ぶようになった。どのようにして症状が出てくるのかもわかってきた。体の動きが緩慢になり、頭の中に灰色の感情が広がる。それらを食い止めるために仕事の手を止めて休憩したり、散歩に出かけたり、お風呂に入ったりした。交際相手も理解してくれて、私が緊張状態になると屋外に連れ出してくれたり、おすすめの本を用意してくれたりした。

教職を離れ、もともと好きだった物を書くことを仕事にすることにした。すると、状態は少し上向いた。新たな友人ができ、家族と過ごす時間を増やした。状態はさらに改善した。交際相手と婚約し、結婚した。引っ越しをし、新しい仕事を始めた。この間ずっと、セルフケアとセラピーを続け、薬の服用も欠かさなかった。

仕事を休み、趣味に時間を使えるだけの資金があったのは幸運だった。うつ病に苦しむ人の多くが、セルフケアのための時間もサポートも持ち合わせていない。メンタルヘルスケアを受けることや受けるための資金がないのは言わずもがなだ。

昨春、いろんなことが忙しくなり、セルフケアの手を抜くようになり、仕事に割く時間が増えた。新しく始めた仕事に力を入れ過ぎたことに加え、初めて書いた小説の売り込みに忙しくて創作活動に費やす時間がどんどん減っていった。よくない方に物事が進んでいると頭ではわかっていたが、そのまま突き進んだ。体が弱っていき、頭の中は霧がかったようになったため、休憩して元気を取り戻そうとしたが、ついにどうにも立ち直れなくなってしまった。

私をはじめ、夫や友人、セラピストが「6月に起きたこと」と呼ぶ出来事がある。簡単な言葉で説明すると、死にたい気持ちになるという経験をしたのだ。突然のことだった。歌詞を隅々まで暗記している懐かしの歌のように、「もう生きていたくない」という言葉が口からこぼれ落ちた。

そこからの日々は、私の記憶の中で印のない扉に閉ざされ、果てしなく続く廊下の向こう側に存在している。夫にははっきりした出来事だった一方で、私はどこかぼんやりとひとごとのように感じていた。

「それはきっとあなたはそこにいなかったからだよ」。夫の言葉を聞いて、その通りだと思った。私の意識は、体から抜け出していたのだ。

病院を受診した。夫は仕事を休んでくれて、母も飛行機で駆けつけてくれた。友人たちは愛とサポートを送ってくれた。翌週になると、薬を増量するとともに、セラピーの回数も増やした。

状態が安定したところで、何が今回の危機的な局面を引き起こしたのか振り返った。仕事のストレス、疲労、孤立…。そのうえで、どうしたら良くなるか考えを出し合った。楽しい気持ちになる物事を中心に据えた暮らしを整えた。悲しくなるようなことは遠ざけた。

庭仕事に精を出し、腰を下ろして太陽を浴びた。教会に通い始め、ウォーキングクラブにも入った。新たに執筆活動に取りかかり、自転車を買って友だちにも会った。仕事量は減らした。大好きな人たちに電話をかけることが以前よりも増えた。メンタルヘルスについてもっと真剣に考えるようになった。これまでとは違い、今回は本当に危なかったと感じていたから。これらの取り組みを通して、状態は改善した。

しかし、揺り戻しでさらに悪化する結果に。

8月半ばには、薬を3倍に増やし、生活習慣を変えたにもかかわらず、死にたい気持ちが戻ってきた。とある火曜日の朝、机に座っていると、灰色の世界がどんよりと下りてきて、頭が霧がかったようにモヤり、体の動きが緩慢になった。まるで誰かが電源オフのボタンを押したかのようだった。

自分に驚き、苛立った。せっかちな大学生だった私はもういなかった。もがき苦しむ20代の私ももういなかった。気持ちを消耗させ、落ち込ませる思考パターンやに陥らないように必死に抗った。幸せでいるために、相当な努力をした。

だけど、うまくいかなかった。ソファに寝そべったまま、幸せを感じることができなかった。

その日のセラピーで、何をしても不安を感じると伝え、何かがおかしいと訴えた。「病的なものと見ることはやめましょうね」とセラピストは言った。

2日後、また別のセラピストを訪れた。まだ気分が落ちていること、ただ普通でいたいだけという気持ちを伝えたら、「あなたは正常ですよ」と言われた。

その足で精神科医を訪れた(本当に必死だったんです)。医師は投薬量について話すにあたり、「メンタルヘルス…問題を抱えているあなたのような人にとっては」という言い方をした。

セラピストや医師たちが正常だとみなし、病的なものとしないことで、脳に問題があるわけではなく、性格上の問題が原因だと感じたことを夫に吐き出した。病気でも疾患でもなく、人間としての私に原因があるかのように感じさせられた、と。

「ただ、誰かに『あなたは病気なんだ』と言ってほしいだけ」と夫に訴えた。

私に起きていることは病的で、病気だと呼びたかった。正常ではないんだと知りたかった。だって、もしこれが正常というならば?もし、どこもおかしくないというならば?私は性格に欠陥があり、人間的な何かを治さない限り、ウォーキングと庭仕事をやり続けねばならなくなる。

しかし、もしこれが病気だとするならば?もし、私の抱えているものが「問題」や「困難」ではなく、精神疾患だとするならば、自分を責めなくてすむのだ。性格を治す必要も、感情の起伏を嘆くことも、起きうる悲しみを避けるために日々考えを巡らす必要もない。もし、状態が悪化したとしても、それは自分の中の悪魔との闘いに負けたからではなく、単に脳がそのように働いてしまっているからということだ。

そもそも、偏見をなくすってこういうことなのではないだろうか。脳の働きに対し、恥ずかしさや罪悪感、個人的な責任を感じないですむようにできるのではないだろうか。逸脱した出来事を「普通」とすることは寄り添うことでもあるが、人々が直面している医学的な問題を覆い隠し、見かけよくするのは寄り添うことではない。

もし、私の話がまともに医学的な受け取めをしてもらえていたなら、19歳の時点で改善に向けた道を歩み始められていただろう。もし、悲しみや不安、無気力をもっと見抜く力があり、侮辱に対する恐怖がない社会であるならば、診断と本人を切り離し、診断結果について治療し、本人はそのままでいられるようにできる。

私の状態は改善し、これからも良くなるように取り組んでいくつもりだ。何がおかしいのか明確にわかったことが助けとなった。

直近のセラピーで、正式な診断名を尋ねた。セラピストは精神障害の診断マニュアルを取り出し、うつの種類を一つずつ見ていった。気分変調症、物質・医薬品誘発性抑うつ障害、持続性抑うつ障害…。

「症候群ですか?状況?体験?うつって一体なんですか?」と私は尋ねた。

セラピストはマニュアルを閉じると、ためらいがちにではあったが、ようやく私が聞きたかった言葉をくれた。

「病気です」

◇     ◇     ◇

筆者のイザベル・スティルマン氏はアメリカ・カリフォルニア州在住の作家。

ハフポストUS版の記事を翻訳しました。